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【漫画】『源氏物語』ってどんな話? ー 唐物に囲まれた醜女・末摘花 ー


長く垂れた鼻先が赤いことから”末摘花すえつむはな”と呼ばれたこの女性。
『源氏物語』随一の醜女として有名ですが、実際どんな人なのでしょう?


醜女で不器量だった末摘花

『源氏物語』では登場人物の要望が詳細に書かれていることがあまりないのですが、末摘花に関してはかなり詳しく描写されています。
第6帖「末摘花」より該当部分を抜き出してみましょう。

まづ、居丈高く、を背長に見えたまふに、「 さればよ」と、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは、鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。色は雪恥づかしく白うて真青に、額つきこよなうはれたるに、なほ下がちなる面やうは、おほかたおどろおどろしう長きなるべし。痩せたまへること、いとほしげにさらぼひて、肩のほどなどは、いたげなるまで衣の上まで見ゆ。「何に残りなう見あらはしつらむ」と思ふものから、めづらしきさまのしたれば、さすがに、うち見やられたまふ。


(すわった背中の線の長く伸びていることが第一に目へ映った。はっとした。その次に並みはずれなものは鼻だった。注意がそれに引かれる。普賢菩薩の乗った象という獣が思われるのである。高く長くて、先のほうが下に垂たれた形のそこだけが赤かった。それがいちばんひどい容貌きりょうの欠陥だと見える。顔色は雪以上に白くて青みがあった。額が腫ふくれたように高いのであるが、それでいて下方の長い顔に見えるというのは、全体がよくよく長い顔であることが思われる。痩やせぎすなことはかわいそうなくらいで、肩のあたりなどは痛かろうと思われるほど骨が着物を持ち上げていた。なぜすっかり見てしまったのであろうと後悔をしながらも源氏は、あまりに普通でない顔に気を取られていた。)

紫式部『源氏物語』「末摘花」
現代語訳は渋谷栄一


源氏は、前年に夕顔を亡くして以来、「どうかしてたいそうな身分のない女で、可憐で、そして世間的にあまり恥ずかしくもないような恋人を見つけたい」と性懲りもなく思い続けていました。
このとき既に正妻・葵の上もいたし、六条の御息所とも付き合っていたのですが、葵の上は左大臣の娘、六条の御息所は元東宮妃、とそれぞれに貴族社会のしがらみが強く、また性格的にもプライドが高い肩が凝る相手でした。
一方、夕顔はそうした貴族社会のしがらみから離れた位置にいて、あまり教養もなくおおような性格だったので、源氏にとっては現実を忘れ夢中になれる得難い存在だったのです。

源氏が「第二の夕顔」ともいうべき人を求めている折に、孤児となった姫君(のちの末摘花)の存在を聞き、訪ねて行ったのが18歳の1月中旬。
そのことが親友・頭の中将に知られ、2人で競うように姫に文を送ります(このあたりの源氏と頭の中将の関係にはジュブナイル的な雰囲気がありますね)。
しかし秋になっても一向に返事が得られないため、源氏はかえって意地になり、実力行使に踏み切ります。
姫の屋敷を訪ね、そのまま関係をもってしまうのです。

実は、このときまで源氏は末摘花を直接見たこともなければ、声も聞いたこともありませんでした。
源氏が彼女を訪ねたとき、末摘花は障子の向こうにいて姿を見せません。源氏の和歌に返歌があるのですが、それを読んだのは側に控えていた女房・侍従の君でした。
寝屋の暗闇の中手探りで相手のことを知るわけですが…源氏は姫の様子が腑に落ちず、夜明けを待たず屋敷を後にするのです。

そうして、姫にいまいち夢中になれないまま時が過ぎ、源氏が次に訪れたのは冬になってから。雪の激しく降る寒い日に、こっそり屋敷内の様子を見るもそこに心惹かれるものはなく…翌朝、最後の期待を込めて姫の姿を見たら…!
先に引用したように、醜女がそこにいたわけです。


ステイタス・シンボルとしての唐物 ー 平安時代中期の対外交易とは?

現代の我々からすると、「さすがにうち笑みたまへるけしき、はしたなうすずろびたり(さすがに笑顔になった女の顔は品も何もない醜さを現していた)」とまで言われる末摘花の描写は残酷にすら思えるのですが…源氏はその姿を見たことでかええって、彼女を妻として世話する決心を固めます。
それは「自分以外の男には我慢できまい」と思ってのことですが、一方で末摘花が常陸宮ひたちのみやの娘、つまり皇女であることも影響しているのです。

末摘花の父・亡き常陸宮について詳しい記述はありませんが、彼女の住む屋敷に多くの唐物からものがあることからかつての隆盛が窺えます。

「唐物」とは狭義には唐(かつての中国)からの舶来品のことですが、ここではもう少し広く、中国を中継地としてもたらされた、インド、南海、朝鮮、その他の地域からの渡来品としておきましょう。

『源氏物語』が描かれたのは1000年代初めの一条天皇の頃ですが、物語の時代設定はそこから100年程さかのぼる醍醐・村上天皇の頃だと言われています。
対外交易に注目してみれば、ちょうど転換期にあたる時代です。

『源氏物語』の時代背景を理解するために、ごくごく簡単に平安時代中期の対外交易に触れておきましょう。

838年を最後に遣唐使の派遣がなくなり唐との国交が事実上途絶えてから、日本は太宰府を経由した民間交易ルートによって大陸からの品を得ていました。
一方、698年に中国東北部の朝鮮半島よりさらに北のエリアに建国された渤海国との外交も継続され、日本に派遣される渤海国使から貴重な品々がもたらされました。
9世紀後半の時点では、太宰府経由の民間交易ルートと、渤海国との国交という2つの交易ルートが存在していたのです。

しかし、928年に渤海国が滅亡し、日本の対外交易は民間ルートのみとなります。

『源氏物語』の時代設定を醍醐・村上天皇の897年〜967年頃(※途中に朱雀天皇の治世を挟みます)とすれば、その時代はちょうど、国使を通じた正式な国交から太宰府を経由した民間交易へ対外交易が移行した頃と重なります。

渤海国使を通じてもたらされた唐物は、朝廷が優先的に得て、臣下に下賜されました。太宰府経由ものも当初は朝廷の専買権が主張されていましたが、次第にその太宰府に管理が委ねられ、有力貴族たちが競うように買い取ったり、自分の手のものを太宰府の役人に任官したりなどして入手したりするようになります。
いずれにしても唐物は、それ相応の富と権力がなければ手に入らない、ステイタス・シンボルだったと言えるでしょう。


時代遅れの唐物と高貴な末摘花のちぐはぐさ

末摘花の周りにある様々な唐物のうち、特に印象的なのが黒貂ふるきの皮衣です。

黒貂はイタチ科の動物のこと。「平安貴族が毛皮!?」と思うのですが、平安京の冬の寒さをしのぐのに重宝されたようで、その人気ぶりは885年に禁止令が出たり、927年の延喜式の弾正令で貴族の毛皮の着用基準が設けられたりするほどでした。

平安貴族たちが身につけた貂皮、大虫皮(虎皮)、羆皮、豹皮などの獣皮は渤海国からもたらされたものなのですが、中でも貂皮は、延喜式の弾正令で参議以上の貴族しか身につけることができないとされた、最高ランクのものでした。

末摘花の父の親王という身分から考えても、彼女が着ていた黒貂の皮衣は、かつて渤海国からもたらされた最高級品を時の帝から賜ったと考えてもよいのではないでしょうか。

源氏もそのことは十分理解しており「由緒ある装束だ」とは思うのですが、同時に「若い女性に似合うはずもなく、ただ目立って異様だった」と酷評します。
末摘花は黒ずんだ着物を新調する余裕もない窮乏ぶりですから、厚着をしたり着物に綿を入れたりといった防寒対策ができなかったのかもしれません。それだけではなく、父のかつての威光を偲ばせる品を誇り高い気持ちで身につけていたような気もします。

しかし、末摘花の”ステイタス・シンボル”であるはずの高価な唐物は、源氏にしてみれば古めかしい時代遅れの品でしかありません。
それはかつて盛え今は滅びた渤海国を思い起こさせるものだからかもしれないし、朝廷がその権威によって唐物の専買権を行使できていた時代が終わりつつあることを感じさせるからかもしれません。
それでも源氏は、末摘花の父・常陸宮のかつての威光と末摘花を思う親心を唐物から感じ取って、彼女の後見を務めようとするのです。

末摘花にとって唐物は、かつての威光と現在の落魄、高貴な血筋とそれにつり合わない器量、という相反する性質を現すシンボルだったというわけです。

…それにしても唐物に絡めて末摘花のちぐはぐさを現す紫式部の時代感覚と対外意識の鋭さには驚嘆するばかりです。



【参考】

河添房江(2004)「鴻艫館に行く光る君 ー『源氏物語』と東アジア交易圏 ー」『京都語文/仏教大学国語国文学会編』11号 p.83-97
河添房江(2007)『源氏物語と東アジア世界』NHKブックス


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