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【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part7【「第3章 統一」p23 1行〜p25 20行】

本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。
・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』
・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』
お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
また、今回から初めて読むよという方は、可能であればpart1から読んでいただけると、より理解しやすいかと思います。
今回は第3章 統一 p23 1行〜 に入っていきます。


第3章 統一(英:The Unity 独:Die Einheit)

この章題についてですが、原著英語版、原著ドイツ語版の直訳を、解説版から考えていきます。
The Unity
一つであること、単一性、一致、和合、調和、また、DeepLによると団結とも。
Die Einheit
それ自身で完全な一個であること、統一体、調和、またDeepLによるとユニットとも。
原著ではこういったニュアンスで書かれているという点を押さえて読み進めるとよいと考えられます。

そして今回の三行まとめです。

・「歌う楽器=発声器官」は膨大な筋肉と筋肉群から成り立っている。

・「歌う楽器」は機能を果たしている時だけ存在する。(固定されてそこにあるわけではない。)  

・「歌う楽器」が成立すると、「自由に歌声を出せる」ようになる。


1.発声器官は膨大な筋肉と筋肉群から成り立っている。(p23_1〜2)

少し先の話をすると、第4章は「解剖と生理」というタイトルになっています。
そう考えるとまず第一文、’’発声器官を構成する種々の解剖学的および生理学的事項を列挙する前に、一つのことを強調しなければならない。’’から始まるのは納得感があります。

そして次の文が、その「強調しなければならない」ことです。

’’無数の筋と筋群が、発声器官を動かす原因となっている。’’

これは邦訳の文よりも、原著ドイツ語版の表現がわかりやすいと考えています。

’’Die Stimmorgan besteht aus einer Unsumme von Muskeln und Muskelgruppen’’
発声器官は膨大な数の筋肉と筋肉群で構成されている。(DeepL翻訳)

これが私が第1の小見出しとしている内容です。


2.歌声を作り出すのは、「これら膨大な筋群が集まったもの」でこの機能的統一がなくては歌声は成立しない。(p23_2〜10)

1番を前提として話が進みます。
まず2、3行目では、「それらの筋や筋群を科学的に述べるためには、それらを別々に次々と記さなければならない」とあるように、
要するに一つずつ筋肉の役割について述べていく必要があるとしています。

しかし、ここでフースラーが「しかしながら」と待ったをかけるように、一つずつ筋肉の役割を追いかける前に要点があるという話が続きます。

それが小見出しにもある、
『歌声を作り出すのは「これら膨大な筋群が集まったもの」で、この機能的統一がなくては歌声は成立しない』
ということです。

わざわざなぜこれを「押さえなければならない重要な点」として先に話すのか、という部分を考えていくと、おそらく筋肉の個々の働きに注意しすぎるあまり、「発声器官」が一体となった時に「歌声」となることを失念してしまうことに対する懸念、すなわち、「木を見て森を見ず、ではダメだよ」ということを言いたいのだと私は捉えています。

そう考える理由としてわかりやすいのは8行目の「別の言い方をすれば」です。
この「別の言い方」が、この2〜16行目の内容を簡単にまとめている文になっています。

’’発声器官のすべての部分が独特の統合をした時に、はじめて歌の楽器としての特殊な機能的形態が生まれることができるのである。この特別の種類の共同は、他の何の目的のためにも使われず、話をするためにさえも使われない。’’(p23_8〜10)

訳文特有の読みにくさを取り除いて私自身の読解に変換すると、
「発声器官の全ての部分が、「一体となる」時に、初めて「歌の楽器」という特殊な形態になる。この形態は歌う以外の目的に使われず、話しをする時にもこの形態にはならない。」

現代の日本語では、「バラバラのものが一つにまとまる」時に「一体となる」という表現がよく使われるかな、という私の感覚が少し入っています。

統一、一つであること、調和…という原著の章タイトルにもありますが、統一する、というのは何となくニュアンス的に「もっと大きなバラバラとなっているもの」、例えて言えば土地などに用いる感覚があります。
戦国時代に戻ってみても、やはり天下統一という言葉があるように、大きなものを一つにまとめようとする動きのような感覚があります。

対して、「一体となる」という表現はもっと小さいニュアンスがあるように感じます。
例えて言うなら、小学校の運動会、当時は「表現」という種目だったと思いますが、みんなでダンスをしたり組体操をしたり、そう言った時に「一体感がある」「クラス一体となって頑張る」そんな表現を用います。
私にとっては統一などよりもっと狭い範囲を指す感覚があるのです。

話を戻して発声器官、今回は自分の体の中、ごく狭い範囲の話です。
ですから、「筋肉たちが一体となって発声器官を作る」これがもっともニュアンスとして今の日本人に伝わりやすいと私は考えています。

という話の流れを考えると、

・膨大な筋群が「一体」となることで初めて「歌声」を出す「発声器官」が作り上げられる

・その「一体」になる形態は、話し声の時には使われない

これがフースラーがまず事前に強調したいことの2点と考えられます。


3.「一体」となった時の発声器官の働きについて。(p23_11〜16)

ここは、この「一体」となった時、どう動くことになるのか、順番に説明している内容になります。
丸番号で説明していきます。

①呼吸器官の下の方の部分(横隔膜、背中、側腹、腹壁)が息を出す用意をすると、力強い反射作用で喉頭と呼吸器の間の連携が成立する。

解説版でも「なぜ呼吸器官が最初に来るのか」「声に関心があるなら声帯」「共鳴に関心があるなら口、喉、鼻」「息の扱いに重点を置くなら「体の深いところに息を吸い…」や「横隔膜を下げながら」とするだろう。」「しかしフースラーはそうではない」
と述べられているように、なぜ呼吸器官の話から?と考えられる方もいらっしゃるかと思います。
本文章を読まれる方がどういった背景をお持ちかによって変わるところだと考えられますが、少なくとも解説版を書いた著者はこういった考え方が「これまでの我々が常識とするやり方であった」と述べています。
(p101_5〜8)

また、解説版では息を吸う器官の横隔膜が出てくるのに「息を出す」とした邦訳に問題があり、「呼吸」とするべきだという主張もありますが、ここでは「息を出す」で問題ないと考えます。
ここは呼気発声で歌声を出す時の成立過程を追いかける説明文と捉えて問題なく、となるといずれにしてもここで登場するのは「呼気」であり、原著英語版で’’prepara to set the breath in motion’’としているのも、何のprepareか、文脈として呼気であることは明白です。

そうですね、例えば…みなさんもやってみましょう。
私がピアノで音を出してそれから歌声「アァ〜〜」と出して、はいどうぞ、とされた場面を想像してください。(音程は自由ですが歌うようなイメージで)

はい、「アァ〜〜」。

声は出せましたか?

この時に「よーし声を出すぞ!その準備のために息を吸うぞ!」となるというよりは、「よーし声を出すぞ!」の時点ですでに吸気、すなわち息を吸う動作が行われていると思います。

先ほどの例で言うと、私が「はい、」と言った時にスゥ、と吸っている場合がほとんどだと思います。
このように意識してしまう状態で実施すると「いや息を吸う意識です!」と感じる方もいらっしゃると思います。しかしたとえそういった意識があったと感じても横隔膜の動作を自覚することは一般的には不可能であると言えます。(横隔膜は固有の受容神経を持たない)
さらに、今回のようにマニアックな話が前提にある場合ではなく、自然にパッと歌声を出すと、おそらくほぼ無意識に息が吸われており、考えているのは「声を出そう」という意識になっていると思います。

その動作…歌声を出すぞ!となった時の準備動作は「吸気の準備」をしているわけでもなく、「呼吸の準備」をしているわけでもなく、「歌声をだす準備」をしていると言えると考えます。
すなわち「歌声を出す」ことは基本的に「息を出す準備」をするということと繋がってくると考えられます。

これはあくまでわかりやすい読解の助けとなるよう、呼気発声における歌声を一例として出しており、吸気発声による歌声は違う点に注意してください。
少し深い話をすると、吸気発声の歌声も含めて完全に「発声器官」を使いこなせる場合は、これまで私が説明してきた一例である呼気発声にこだわらずとも、歌声を生み出すことができますし、「息を出す用意」ではなく「呼吸の用意」と表現する方が適切な場合もあります。

さて話がこじれてしまいましたが、これが①です。

②それと同時に喉頭蓋があがり、喉頭は上方、下方、後方へと強い筋肉の網状の「はりわたし」の中でひっぱられる。

これは「喉頭」付近の動きです。

まずは喉頭蓋、すなわち喉頭の蓋です。(そのままです!)
わかりやすい例え話だと、水を飲む時、気管に水が入ってこず、ごくごく飲んで胃にはいっていきますよね?
これは喉頭蓋が喉頭に蓋をして、気管への侵入を防いでくれているから飲めるのです。
喉頭蓋がうまくタイミングよく閉じなかった時、例えば笑ってしまって吹いたりすると、呼気が出るため喉頭蓋は開きます、その時に水を飲んでしまったら…水を口から吹き出すと共に「水変なとこ入ってむせた!」となりますよね?
こんな働きをしてくれているのが喉頭蓋です。
そしてここではそんな喉頭蓋が上がる。すなわち蓋が開いた状態になります。
(=閉じるときは下がる、です)

次に喉頭。これはわかりやすく言うと声帯が内部にある部分です。
喉頭で一つの筋肉、骨、ではなく、複数の筋肉や骨で成り立っています。
これは上方、下方、後方に「はりわたし」(張り渡し)の中で引っ張られるとされています。一方から他方へ渡して張る、という意味です。
喉頭懸垂機構というもので、以降の章で詳細が出てきます。
ここでは「そういうものなのか」くらいで、読み進めると良いかと思います。

③その時、喉頭自身が運動の連続を引き起こす。その運動の中で最も重要なものは、声帯が伸展され、緊張(収縮)され、並置され、振動を起こさせられることである。

喉頭自身の運動についても同様、以降の章で触れられます。
ここでは同様に読み進めていきましょう。
なお、声帯が伸展、緊張(収縮)、振動はイメージが湧くと思いますが、並置についてはイメージが湧きにくいかと思います。
これは声帯は1対で1つ、すなわち二つが並んでいる状態ということですので、声帯が1対並んでいる様子を並置と表現していると考えられます。

ここまでの3点、これがここで述べられる一連の動作です。


4.歌の楽器の組み立て(p23_17〜23)

まず17行目から19行目頭まではこれまでの「発声器官」の成立に関する別の表現です。

’’すなわち、歌声を出している間は、ただひとつの設立の動作が、発声器官をして、それによって初めて歌うことができるある機構に変換させるのである。’’

やはり訳文故の難しさはありますが、以下が意訳です。

『すなわち、歌声を出している間は、「発声器官を設立する動作」(これが「ただひとつの動作」が行われている。
そしてその動作が行われることによって初めて、人間の体を「歌うことができる機構」に変換させることができる。』

わかりやすさを重視して言い回しを変えている部分はありますが、概ねこう言った内容と受け取って問題ないかと思います。

これはこれまで2番でも述べてあることを繰り返し述べているような内容です。
つまり、膨大な筋群が「一体」となることで初めて「歌声」を出す「発声器官」が作り上げられるということ。
そして「発声に関わる膨大な筋群」をまとめて「発声器官」と言い、さらにそれを「ある機構」と言い換えているだけだと読み取れます。

ニュアンスとして、「機構」というのは団体といった意味ではなく、どちらかというと、機械などの内部のしくみで、その膨大な諸部分が互いに関連をもって働く様子を指していると考えるとわかりやすくなります。
内容自体は繰り返し述べているものなので、おそらくこのニュアンスを出したかったが故のワードチョイスだと考えられます。

少し飛んで20行目〜21行目には「繰り返していえば」とあります。
それはこの部分の繰り返しでもあり、ちょっとした意味の補足にもなっています。

’’歌の楽器としての面から考えると、歌う器官は完全に機能を果たしている時だけ存在するのだ’’(20〜21行)

あくまで発声器官が一体となっているのは歌う時に一時的に共同している時だけ。
その時だけ「歌う器官は存在する」と述べられます。
これまでの文章を文章のままに受け取れていると、「それはそう、繰り返し言っているだけだな」となります。
ただし人間というのは文章から言外の意味を想像し、自身の物差しで脳内補完してしまう場合があります。
それはある意味自然な反応と言えると思います。
ただ、自身の物差しというのが注意するべき点で、一般的によく使う言葉で言うと「常識に縛られる」ことには注意が必要と考えます。

解説版でも述べられていることですが、
’’発想の転換こそが、フースラーの言うことを体で理解するための’避けて通れない関所’である。’’(解説版p100_30〜31)
理解するためには発想の転換が必要、それはいわゆるそれまでの自分の中の常識に縛られないこと、ステレオタイプを捨てること、定説を覆すこと、すなわちパラダイムシフトが必要ということです。

さて注意が必要とは言いましたが、遡って言えば第1章で述べられていた「発声そのために用意された特別な固定された器官は存在しない」と述べている部分からもここのフースラーの発言はわかりやすいと考えられます。

そして一行戻って19行目、
’’その機構は最下端は腹筋および臀部、上方は軟口蓋の上の方まで広がっている’’
ということが述べられます。
喉頭周辺や、内喉頭にフォーカスが当てられがちな場合もあることを考えると、これには意外性を感じる読者の方もいらっしゃると思います。

そしてこの項目の最後、括弧内で述べられていること、
’’これこそ、歌の楽器といわゆる「死んだ」楽器との相違であり、また「歌うことを習うこと」がこの主要点において器楽奏者の勉強とは比べられない理由でもある」’’
これについてです。
まず「死んだ楽器」とはなにか?
これは読解のヒントとなる情報がありません。
ですが、続けて「歌うことを習うこと」と「器楽奏者の勉強」が比べられないと述べています。
そこから推察するに、「人間という体を使っている楽器=歌の楽器」「木材などを組み合わせて作った楽器=死んだ楽器」と表現していると考えられます。

少々過激な表現と言えるかもしれません。
例えば木材でいうと、すでに加工がされた木材に対しても、「木は生きている」という表現を用いたりします。
そう言った表現を扱う方にとって、「死んだ楽器」と表現されるのは気持ちの良いものではないかもしれません。

が、厳密にいうとこれは誤りで、伐採される前の木であっても外側の層や樹皮だけが生きている細胞で、残りは生理作用をしていない、細胞は死んでいる状態です。
そして実際に木材として使用される際には生きていたわずかな細胞も死滅しているそうです。
木材が湿気を吸収したり放出したりするのは、この既に死滅した細胞が起こしている物理現象であり、細胞が生きていて何かをしている、というわけではないということです。
そう言った意味では、「死んだ楽器」という表現は適切でしょう、すなわちこれは「木材などで作られた楽器」のことを指しているのです。

これまでの話でも繰り返し出てきている「歌う楽器=発声器官は、歌う時にだけ存在している」という話を踏まえると、「木材などで作られた楽器は、使われていない時もそこに固定されて存在する」ので、大きな違いがあります。

ここが違うが故に、「歌うことを習うこと」と、「器楽を演奏することを習うこと」を比べることはできない、というのがこの括弧内の主張です。


5.歌の楽器の崩壊(p24_1〜15)

前述した「膨大な筋群が一体となることで発声器官を作る」ことを踏まえます。その「膨大な筋群」の中に役割を果たさない、働かない筋肉がいると、どうなるか?
といった話がここで最初に展開されます。(p24_1〜3)

まずそれらの筋群はお互いに調和を保って、すべての他の部分と関係して、すべての他の部分の世話になっている…つまりはお互いに影響し合っているということです。
その中に働かない筋肉がいると、器官の中の全体の伸展力及び緊張力は減退、損なわれます。
その結果、構成的機能の不足がおこり、発声器官の崩壊が起こるといったことをフースラーは述べています。
(言い回しとしては、「構成的機能の不足が発声器官の破壊の原因となることができる」ですが、ここでは簡単に捉えましょう。)
構成的機能については、「発声器官を構成する要素=筋肉」の「機能=収縮と弛緩」が「不足する=正常に働かなくなる」と言ったニュアンスで捉えると理解しやすいかと思います。

そして、8行目から発声器官が崩壊していて歌声が出せなくとも、話し声は立派に出すことができる、としています。

その裏付けとしてとある有名な喉頭専門医がこの状態を急性音声衰弱症として記述しており、
・かなり進行した状態でも話し声は侵されず、一般に声の響きは正常であったと。
・話し声を聞いただけでは誰も歌声に大荒れが起こっているなんて気づくことができないだろうと。

この事例から、歌声を出すことと話し声を出すことに根本的な差異があることがわかり、
’’声の楽器の完全な設立は、話をするためには不必要であっても、本当の歌声の」ひびきをつくりだすためには、欠くことができないのである’’
とフースラーは述べています。


6.成果(p24_16〜p25_20)

’’統一体として完全に機能しているはっせいきかんの音色の効果は、例外なく美しい声である。その上理想的に、歌う上に必要なすべてのよい性質が自動的に備わっている’’
これは4番の「歌の楽器の組み立て」が正しく起こった時にこう言った結果となる、と読み取れます。
ここから22行目まで、歌う楽器が正しく成立すると、こんなことができるぞ、という話です。
あまりピンとこないかもしれませんが、簡単に言ってしまえば「自由に発声できるのだ」ということを述べているとも取れます。
自由というのはなんでもできるということ、逆に何ができるかを説明しようとするとややこしくなります。
ここではその「解放された発声器官」が、当時の美学に則って何ができるのかをつらつらと述べています。
・適切なアタックで声がはじまり
・適当に英プレース(独アンザッツ、ポジツィオーン)され
・諸種の「声区」が「溶け合わ」され(あるいは混ぜ合わされ)
・声は思うままに「カヴァー」されたり「オープン」であったり
・よく「支えられ」、「息に乗って」持続され、「開いた喉」から発し
・「意味と表現にあふれ」たものである。
そしてこのような状態にある発声器官はリズムに満ちていて速度と柔軟性の両者を兼ね備えているとあります。
第1章でも、発声器官の筋肉群たちに必要なのは筋力、すなわち「力」ではなく、速度や柔軟性ですよという話がありました通りです。

さらなるポジティブな効果として、
・発声器官のよい状態は、歌手の創作性を刺激する。
・一種のインスピレーションのひらめきを持つようになる。
・「無理をすること」によって自分自身の器官を傷つけることは不可能になる。
・活動が自由に行えるため、喉は「舌を硬くする」上側からの妨害も、「呼気の圧迫」による下側からの妨害からも逃れる。

そしてこれらの能力は、常に私たちの「発声器官」に潜在しているのである、と述べます。(p25_6まで)

発声器官の良い状態が、創作性を刺激してくれるというのは、「自由に歌声を出せる」ことによって、それまでは「自由でない故にやろうともしなかったこと」ができるようになり、それがインスピレーションとなる場合を指していると捉えて良いと考えています。
(あるいはこの先の章で出てくる「声帯の自発振動」にも絡む表現ととれるかもしれませんが、ここではこれまでに述べたポジティブな効果、「自由に歌声を出せる」にフォーカスした解説とします。)

そして後半2点、無理をすることによって「自分自身の器官を傷つけることは不可能になる」という主張については、「解放された発声器官」は「自由に歌声を出せる」、そしてそれは「歌う楽器が正しく成立している」ことを意味します。
逆に考えましょう、「歌う楽器が正しく成立している」ということは、番号5で述べたような「歌の楽器の崩壊」は起こっていません。
崩壊が起こった時に、人間は自分自身の体…ここでは喉を損なう、傷つけるわけですから、崩壊を起こさないならばこの逆、人間は自分自身の体を損なう、傷つけることはしないという意味と考えられます。

上からの妨害からも下からの妨害からも、柔軟で俊敏な筋群で作られた歌の楽器は逃れるというのもこれを下地にすると、そういった発声が自分自身を傷つけるということが起こらなくなるとフースラーはここで述べていると取れます。

(私自身の理解と見解としては、むしろそういった、「妨害」が起こること自体が発声器官が正しく成立できていないということと考えているので、そもそも舌を硬くする、強い呼気圧迫などの「妨害」は起こらないものと捉えています。)

そして7行目から14行目まで、またある意味繰り返し述べられているような話となります。
’’その機構とは、各部分がすべて調和的相互作用に加わった時にだけ成立するものなのである’’(p25_7〜8)
これについては、ここまで本ブログを読んでいただけた方なら理解できるかと思います。
これまで述べてきたのは「歌う楽器が正しく成立している」前提です。
そしてその成立には各部分、筋群が、「調和的相互作用」…お互いに影響しあいながら調和をとる、その時にだけ「歌う楽器が成立する」のだということを述べていると読み取れます。

さらに各個の部分すべてが十分に活動的で俊敏であり独立性がある時に可能であるとも述べられます。

この調和と各個の独立性は矛盾するわけではなく、
・数多の筋肉の中の個々のものが
・全体として統合された状態を保ちながら、
・この全体の中で自分自身の仕事を完遂するために、
十分に自主活動的でなければならない、という続く記述から、調和と個々の独立性が矛盾しないことがわかります。

例えていうならば、会社がわかりやすいかと思います。
会社で仕事をする上で、協調性は切っても切り離せない要素となります。周りの同僚、先輩、上司部下と協力して一緒に成果を出します。
その一方で一人一人の能力が高くなければ、よりよい成果を出すことはできません。
みんながみんなサボって仲良し、でも良い成果は出ないというのは明白です。

そして、それを実現するために、そのことを知っている歌手たちは彼ら独自の練習をしており、それが「アンザッツ」と呼ばれているということが15〜17行目にあり、それに関する記述は第8章p89にあるとされます。

実際に今日本で歌手と呼ばれている方々が、それぞれ独自の方法で、いわゆる喉のチューニング、それをジンクスともいうような事前の発声とも取れることをやっている方もいらっしゃるようですが、それはおそらく基本的に個人個人で違うことをしています。
あるいは発声教師、ボイストレーナーに教えてもらったものを行っていたり、実際にボイストレーナーが現場について行ったりなどしているでしょう。
この本が出版された当時の歌手たち、おそらくクラシック歌手たちは「アンザッツ」という練習を行うことで、喉頭諸筋の独立した動きの度合いを加減できるように試みるとあります。

きっとここがみなさん「気になる!」「これを知りたかった!」という箇所ではないかと思います。
が、それについて述べられるのは第8章までお預けです。
基本的に、フースラーの述べる順序に従って本ブログは解説します。
(今すぐやるべきことならフースラーもお預けにはしなかったでしょうし…解説版でもフースラーの述べる論旨、その順番には意味があるといった記述がされています。)

以上が第3章 統一 でした。


さて、第3章の解説が終わりとなりましたが、
これまでの第1章、2章と進んできて第3章はそれまでも述べてきたことを違う言い方で述べているなと読める箇所も多かったのではないでしょうか。

次回はいよいよ第4章、解剖と生理、ここは図がたくさん出てきます。
本ブログは文字のみで記載していく予定ですので、各筋肉や軟骨についての図は各々で確認していただく形でよろしくお願いいたします。

以上、また次回よろしくお願いいたします。

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