見出し画像

デザインの未来を、デザインする。 #176

夏休みということで、春学期の学びを復習しています。春学期のデザインの授業のテーマは「Speculative Design」でした。私は日々の学びを「パーソンズ美術大学留学記」として毎週書きながら、たまに「Speculative Designとは何か?」について自分なりの考えを記事にしてきました。「Speculative Design 三部作」はこちらです。

今回の記事は、これらを自分で読み返してみて、自分がデザイナーとして「Speculative Design」をどのように使っていこうと考えたのかをまとめたものです。書いているうちに、デザインの未来まで話が広がってしまいましたが、ぜひ読んでいただければ幸いです。



現代批評から、ポストモダンの構築へ

「現代思想は何か?」と聞かれたら、「相対主義である」とまとめることができます。レヴィ=ストロースの構造主義から始まってフランス現代思想に代表される現代思想は、全ての価値観は相対的であるという主張をしています。

これにより、それまでは「当たり前」だった価値観が、ジャック・デリダの唱えた言葉を借りれば「脱構築」されていきました。この潮流は、第二次世界大戦につながった全体主義への反省の意味合いが強く、「これが絶対的に正しいと思うことは危険」というトラウマが影響しています。

相対主義が主流になると、相対化やメタ認知がもてはやされて、「それはあなたの感想ですよね」と言えばいいという態度が常識になりました(特定の人を否定しているわけではないです)。しかし、この相対主義は過去へのアンチテーゼとしての力を発揮しましたが、新しい秩序を生み出す方法論としての役割を担うことはありませんでした。

相対化やメタ認知を振りかざしても、ひたすらにマトリョーシカのような入れ子構造の競争に陥るだけで、どこにもたどり着かない空虚な議論しか生まれません。「では、あなたはどう考えるのですか?」と聞かれても答えられずにいるのが現代かもしれません。

そんな時代に風穴を開けるための方法としてSpeculative Designが使えるのではないでしょうか。Speculative Designの「新しい未来・世界観」を提示する特徴が、相対主義を乗り越える助けになる気がするのです。未来を考えることを単に現代を相対化するために使うのではなく、「誰も想像したことのない」未来を提示することで相対主義の渦から抜け出すために使うのです。

そのためには、提示する未来が個人の価値観の反映でもなく相対主義的批判でもない、誰にとっても納得のいく未来を提示することが必要です。それがどんなものなのかは、今の私にもまだ分かっていませんが。


私が未来にできること

では、どんな未来を生み出すのがいいのでしょうか。それを考えるうえで、「未来のために今できることは何か?」という視点は大事にしたいと思っています。なぜなら、ベルナールの「巨人の肩の上に立つ」という言葉もありますが、今のわれわれが今の生活を送れているのは、先人たちのおかげだからです。

ならば、今に生きるわれわれの下した決断や残した情報のおかげで、未来の人が「2022年があったから、今の私たちは生きている」と思ってもらえるようにしたいのです。この考え方を"Present from Present(現在からの贈り物)"と名付けておきましょう。連綿と受け継がれてきた過去の遺産を未来に受け継いでいった結果、今のわれわれが享受できている過去の遺産が未来でも使われている未来を私は期待しています。まだまだ解像度の低い未来像ですけどね。

そんな中、具体的に考えてみる取っ掛かりとして私が気になっているのが、資本主義とスマートフォンです。資本主義も歴史のある時点で登場したシステムであり、スマートフォンも数十年前にはなかったもの。現代に生きる私たちは、これらが当たり前に存在する時代に生きています。資本主義やスマートフォンによって、現代に生きるわれわれは計り知れない恩恵を受けています。

でも、これらが引き起こす問題もあるはずで、その負の遺産を今のうちに解消しておけないかと思うのです。『資本論』が解き明かしたような、「使用価値」よりも「交換価値」を重視する社会のままでいいのか? ボードリヤールが『消費社会の神話と構造』で指摘したような、他人との差異を強制する消費社会でいいのか? 人々が自分の人生を浪費することを促すことで儲かる注意経済でいいのか? そんな疑問を投げかけるようなSpeculative Designをしてみたいと思っています。ミニマリズムを中心に「スマホ道」を考えたのも、こうした問題意識から生まれました。

資本主義やスマートフォンとどのように向き合うべきかを個人の価値観ではなく、誰もが「たしかにそうするのがいいよね」という共通の理解を拾い集めて、芸術的とも言える生き方にまで昇華させる。そして、それを伝統として未来に届けるというデザインの種です。


デザインの役割は?

約100年のデザインの歴史も資本主義とともにありました。時代とともにデザインの対象も拡大していき、インターネットの登場と並ぶようにユーザーエクスペリエンス(UX)デザインのようなデザインも現れました。ただ、これらのデザインは「会社の売上を良くする」ための手段として利用されてきました。「ニーズを満たす」ということは本当にわれわれを幸せにしてくれているのでしょうか。むしろ、ありもしないニーズを消費者の不安を煽って無理やりつくってはいないでしょうか? 

デザインの歴史を辿ると、デザインにはエンジニアリングとアートの二つの側面がありました。今では、デザインはビジネスに役立つことがデータによって証明されたおかげで、ビジネスの世界でもデザインは地位を確立しています。ただ、ビジネスにおけるデザインは、どちらかといえばエンジニアリング的な実用性に偏っているのかもしれません。

だったら、デザインにもう一度アートの光を当ててもいいのではないか、というのが私の仮説です。「ここはMBAではなく、MFAである」と学部長から頂いたアドバイスから影響されているのかもしれないと、書きながら思いました。

デザインを、資本主義における利潤追求のためではなく、より良い世界を生み出すための手段として活用する。そのために、単に商業利用されてきたデザインを解体するデザインが求められるのではいでしょうか。そんなデザインのことを、"Undesign"とか"Dedesign"と呼ぶことにしましょう。「悪魔のひき臼」にすりつぶされてしまいそうなデザインを救い出すのです。


まとめ

春学期で学んだSpeculative Designの総括から、私が今後取り組みたいデザインの種と、デザイン自体の未来を考えてみました。「こんなことを考えていても就職にはつながらないなぁ」と考えてしまうのも、資本主義社会に生きる宿命でしょうか。それでも、デザインの力を信じるデザイナー(のたまご)として、まだまだリサーチも足りないし論理展開も拙いのは自覚してますが、どうしても書いておきたかったので書いてみました。

この記事が参加している募集

いただいたサポートは、デザイナー&ライターとして成長するための勉強代に使わせていただきます。