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シネマの時間 -地下水道-

L'hommage アンジェイ・ワイダ

ポーランド映画を代表するアンジェイ・ワイダ監督は、2016年10月9日ワルシャワで亡くなりました。90歳でした。まだ、ワイダが存命だった頃の記憶です。

サン・ミッシェル辺りの映画館でアンジェイ・ワイダ監督のオマージュを特集していたので、「地下水道」を観に行きました。

かつてのパリは、まだまだ名作映画信仰が根強く、パリ市民達によって路地裏にひっそりと佇む古ぼけた小さな映画館が、それなりに人を集めていました。映画館は、こぞってオマージュと銘打って、映画監督や俳優、年代、ジャンル、と様々なプログラムを常に提供してくれていました。過去の名画を映画館で観れるという至福は、パリでの生活ならではです。リュミエール兄弟によって〝シネマトグラフ〟が発明され、全ての映画の始まりが生まれた1895年12月28日、パリのグランカフェの地下インドの間で、わずか33人の観客を前に行われた動く映像の上映会。それが世界史における映画の原点だったといわれています。こんな路地裏の映画館が今尚存続し、映画を求める人々が集うパリの文化は、今以て羨ましい限りです。
しかも、毎週水曜日は10franc(当時の換算レート約25円=1franc)程度で思う存分、映画館で映画を観るという、極めて純粋な好意が楽しめました。

映画を観るときには、いつも決まって視界に人の頭が見えないよう、誰よりも前に、スクリーンに向かって、やや左寄りのシートを確保する拘りがあります。これは、集中して没頭したいのと、前めのシートは、映像の迫力を感じらるのと、やや左から右前方にスクリーンを位置することによって、右脳に刺激を与えたい為です。右脳は感覚的、直感的な能力に優れています。そして、イメージで記憶します。従って、私の表現は、常にイメージ先行型になります。

1956年製作アンジェイ・ワイダ監督作品「地下水道」は、廃墟と化したワルシャワを舞台に描かれており、第二次大戦下のポーランドにおける対独ゲリラ戦の一挿話を描いた作品で、市民も参加し、その中で戦争の悲惨さだけでなく、芸術家も抵抗運動に参加していて、戦争最中なのにピアノで音楽を奏でたり、ダンテの詩を呟いたり、シンクロして圧倒的な美しさで『神曲』のベアトリーチェを思わせる女性との愛の場面が織り込まれていたり、人間の喜びも悲しみも表現されており、戦禍の中、絶望に近い灰色の世界から奏でられる、僅かな希望に響くピアノの音色の美しさは、脳裏に強く焼き付いたことは言うまでもありません。彼はショパンの「練習曲ハ短調作品10-12」革命のエチュードを奏でます。言うまでもなく、ショパンはポーランド出身の作曲家でワイダはショパンを「感情さえ論理化しないではいなかった音楽家」と評しました。このエチュードは 11月蜂起に伴う1831年のロシアのワルシャワ侵攻と時を同じくして作曲された作品です。劇中では、退廃と空虚のなか、何か元気の出る曲をと仲間にせがまれ、芸術家はこの曲を弾き始めます・・・

ワルシャワ廃墟

アンジェイ・ワイダ Andrzej Wajda 1926年3月6日 - 2016年10月9日 ポーランドの映画監督。ワルシャワ蜂起など史実に材を取った作品を撮り続けた。デビュー作の「世代」に続く「地下水道」(56年)がカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。ポーランドの対ソ連地下抵抗運動を描いた代表作「灰とダイヤモンド」と共に、抵抗三部作と呼ばれる一連の作品で不動の地位を確立した。2000年には米アカデミー賞名誉賞を受賞。親日家としても知られた。

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圧倒的な絶望とも微かな希望とも感じる、この映画のエンディングは、私の視覚を灰色の残像に染め尽くし、水路の中の暗黒と悪臭に侵された絶望の臭覚は、行き場を失って立ち尽くしていました。
私の眼は外の光の音色を求め、私の鼻は渇いた文化の香りを求め、街に放たれました。

こんな時は、サン・ジェルマンのカフェでエピローグを語り合います。美しすぎる街の様相が芸術の輝きに安堵感を与えてくれるし、隣の席に名の知れた哲学家がいたりすることも多いので、インテリジェンスな雰囲気にも浸れる要素があるからです。

パリの夜は、永く深く、大人達の語らいの為に存在するのです。



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