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私に話しかける「私」という君は誰?

この記事は

の続きです。

自己は自己の中で自己完結しないもので他者との相互行為の中で形成されていくものだ、と以前書いたのですが、

そこでまた新たな疑問が生まれました・・・。

二人で一人

「自己」が形成されるためには、他者が必要であると同様に

「自己」を意識するためにはもう一人の自分が必要になります。

ということは、一人の人物の中に「二人分」の意識のようなものがあるということです。

一人が、他者の心を反映したもの、つまり「自己」です。

しかし、ここで不思議に思うことがあります・・・。

「もう一人」は一体誰なのか・・・?

独り言を言ったり、頭の中で考えたりするときは「二人分」の意識が動いています。

そこでもやはり「私という自己」の存在は何となくわかるが、どうにも「もう一人」が誰なのか分からない・・・!

善の研究

ここで西田幾多郎さんのお力添えを。

引用です。

経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが合一している。これが経験の最醇なる者である。西田幾多郎、『善の研究』(岩波文庫、1979年)

もしかしたら私はもう一人の自分を経験しようとしているのかもしれません。

西田幾多郎さんの考えを基にすれば、真に純粋な経験をするには、主体とか客体とかいう枠をそもそも脱却せなばならないということでしょうか。

ならば、一人目の私を「自己」であると考えている時点で、私は「もう一人」を理解することができないかもしれない。

もしくは逆に

「もう一人」の自分こそが主や客を超えた存在であり、もう一人の私が、

私を理解しようとしている時に、私もまた「もう一人」を理解できるのかもしれないが・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・。

考えているうちに、分からなくなってきた・・・。

やはり不可解

考えれば考えるほど、逆に分からなくなる。

それと同時に、分かりかけていたような「自分」という存在も理解できなくなっている気がする。

自分という存在は確かに認識できる。しかし、「自分の中」を除いてみると不可解なことばかりだ。

「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」

とウィトゲンシュタインは言ったものだが、それでは考えることを最終的に否定しているような気がするので、

「語りえぬことについても、語らねばならないんだもの」

と決め

今日も大学生は思案を巡らせる。

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