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長い散歩のように。近況や本のことなど。


優しく甘美な絶望は
ドーナツの穴に似ている


夏の経過をペディキュアにみて、夜風が頬を撫でる。漸く新しい仕事にも馴染みはじめ、最近はマルゲリータピザなどをピザ窯で焼いてみたりフルーツサンドを黙々と作ったりしています。そう、パン屋さんで働きはじめたのでありました。

パンとパン屋さんと私を結ぶ記憶はいくつもあるけれど、いちばん古いものを、今宵は。

あれは私が6歳頃だったろうか、一緒に暮らす祖母が早朝に家を空けるようになった。冬などまだ外は暗く冷えた空に夜明け前の星が美しく瞬く。カチャリンガチャン。門扉の開閉音の後に遠ざかる靴音を聴きながら、あるときは見習い魔女として魔法の杖をつくりにいく祖母の姿を想像した。実際には祖母が向かう先は私も家族も大好きなパン屋さんだったのだけれど。

そのパン屋には足繁く通った。通園先のアヒルの餌にはそこのパンの耳があてがわれていて貰いに行ったりもした。古いものでなく焼き立て切り落としたてのパンの耳を持たせてくれるものだから、アヒルの餌やりをしながらこっそり食べていたのは、ここだけの話。

そんなアヒルたちと競ってばくばく食べるほどに美味しいパン屋さんはドイツのとある都市が店名となっていて、いまも二代目がしっかりと味を引き継いでおり、地域に愛されている。わたしは糖質制限などもしながら生活しているのだけれど、私は(特に)ここのシュトレンが大の好物で、毎年少量を有り難く頂く。そのひと口をホットワインと共に味わいながら、またひとつ歳を重ねることができたのだと染み染みしている。

さて、そうして、祖母の足音が完全に風に紛れると、2センチほど開けた窓をそのままに、今しがた這い出した寝床にいそいそと潜り込んで夢の続きを待つのでした。いつも帰宅した祖母の全身からはパンの良い香りがしていた。

「パンの香りは人を幸せにする」

一ヶ月ほど前、大きな空と大地の間でパンを焼く女性が教えてくれた。彼女のメッセージからは焼き立てのパンの香りが漂ってきて、幸福な気持ちになりました。それは芳醇なバターの香り。

そういえば、パン屋の店先では犯罪が少ないという記事だか小説だかを目にした記憶がある。その真偽はわからないのだけれど、そこにもパンの香りと人の心情、その関係性、みたいなことがあったような気がする。

と、ここまで書いて、何故か村上春樹の『パン屋再襲撃』を思い出す。はて、どんな作品だったかな?確か、彼の初期の作品で、短編で、やっぱり村上ワールドで、楽しかった!という印象。なんて生ぬるい感想か。それにしても村上さんの小説はいつも雪掻きをしていて、いつも誰かが死んじゃったり病んじゃったりしてて、人生って淡々としてるな、って、地下鉄にうつる制服姿の我が身を眺めながら不思議な安心感に包まれた記憶。優しく甘美で前向きな絶望。それは「救いようがない」というのとは違くて、「これが人生」って、なんだかすっごくしっくりきたの。この身で体験できることは全部体験してやろう!と、静かに熱くなったんだった。「わかるかもしれない」ではなく、「わかるよ」と、言えるような大人になりたかったのかもしれない。しかしなんと、あゝ、セブンティーン!そんなわたしに言ってやりたい。どんな体験をしようが、ほんとうには自分以外のことはわからないということを。ひとりひとりの物語りが違うから、感じ方が違うから。「わからない」ということを「わかる」という正しさを。そう、わからないを抱えて歩けばいい。優しく甘美な絶望は、ドーナツの穴に似ている。


おっと、だいぶ、脱線してしまった。パンの香りからはじまる物語り。それは伏線の回収もなく、マドレーヌとは比べようもないけれど。
どこまでもなんてことない日々のどうしようもなく「普通の」物語り。まるで長い長い散歩のような。

なんてことなくてなんにも起きない話しがわたしは好きだ。山も谷もないものが。そのなかで勝手気ままに大切な言葉や行いや景色を探すのが好き。読み返す度に味を変える書物。きっとそういうものを古典と呼ぶのではなかろうか?伝達を止めないものを。

読む度に味を変える書物は、味覚の成長か後退か?それはわからないけれど、停滞ではないことだけは確かなのかもしれない。それはまるであっという間に四方八方に吹き散らされる雲のようでもある。

雲は いったい 何の目撃者になれるだろう
あっという間に四方八方に吹き散らされるというのに

ヴィスワヴァ・シンボルスカ

このポーランドの詩人の言葉を緊張もせずに置いておけるほどには彼女の言葉の重みをわたしが「わかっている」とは言えるはずもないけれど、それでもわたしの人生のなかのなにかに触れてわたしのなかに生きることを決めた言葉を、ちゃんと緊張しながら、これからも私のリズムで置いていけたなら。

さて、そんな秋の夜長は星野道夫さんの書物をつうじてこんな言葉と出会えました。

Life is what happens to you while you are making other plans.
(人生とは、何かを計画している時に起きてしまう別の出来事のこと)


それではまた。おやすみなさい。


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