くりおね

詩人。

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最近の記事

つれづれの旅にもありぬ赤のまま   森澄雄

たいそうな旅という旅ではなく、気晴らしの旅に出る。旅をすることによって、延々と続く日常における小休符であろう。次から始まるメロディーに変化がもたらされる。人は退屈を避けたい。一回限りの命がそうさせる。日々変化し時は流れ流される。その流れから少し逸れて、違う景色に触れてみると違った視点を得られてリフレッシュできる。どこかに置き忘れてきた大切なものに気づかされる。素朴ではあるがしみじみとした生命力。

    • 飾りつけ終り夜を待つ地蔵盆 右城暮石

      子どもは宝。地域の人々が見守り育てる。その素朴な思いが形となって、危険な個所には注意を喚起し、道祖神として子どもたちを守る。お地蔵様の縁日には、紅白に彩られた新しい前掛けや頭巾に着替え、子どもたちが喜びそうなお菓子や玩具を準備して、子どもたちが集まってくるのを待つ。日が暮れかかり提灯に明かりが灯された。あちらこちらの辻から期待に胸を膨らませて子どもたちが集まってくるのを待つ間、豊饒な時間が流れる。

      • 夏逝くや油広がる水の上   廣瀬直人

        夏が逝こうとしている。40℃をめざす勢いのある暑さだった。体温越えに挑戦する異常な暑さは、外界との区別を脳が判断できずに熱中症を引き起こした。古代よりその土地で育った環境に慣れてきた体内メカニズムが狂うのも当然。火をつけたらたちどころに燃え上がるような危険な暑さを伴う夏が、水の上に広がり薄められていくようだ。ようやく峠を越したのである。水面に広がる模様が、暑さに逃げ惑う人々の苦悩のように思われる。

        • 湯上りや涼風吹て眠うなる  正岡子規

          湯上りに涼風が吹いて気持ちのいい時期というのは限られている。薪を焚いて沸かす風呂の場合、外気温との差が10~15℃の頃である。夕暮れに気温が下がり、湯上りに吹く風が涼しく感じられると、夏から秋へ移り変わりを思い知る。暑さの峠を過ぎ、やっと過ごしやすくなってきた。とりまく森羅万象が安らぎを得、次にやってくる厳しい季節への備えをする。今は健やかな眠気にまかせ、こわばる身体の緊張がほぐれ幸せなひととき。

        つれづれの旅にもありぬ赤のまま   森澄雄

          切々と翅擦つて鳴く虫ならむ 鈴木貞雄

          盆を迎えたあたりから、まだ暑かろうがおかまいなく、太古から続く命は切々と営まれ、大気を劈き意気揚々と歌い出す。この生命力の逞しさに圧倒される。二枚の翅を擦り合わせ、子孫を繋ぐべく切々と訴える。生まれてきた使命を全うするために全身全霊をかけて鳴く。夜明け前、位置に着いた一日が始まろうとして息を潜める中、自然と共鳴しながら鳴く。生きているのを慈しみ謳歌する。私は凛として翅を擦り合わせて鳴く虫であろう。

          切々と翅擦つて鳴く虫ならむ 鈴木貞雄

          ひとゝきの明るさ秋の雨の中 石塚友二

          秋の雨は、春よりも明るく心地よい。濡れても平気。むしろ濡れたくなるではないか。炎天下、汗をかいて服が透けて見えるほどにぐっしょり。汗で濡れるより雨に濡れた方が気分爽快。もうすぐに家に着く。それまでのひとときを楽しみたい。こんなハプニングがあってもいいじゃないか。人生に一度くらいこんな日があってもいい思い出になる。雨の中を歩く。ただ雨が降っているのが嬉しい。大地の喜びが伝わってくる。

          ひとゝきの明るさ秋の雨の中 石塚友二

          朝顔に水やりしあと月待ちし 細見綾子

          お盆が過ぎてもまだ暑い。危険な暑さと警鐘を鳴らす。といっても、人はクーラーを利かせて避難できるが、草木はそうはいかない。朝に水やりをしても、昼過ぎにはぐったりしてしまう。異常な暑さに、大切に育てている樹や草花の悲鳴が聞こえてくる。日が暮れるのを待って、再び水を撒く。これでひと安心。少し心の余裕が生まれ、外に出たついでに月の出を待とうという気になった。一日が終わろうとするときに豊かな時間が生まれた。

          朝顔に水やりしあと月待ちし 細見綾子

          生身魂生くる大儀を洩らさるる    大橋敦子

          生身魂とは、存命の両親等の年長者・高齢者に礼を尽くすというお盆の行事の一つであり、その対象となる高齢者もまた生身魂と呼ばれる。生きるということは、楽しいことばかりではない。苦しいこと、悲しいことも表裏一体である。人間に定められた生老病死に日々迷い、悩み、葛藤しながら生きている。それは生きている御仏の姿である。生きているだけで尊い。艱難辛苦を耐え今を生きている。洩れ聞こえる大儀も人間として魂に響く。

          生身魂生くる大儀を洩らさるる    大橋敦子

          刃に触れて罅走りたる西瓜かな    長谷川櫂

          完熟した西瓜を叩くと、和太鼓のようにぽんっと張りつめた弾む音がする。一個の西瓜として完全な宇宙を形成し、生き生きと呼吸しているのが伝わってくる。膨らみきった風船にあともう一息で破裂しそうな西瓜に刃を当てるとその瞬間に、ポンッと爆ぜる音がして宇宙が崩壊する。たちまち緑の縞々の表皮に稲妻のような罅が入り、次第に拡大する割れ目から滴るような赤い果肉が現れる。真夏の太陽のような果汁たっぷりの西瓜である。

          刃に触れて罅走りたる西瓜かな    長谷川櫂

          八月を里に出てくる山の雷  伊藤白潮

          これまで山に居て鳴りを潜めていた雷神が、急に里に下りてきて暴れ出した。雷神様もいよいよ出番とばかりに勇ましい。春先に植えた稲は夏になると葉を茂らせるのをやめて穂を作りはじめ、8月上旬から中旬にかけて花を咲かせる。雷が鳴るほど豊作と言われる所以は、雷放電により空気中の窒素は酸素と結びつき窒素酸化物となり、これが雨に溶けて降り注ぐと稲の肥料となり成長を促進させるからである。颯爽と雷様のお出ましである。

          八月を里に出てくる山の雷  伊藤白潮

          唯一の玉音放送永久に盆 白石不舎

          8月15日は第2次世界大戦が終わった終戦の日。この日、昭和天皇がラジオを通じて国民に戦争が負けたことを告げる玉音放送が流れた。黙祷を捧げ、戦死された御霊の安かれと祈る。先祖を供養する盆と戦没者への慰霊が重なり、永久にこの組み合わせは続けられる。歴史を刻む千載一遇の機会を捉えた。「堪え難きを堪え忍び難きを忍び以て万世の為に太平を開かむと欲す」日本の象徴に相応しい格調の高い名文として今も心を揺さぶる。

          唯一の玉音放送永久に盆 白石不舎

          旅終わり母に戻りて盆支度  内田陽子

          お盆には家に居て、先祖を供養するものであるという古風な人である。新人類は、休みとばかりに海外へ旅に出る。年齢を重ねると、今に自分もされる側になるのだという自覚をし、置かれた状況を認識する。誰しも誰もが知っているようで知らない遠くへ旅立たねばならない。旅からもどって来られる幸せに感謝する。そして母になり、家を出ていった子どもたちが帰ってくるのを迎える。集う子どもたちの健やかなることに手を合わせる。

          旅終わり母に戻りて盆支度  内田陽子

          仏壇の火も入れ夕餉盆休 大野林火

          2024年(令和6年)の盆は8月13日(火)から16日(金)だが、山の日が日曜と重なったため12日(月)が代休となり、盆休みは8月10日(土)から18日(日)までの9連休となった。ご先祖様と共に過ごす静かな時間が自分の安らぎになる。自分のルーツを供養することは、自分という存在の確認に繋がり、累々と繋がる自分の原点を確かめるうえで貴重である。仏壇に火を灯し、共に生活をする。こうして人の血が受け継がれていく。

          仏壇の火も入れ夕餉盆休 大野林火

          音もなし松の梢の遠花火 正岡子規

          川に沿って街ごとに花火大会があるので、毎週末夕方になるとどこからか花火の音が地響きをたてて伝わり、ビリビリ窓を震わせる。嗚呼始まったと急いで2階に上がりあたりを見渡すと、明るいネオンが炸裂した後に時差を置いて大太鼓の音がズドーンと鳴り響く。これでワンセットである。遠くになるほど音は遅れてやってくる。終了間近になると連発する。パチパチパチと高い音が拍手のように聞こえてくる。これぞ夜空を飾る日本の夏。

          音もなし松の梢の遠花火 正岡子規

          青鬼灯加へととのふ盆支度 角川照子

          祖先の霊を呼び寄せ供養する行事として日本全国で行われる。年末年始とお盆には特別ダイヤが組まれ、日本民族大移動が起こる。この地球に人として生まれた幸運に感謝しないわけにはいかない。半年に1回家中をきれいに掃除をし、さっぱりとするいい機会。いつかそのうち使うかもしれないと片隅に退避させられていたものの収納、あるいは処分の決断を迫られる。最後の仕上げとして庭の鬼灯を仏様に供える。まだ青々として瑞々しい。

          青鬼灯加へととのふ盆支度 角川照子

          刈草の香がむんむんと樹を上る 廣瀬直人

          年がら年中草を刈る中で、一番草刈りの時季として相応しいのは今ごろだろう。勢いよく伸びる草をさっぱりしておきたいと、お盆前には誰しも思う。街路樹や路側帯、それぞれの庭も刈りあげられる。草を刈ると、草の切り口から香りが飛び散り、あたり一面に草の香りが漂う。むんむんとした熱気に蹴散らされた残滓から蒸散する草の香りが充満し、草の精魂が昇天するようだ。人の霊魂と交歓するかのようにゆるゆると立ち昇って行く。

          刈草の香がむんむんと樹を上る 廣瀬直人