ル・レエルから乖離し、ル・サンボリックとリマジネールの間隙で揺蕩う大学生。

ジャック・ラカンという哲学者に興味が湧いて、『ラカン的思考』とか、他にも数冊ラカンの本を読んでいると、あることに気づき、あることを帰納し、一つの確信のようなものを得ることが出来た。

『ラカン的思考』という本には、ラカンの概念として、「リマジネール」「ル・サンボリック」「ル・レエル」というものがある。その概念を見ていると、どうにもワタシにも通ずるようなところが有るような気がした。

理解が間違っていたら申し訳ないのだけれど、私の理解の内では、

「ル・レエル」が〈現実世界〉であり

「ル・サンボリック」が〈言語世界・思考世界〉であり

「リマジネール」が〈ナンセンス世界・無意味世界〉であると認識している。

もちろん哲学科でもないクソ独学野郎の理解の範疇なので、信頼性はあまり無い。とりあえずラカンの概念に触るなかで、私自身の暮らす世界についての確信のようなものを得ることが出来たということだ。

これは、私が最近よく音声コンテンツを聞いたり、誰かと話したり、日常生活を過ごす中で感じた言語化することが難しく感じていたものをよく言語化したものだ。(はよ書け)

人の会話を聴いていると、それは、大抵は「ル・レエル」寄りの「ル・サンボリック」という世界におけるものなのかもと感じた。それに対して、(ワタシ自身の特有性を誇示したいわけではないけれど)ワタシの考えること・話題・見方が、「リマジネール」寄りの「ル・サンボリック」という世界に入り始めているのかもしれないのだ。

(なんか、もう解り易く書こうとは思わないので、どんどん書きます。)

日々交わされる言葉。会話。音声。ニュース。それらはほとんどが、「ル・レエル」寄りの「ル・サンボリック」なのである。言い換えれば、現実世界寄りの思考・言葉である。

ワタシが最近身に着けてしまっているものは、ナンセンス世界・無意味世界にならないギリギリの、超コードしているもの寄りの思考・言葉と言えるだろう。

だから、日常の会話についていけなくなっている気がする。思考が、コードとコードの狭間に縛り付けられて、言葉が環境依存性を抜け出ようとするのを、なんとか止めて、けどその複数性や規定不可能性について、この思考が向かいそうになってしまう。

その志向性に意味がないってのに。

誰かが駄弁っている。コミュニケーションそれ自体の価値は、もちろん認められるべきなのに、それがどうも不確かなものの存在でしかないのにという確信のようなものがどこまでもワタシに追従してくる。

世界がアヤフヤだ。いつの間にか、「リマジネール」に向かおうとする。そこに行かないように、「ル・レエル」に留まろうとしている。そこに戻れるかどうかは、正直よくわからない。

どうしてここに来てしまったのか。ル・レエルから乖離し、ル・サンボリックとリマジネールの間隙で揺蕩う大学生は、果たして無事「ル・レエル」に帰還できるのか・・・



今日も大学生は惟っている。


参考文献

宇波彰.2017.ラカン的思考.作品社


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