ミニマリズムは「道」たりえるか? #154

新しいものを生み出し続けたり古いものを手放すのではなく、手元にあるものを磨き続けることに集中する。コンテンツにおいても、新作を生み出す続けたり何も生まないわけでもなく、何か一つのコンテンツを改訂し続ける。

そんな考え方、生き方がミニマリズムの本質ではないか。そして、このための方法論は単なる「術」ではなく、「道」になり得る可能性を秘めているのではないかと予感しています。


日本では、茶道、華道、書道など様々な日常生活が「道」にまで昇華されています。お茶を点てる、花を生ける、字を書くという日常にありふれた行為が芸術的な領域にまで押し上げられています。さらに、定められた型を習得しながら自分の人格をも修めていくという側面も付与されています。

「日常生活を丁寧に行うことが心を磨くことにもつながるという精神性を、現代版で何か生み出せないのか?」というのが今の私の些細なアイデアです。自分の動きを「型」にはめていくことで心が磨かれていくという構造があるならば、その構造を現代社会の日常生活版があってもいいのではないかと思います。

たとえば、もし「スマホ道」があるならば、どのようなものでしょうか?左手で持ち、右手で操作すること。ロックを解除したらスクリーンタイムを確認すること。使い終わったアプリはすぐにバックグラウンドから消すこと。以上は単なる思いつきですが、こうした手順が決まっていたら、スマホをいじることが精神を磨く行為になるのでしょうか?


ミニマリズムは、現代社会を生き方を基にした「道」である。そんな次元にまでミニマリズムを持っていきたいという気もします。作法を決める(今風に言えばルーティン化する)ことによって、その動作が儀式になる。儀式の効能は社会学的に論じられているはずなので、この辺りの知見も活かしたいです。もちろん、ミニマリズムである必要はないのかもしれませんが、一つの方法論や思想の軸としては参考になるでしょう。

資本主義が栄え、インターネットが普及した現代における作法とはどんなものがあり得るでしょうか?「ネット道」や「スマホ道」などが伝統になっていく日は来るのでしょうか?窓派と林檎派との流派の違いで、作法が違ったりなんかしたりして。

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