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音楽、音、楽器、楽譜、身体、耳、心

音楽は何か…と考えていくと、音による物語的体験ということができるだろう。

楽器は、その情景と物語を編み上げるための「音を生み出す装置」である。そういう意味では、音楽にとって理想的な状況とは、もはやそれが何の楽器であるかを忘れて、音そのものの響きが作り出す音楽(物語)の中に聴衆も演奏者も入り込んでしまうというのが素晴らしい音楽体験ということになるだろう。

言葉や映像による物語であれば、メッセージ性は比較的明白なものになる。しかし、音楽による物語は必ずしも明白ではない。音自体にメッセージはないからだ。音と音が移り行く中に、言葉にならないメッセージが生まれるのだ。
(ましてや、演奏者自身が明確に物語性を認識していなければ、当然聴衆に明白な物語が伝わるはずもない。)

楽譜を眺めていると、そこに込められた作曲者の意図が感じられる。出来る限り、論理的に「どうしてそう演奏するのが良いのか」という理由を自分で持っていると、説得力のある演奏になるだろう。和声の動きや、旋律の形、非和声音の扱いも、頭で理解して、耳でも感じ、心でも感じていると、いい演奏になる。有機的な、生きた音楽になるのだ。

これが「音楽そのものに向き合う」ということだが、このような向き合い方をするには
⑴楽譜に書かれていることを理解する
⑵それを楽器で演奏するには、「楽器をどう扱えばいいか」(楽器の仕組み)を理解している
⑶さらに、その楽器の仕組みに合わせて、「どうやって身体を動かせばいいのか」を体験的に理解している
という三つのことが出来ている必要がある。(前提というよりも、三つの能力は相互に関連しながら発展していく。)

楽器の仕組みという点について書いてみたい。
僕は、ピアノと声楽とチェロとバイオリンと(アコースティックとクラシック)ギターを経験したことがある。どれも「楽器」としての特性があり、得意なことと苦手なことがある。

声楽、チェロ、バイオリンは基本的には単旋律を奏でる楽器。(重音やアルペジオはあるものの)
ピアノとギターは和音と旋律の両方を奏でる楽器だ。

チェロ、バイオリン、ギターは左手で音程を造り、右手で音色を造る。(厳密には、左手もビブラートや指の押さえ方によって音色も造る。)
ピアノは10本の指すべてで音を造る。
声楽はのどの筋肉で、音を造る。

チェロは、脱力とはいうもののテンションの高い弦が張ってあるため、左手にも右手にも重みを乗せるために、ある程度の筋力がいる。バランスよく、腕の重みを指先に載せるための筋力だ。
ピアノとギターは、筋力というよりも音色を造る指先の繊細な感覚がいる。「指の繊細な筋力の操作性」が必要だ。ピアノは、手首や肘の操作も重要になる。
バイオリンは、脱力したままでいかに必要なだけの重みを乗せるかという筋肉の使い方がいる。いかに小さな力で、しかしポイントを押さえることでよく響く音を引き出すかという方向性だ。また操作性が高いため、腕と指の俊敏な運動能力が必要になる。
声楽は…体の中のことなので表現するのが難しい。高さによって胸と喉と頭に響かせるために、筋肉と骨を意識する。お腹のあたりに重点を感じながら、骨に響かせる。口の開け方や姿勢や目線で響く場所と向かっていく方向が変わる。堅く力むのではなく、あるポイントに音を集めるような意識でいると、無理なくいい音(声)が造れる。

楽器を扱うための体の使い方はかなり異なる。息を使うかどうか。右手と左手の役割の違い。前を向くか、横を向くか。立つか座るか。楽器の演奏法からくる精神的影響や、性格的な相性もある気がする。

…ふう。

本当は別のことを書こうと思っていたのだけれど、それを書くための前提になるようなことを書き始めたら長くなってきたのでここで終わりといたします。
読んでくれてありがとうございました。

※下の記事では、それぞれの楽器を演奏している音楽家のなかで僕の好きな人たちを紹介しています。よろしければ。


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