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モンペリエ・ダンス・フェスティバルを終えフランス Cirque de Navacelles紀行 -聖地礼讚-

2019年7月の話になる。
モンペリエ・ダンス・フェスティバルで、無事、初演を終える事が出来た。これまで、3年の月日をかけ、フランスと奈良を何度も往来し、大切な仲間との創作と、その生活に没頭してきた。
上演の出来は、まだまだ粗削りで充分満足出来るまでには至っていないが、創作とは常にそんなものである、と云う事も充分認識している。限られた制約の中で、ベストを尽くす事しか出来ないのが実情である。
私が取り組んでいる舞台芸術は、一回一回の本番が勝負だ。無論、其処に至るまでの過程は、日々繰り返し、セットを制作し、稽古を積み上げ、構成や、演出、テクニカルを修正しながら作品の成熟度を増していく。

モンペリエで、初演を迎えた二日間のシートはSold Outになり、素晴らしいオーディエンスに恵まれた。舞台を終え、照明が落ちると、劇場は拍手喝采の渦になり、スタンディングオベーションは、3度も繰り返した。日本では、中々こうはいかない。フランス人は、極めてアーティストに対して優しいと感じる。これまでに、フランス各地の劇場で、稽古を積み上げてきた。当然ながら、稽古当初は、全てが上手くいかず、果たして本当に作品は初日を迎えられるのだろうかと、つい一昨日の本番前のリハーサルを終えた後まで、皆がそう感じていたかもしれない。

本番に臨む緊張感というものは、不思議と物事を好転させる力がある。初日の公演は、未だかつて無いほど良い出来だった。積み上げてきた、これ迄の成果が出せた。舞台芸術というものは、云うに及ばず、自分が上手く出来るだけでは意味がない。チーム全ての阿吽が、最後に一番大切な要素になる。劇場側からサポートしてくれるテクニカルスタッフ達とは、短期間にその呼吸を同調させなければ、それは得られない。
幸い、私が所属しているカンパニー〝L’immédiat〟は、皆で良く食事を共にする。誰とも隔たりをつくらないし、短期間でも精一杯、良き友人になる。日本の劇場だと、そうはいかないようだ。劇場のテクニカルサポートスタッフと食事を共にするのは、初演の後のレセプションか、公演後のパーティーに限られる。残念に感じることだが。

私が溺愛する、カンパニーを率いるアーティストで親友のカミーユとセヴから公演後のパーティーで、
「明日一日、ゆっくり一緒に過ごす事が出来ないか?」と誘われた。
私はパリへの移動を一日遅らせ、彼らが〝どうしても魅せたい特別な場所〟への誘いに乗る事にした。

モンペリエdance

モンペリエ駅

翌昼、SNCFのモンペリエ駅構内にあるレンタカーショップで車を借り、その〝特別な場所〟へと向かいました。一時間半程走ると、中世の趣を抱えた小さい村々が、道路に沿ってポツポツと出現して来た。
その小さな村々は、私にとって充分に美しい光景であったが、車は通り過ぎ、山道に差し掛かった。山道に入ると道は次第に細くなり、行き交う車も村も無くなってきた。

中世の村

navacelleカーブ

大きなカーブを幾つか超えたその先に、とんでもない光景が視線と心を鷲掴みにした。傍に車を停め、その光景を身体全身で味わらざるをえなくなった。

眼下には、広大なカルスト台地の石灰岩の崖を備えた堂々とした自然の円形劇場が構成されていた。それは、途轍もないスケールだった。
私たちは、ヌーボー・シルクというカテゴリーの舞台芸術を創作している。英語と云うか日本語と云うのかで表現すると、コンテンポラリー・サーカスとか、現代サーカスと称するのだろうと思う。ヌーボー・シルクと云う、舞台芸術は、フランスで誕生して、愛されて来たにパフォーミングアートだ。

カミーユが私に伝えてきた。
「これは、サーカスです」と。
そう、サーカス即ち、〝円〟。
続けて、こう伝えてきた。
「サーカスとは、元々、隔たりを無くし、調和を創ることなんです」

フランスで生まれたヌーボー・シルクという芸術に魅了され、創作する幸運に恵まれた私は、その根源の本質を知らなかった。
カミーユはその事を、この雄大な自然の悪戯に託して、私に伝えたかったのだと感じた。
なんて素晴らしい芸術に出逢った事かと、心から感謝し、敬愛する素晴らしいアーティスト、カミーユの心深に触れる事が出来た。

navacelleシルク

300m下に見えるサーカスの中心にあるナヴァセルの美しい村は、その滝と渓谷を、その壮大な環境の中で昔と何ら変わらず、ひっそりと佇んでいた。

「さぁ、行こう」
カミーユとセヴは、夕刻になるその前に、目的を果たす為に心を急かしていた。人気の無い砂利の山道をひたすら下りて行った。息を切らす寸前まで歩くと、それまでとは、全く違う光景を目にする事になった。どこまでも、透き通った美しい湧き水の清流が、その目的地だった。とてつもない水量の滝の水しぶきが、駆け下りて火照った身体を一気に冷やしてくれた。皆でその滝に口を開ける、細胞一つ一つに行き渡る様な、柔らかく細かな水だった。今まで飲んだフランスの水で、一番美味しい水と確信する程だ。

大きな岩を幾つも乗り越えると川岸に辿り着いた。何も言わずに、皆、水と戯れるのに夢中になった。
身体が痺れて痛いほど冷たい。けれども気持ちいい。
この葛藤は、少し入っては、震えがあり、また入りと、日が暮れる寸前まで、私たちは心を潤した。

navacelle滝

ナヴァセル水

元来た道を足早に車に戻ると、すっかり陽が落ち、辺りは静寂な暗幕に包まれていった。今夜は、近くの友人の宿に泊まると言っていた。ヘッドライトの灯だけを頼りに、何度も道に迷いながら、ようやくカミーユの友人の宿に到着した。宿主のイザベルと3頭の大きな犬が快く迎えてくれた。

宿には先着の客人2組がおり、既に夕食を終え、深い夜を語らっているとこだった。その宿は、大きいテーブルを皆で囲み、夕食を共にし、語らう慣わしであった。腹ペコの私たちも直ぐテラスに出て、その語らの輪に虚じた。

イザベルは、手際良くガレットを作ってくれた。家族で経営している宿で、自給自足で全てを賄っていると云う。
そういえば、さっきから闇の中に気配を感じていた。馬や羊、牛や鳥が放牧されているという訳だ。

宴は、瞼が引っ付くまで続き、イザベルの懐中電灯の光に案内され、その夜の寝床に向かった。モンゴルのゲルが点在し、そこが今夜の寝床であった。私は初めての経験で、中に入ると、肌寒い夜の闇から守ってくれる様な感じがした。家屋には大小ベッドが五つあり、皆、あっという間に夢の中に沈んだ。
翌朝、朝早く帰る私は、イザベルから出発する1時間前に一緒に散歩しましょうと、告げられていた。

エルザ牛

エルザ モンゴル

エルザ姿

断崖絶壁

熟睡したせいか、そもそも短い時間だったのか定かでは無いが、朝は忽ち訪れた。皆はまだ、昨夜の闇の中に居た。
陽が昇る前のうっすらと明るい清々しい朝を迎えた。テラスに向かうと、イザベルがコーヒーを入れて待っていた。洗面所は、このレストラン棟にしか無い。素早く身支度を済まし、コーヒーは散歩の後にとっておいた。

何処からか、犬たちが察知し散歩に同行した。と云うより、イザベルと犬のいつもの朝に、私が同行した、が正解だろう。イザベルは、此処に住みついた家族の歴史を話して聞かせてくれた。

三代前にネイティブ・アメリカンの暮らしをリスペクトした祖先が、この地に辿り着き、家族で自給自足の生活をしながら宿を始めたと云う事だった。夜の闇の中、漂着した私は、ここが何処だか見当もつかなかったが、それは散歩の終着点で明らかになった。ここは、断崖絶壁の地の果てだった。

昨日見た、サーカスの反対側の絶壁すれすれに、私は立っていました。
300mある絶壁の下を覗くと、谷底から命を宿した瑞々しい風が吹き上げて来た。この崖には鷲が生息していると云う。

イザベルは、
「この光景を見せたかったの」と
「そして、あなたが望む時、いつでも帰って来なさい」
とも伝えてくれるのだった。
この地は、芸術家たちが良く訪れるそうだ。
ここは、そんな人たちの創作の源であり、疲れた心身を少しの間、休める所でもあると話してくれた。

テラスの大きいテーブルで帰路をメモしてもらい、少し冷めたコーヒーを飲み干し、宿を後にした。

カミーユたちは、まだ疲れた心身を休めている。

また、きっと訪れる地であろう。

そこには雄大なサーカスと、何処までも透明で優しい水と、イザベルの家族がずっと居るのだから・・・

エルザ矢印

ドリームキャッチャー

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