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似せ者ですが、何か?

如何様ということ言葉がある。

何様とも判断の付かない様相を呈す者、転じておそらく、本物のふりをした偽物。

しかしこの世には、とてつもないほどの如何様が跋扈している。ヨルシカの「盗作」という作品を見て、そう”思わされた”。

では、私という人間は「本物」なのかと言われれば、私はあまりそのようには思えない。

そもそも私は、クローンではないが、親のコピーのようなものだ。身体的特徴で似通っている部分は見受けられるし、幸い親に育ててもらって、癖や考え方、言葉の使い方の中で似てくるものもある。

私という存在は、その肉体的条件からも、既に借り物の域を出ない。最近のウルトラマンが、歴代のウルトラマンの能力や特徴を継承しているように、やはり私も祖先から続いて存在している何かしらの特徴のコピーとも言える。

さらに、私の思想という観点からにしてもそうだ。

今私の思想の根幹を成しているのは、全てが私以外の人物やキャラクター由来のものだ。ウルトラマンメビウスなり、緑谷出久なり、オールマイトなり、ニーチェなり、中島義道なり、トルストイなり、カントなり、ショーペンハウアーなり、比企谷八幡なり、木田元なり。これらすべては他人である。

だから私の思想そのものが、私自身のものであるかと言われれば、それは怪しいのである。それは、私が盗んだものだからだ。精巧に私が自分の中で再構築しようと試みたものだからだ。

たった一つ特有の要素があるかと言われれば、私の「固有名詞」、つまり「姓と名」(名前)であろうが、これも所詮はおそらくコピーでしかない。

林修先生がおっしゃっていたのだが、この固有名詞(名前)の最大限の役割は、「指示機能」であるそうだ。

つまり、その固有名詞自体に、これといった一般的な意味はない。なぜなら、区別できればいいのだから。

「あなたの名前にはこういう意味があるのよ」と聞くことがあるが、それも結局は区別という行為の延長線上の代物にしかみえない。区別という行為を、少しでも特別なモノしようとしているのだろうか。

人の名前には、固有名詞ではない者、箱とか、悪魔とか、木とかをつけようとしないのは、もちろんそれが「指示機能」を果たさないからであるが、私はこうも思う。人間という存在を、一般意味レベルで規定するものがない。
つまり人間という存在が、その固有名詞のように、元から意味がない、意義もない、わざわざ区別しなければ、無いに等しい、なんとも弱弱しい存在であることを一層強調しているように見える。

私はおそらく似せものである。しかし偽物ではない。

遺伝子も、思想も、名前も、所詮は似せものにすぎない存在である。だとしたら、私の本物はどこにいるのだろう。いや、どこにもいるまい。

最終的に私を規定するものは、他者ではないだろうか。私は他者ありきではないか。ということは、私自身が私を規定することは出来ないのだろうか。

「私」のように見えるゲシュタルトは、そのパーツを見ていくと、モノの見事にコピーか模倣の類のようだ。

でもあれだろ、そのコピーや模倣の類の集合体が、それこそ特異なもので、「私」そのものだとか思っちゃうんだろう?あぁ、聞いたことあるよそういうの。まぁ、ただの美辞麗句にしか見えないけれど。

結局、「私」なんて存在していないのではないかと考える方が、良い様に思えてきた。さらに、この身体は今も、体細胞分裂という名のコピーを絶賛遂行中である。なんともまぁ優れた機械だこと。

「私」は常に死に、常に再生している。入れ物も、中身も、おそらくほとんど全部、「盗作」のようなものだろうからね。でも自分を盗作だと思っているのが「私」なのではという、デカルトのようなことを考えてしまった。つまんな・・・。また、誰かの意見のコピーかぁ、この記事も。

私は、私のことを「似せもの」だと言ったが、割と人間の本質は、「似せもの」かもしれないなぁ。




今日も_______は惟っている。



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