見出し画像

2024年5月23日 虎の敷物


職場のお昼ご飯に、持参した昨夜の残り味噌汁を温めていたら、
「なんのスープですか」と若い人に聞かれました。
「昨夜の残りの味噌汁です」というと、衝撃を受けたような表情ののち、「味噌汁…」と呟いておられました。
(ちなみに味噌汁は、アルコール消毒した密封容器に注ぎ、冷蔵庫に入れておいたものです。常温保管はしておりませんのであしからず)
そのまま固まっておられるので、
「ただ残った味噌汁を捨てるのがしのびなくて持参しました。容器はアルコール消毒していますし、冷蔵庫で保存していたので悪くはなっていません」
ということを説明したかったのですが、(もう少し前ならきっとそうしていた)
そういうことではないかもしれないと判断し、曖昧な笑顔を作ってその場を離れました。
万が一、昨晩の残りの味噌汁を持参することをこれまでに、考え付かなかったとしたら、
一度やってみてほしいものだとも思いました。
味噌汁の量って大体多めになってしまうので、職場に持参するという選択肢ができるとずいぶん楽になるのです。
しかし、そういうことを訴える場面でもなかったような気がします。

一体どう答えるのが正しかったのでしょう。
そして、若い人は何を言いたかったのでしょう。
味噌汁をつくるタイプには見えないということなのか、
それは味噌汁には見えませんということなのか、
昨晩作った味噌汁をお昼にするなんてとんでもないことだということなのか、
味噌汁を職場に持参することは社会的ルールに反するということなのか、
反応が読めずに困惑しました。

おそらく、真実はどれでもない、でしょう。
年上の職場の人と給湯室で出会ったので、
話題を探した結果「味噌汁」しか話題がなかったということです。
色々な言葉が頭に浮かびましたが自意識過剰というやつのはずです。
健康な普通の人は、職場の人の生活をさほど気にしないものでしょうから。

とはいいつつ、その人から見ると、
「私」はどういう生活をしている人か全く想像できないタイプの人間なのかもしれないとも思います。
親戚にいる何をしているかわからない謎のおじさんの職場バージョンです。
風体も言動も胡乱な上に、経歴も立場もよくわからない人間なのです。
そう思われても仕方ないかもしれません。

その流れで、ひとつ思い出しました。
その昔、知人が部屋に遊びにきて、
「案外普通の部屋だな」と言われたことがあるのです。
「どんな部屋を想像していたのか」と尋ねると、「虎の敷物、頭つきのやつがおいてあるみたいな感じ」と言われて吹き出しました。
その知人からり、虎の敷物(お頭付き)の上で優雅に?生活するタイプに見えていたのかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。
いっそのこと、
実際にそうしてみようかとも思ったのですが、
見るたびに動物好きとして楽しい気持ちになれないだろうし、高価そうだと思って、
虎の敷物は諦めたのでした。
(虫も沸きそうな気がするし)

他人の人生なんて知人や友達であっても、わかっているようでわかっていないということなのでしょう。

ひとは、自分の人生よりも他人の人生の方が華やかで驚きに満ちているのではないか、
もしくは自分より充実しているのではないか、と、どこかで常に疑っているのだと思います。
「この生活よりずっと華やかな生活がどこかにある」
「自分の単調な生活より面白い生活をしている人がいる」
「充実している人生のひとはいいな」
と考えているのではないでしょうか。
確かに、代々続く歴史ある名家の生活は想像もしたことがない体験で彩られていそうですし、
ハリウッドスターやポップスターの人生はめくるめく体験の連続であるように思えます。
同年代の人がどういう暮らしをしているのかわからなくなった時、時折、雑誌を買って
家計簿特集や着回し特集を眺めますが、
自分と同じような人生の人は載っておらず、「自分は、はずれ値なのだな」といつも感じます。
普通にすら、達していない人間だと感じることもあります。

でも、そんな人間でも「虎の敷物をしいてそう」と思われたことがあるのです。
今後も、この人生が終わるまで、虎の敷物を部屋に敷くつもりなんてありませんし、
それどころか虎の敷物の現物に出会うことすらなさそうなのに、
「虎の敷物をしいてそう」なのです。

他人の人生と自分の人生を比べることは意味がないということでしょう。
「うらやましい」「ちゃんとしててすごい」と思ってしまう誰かの人生も、
「私」の虎の敷物くらい存在しないのです。


気に入ったら、サポートお願いします。いただいたサポートは、書籍費に使わせていただきます。