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なぜ日本人はカレーのことになると素直なのか? #己を知って一歩

はじめに
 わたしは「誰かを理解することのむずかしさ」と向き合っているうちに、そもそも人をしっかり理解することなんてできないんじゃないかと途方に暮れそうになってしまいました。
 けれど、色々と人の交わす言葉や、ボディランゲージや、にじみ出る雰囲気を観察しているうちに、ふと気がついたことがあります。それは、カレーのことについて話している人たちの間に流れる穏やかな空気感です。カレーのことになると、人は穏やかにいい具合に人のことを理解しているように思います。なぜカレーの周りには穏やかな空気が流れているのか?そのことについて掘り下げて考えてみました。どうかご笑覧ください。


問題意識
 何を考えているのかわからない人が多くなった。遠くの人だけでなく、近くの人のことも理解し合うことが簡単ではない。むしろ近くの人の方が、どのように理解するものなのか、落としどころがわかりにくい。

 人は、理解し合おうと思って、事実確認や、意見を伺うために人は話しかけるのだが、ときにその行為がひとを傷つけることがある。確認した人は、ただ単に事実を確認したかっただけなのに、受け取った側は何か不快な気持ちになってしまう場面は少なくない。
 そのような場面は、人が感じる生きづらさのうちの一つだ。確認した人は他者を知ろうとして聞いただけなのに、受け取る側が少し「むすっ」としてしまい攻められたような感じになる。

 そこで、そのような場面で角が立たぬように、小手先のコミュニケーションスキルが使われる。そのようなきまずい状況を緩和するために、前後に相手を気遣うような、本題とは関係のない和らげるような言葉を置いて相手との関係が崩れないように配慮する。褒め言葉や、感謝の言葉である。クッションとなる言葉は、秩序を保つために機能している。

 しかし、それではサンドイッチの具の部分つまり主要な内容については、相互理解がなされていないままである。「あなたはあなた、わたしはわたし」と言い聞かせてその場をまるくおさめる。これでは結局、相手を理解していないということとほとんど同じではないか。肝心な部分については理解しあえてないままなのではないか。

 この状況をどのように捉えるのか。そして、どのように乗り越えていけるのかが課題である。そこで、このつたない文章も、その課題に立ち向かってみたい。

 上記のような問題意識をもつようになって、長い時間が経っている。そうやって生活する中で、わたしはとある場面では人々が、そのあたりのことをうまく立ち回っていることに気が付いた。それは何か?もったいぶらないで言ってしまおう!それは「カレー」だ!「え?食べ物の話をしているの?それなら興味ないんだけど」と思ったそこのあなた、是非続きを読み進めて欲しい。

 「あなたにとってカレーといえば、何カレー?」と聞かれたら何と答えるか?

【記述欄:        】

 おそらく、カレーに対する自分の考え方や、印象を問われる時には、「私は○○カレーが好きだ!」とはっきり言えるのではないか。

 それでは、カレーではなく何か話をしにくい特定の分野を一つ思い浮かべていただきたい。例えば、ジェンダーに対する考え方、お金との付き合い方に対する考え方、お笑いのあり方に対する考え方については、人と意見が食い違いそうな気がして、少し躊躇しながら会話したりしていないだろうか?そのほかにも、家族構成(誰と生きるか、子供を作るかどうか、何人か)、贈り物の捉え方、どういった暮らすかについても、言葉選びが慎重になるのではないか。ときには、伝えきれなくてもどかしい思いをしたり、伝えた後でどう思われたかなと思ったりもする。相手に勘違いされた状態で反論されることもある。

 生きてきた背景が違うと、違う意見を持っているということはわかっている。わかっていても、自分の認識と違う言葉が跳ね返ってくると、疲れる。だから、その点について向き合うことを避ける。それによって、他者理解には辿りつかないことが多いように見える。

 けれど、カレーの場合には、「私は○○カレーが好きだ」、「カレーといえば○○だ」がはっきり言える。

 このことについて、「カレーは単なる食べ物の話だから呑気でいられるんだよね?」と思ったならば、それは確かにそうかもしれない。けれど、あなたが真剣に取り組むことについて、他者にとってはとるにたらないことと思っている場合もある。逆に、あなたが他者の大切な関心ごとに対して「え?そんなことで考え込むの?」と思うこともあるだろう。だから、単なる食べ物の話というわけではない。

 自分自身が何かを伝えるときに言葉を慎重に選ぶことに慎重になる。逆に、他者のジャッジメント(「あなたって〇〇だよね」と判断されること)に疲れるから、意見交換はほどほどに、人を厳選して話すという操作を繰り返しているように見える。

 人に伝える時に思考を整理する機会となっているという場合は、人に伝える機会を減らすのと同時に、自問自答する機会も減っているのではないか。だとすると、本人が自分自身のことを理解する深さも目減りしている可能性がある。

 言葉にするかはさておき、自分自身が自覚することは、その後自分自身の中での自問自答や、他者との交流の積み上げに影響があると思う。だから、まずは自分自身がどういう考えを持っているかを自覚することは、自分らしく生きやすく生きていくことにつながると考えている。自分自身の中にある固定観念や偏見にもなるべく自覚が持てたほうが良いように思う。(何が固定観念で、何が偏見かは、自分の中で決まっているのではない。身の回りと連動していて常に移り変わっていくのではないか。)

 いったい自分が何を考えているかを見失っていては、うまく次に繋げていけない。カレーで言うところの「私にとって、カレーといえば○○カレーだ」といった自分自身の確固たる認識を表現することから遠ざかってばかりである。「私は、××について、このように考えている」がなかなか自覚できなかったり、自覚していないから主張には繋がらない。

 ありのままでふるまわないで他者と交流することは、つまり偽りの自分をみせているということである。偽ったうえで、他者と交流するからまたあらぬ方向へと歪んでいってしまう。

(カレーなら、「やはり○○カレーだ。そこからはずれるとちょっとカレーとは言いがたい」という、自分の中にもある本音(それが固定観念や偏見、もしくは自分の生まれた環境がベストだと思い込んでたりするような)を素直に受け入れられる。カレーのことであれば、他者の中にもそういう考えがあって当然だということも想像しやすい。他者理解、比較、尊重へと進むことができるのではないか。文化人類学的に考えてみたい。)

(協力が大切というけど、どうやって他者と他者が理解しあって協力関係を結ぶのか?そもそも理解し合うのか?相手をどう認識して、どう認識しないで、どのように交わり関わるのか?)

カレーのよそ者性

 インドではどう定義されているのか?カレーはインド発祥の食べ物であることは言うまでもない。しかし、カレーの概念は定まっておらず、諸説ある。もともとタミル語のkariからきているという説がある。kariはタレという意味もあれば、具という意味もあるそうだ。(引用元:https://www.sbcurry.com/faq/faq-467/)

 つまり、カレーの概念が曖昧であるがゆえに、日本人はカレーの上で自由に創造することが許されている。

 オーバーにいえば、日本人はカレーに大きな空想をのせている。カレーに夢を託している。幻想を、憧れを、何か素晴らしい世界観を、カレーに乗せ込んだ、つめこんだ、煮込んでいるのだ。

 今から、一人で作るとしても、何人かで作りはじめるとしても、そこには正解がないのだ。新たに想像する余白が常にある。(カレーには既得権益がない?)

 日本人にとってのカレーは誰にとってもよそ者性があるから、平和な空気が流れてるのではないか?

 まさかカレー自体を独占しようとするものはいない。現れたとしても、カレーは誰のものでも、決まったレシピもないものだから、成立しない。

(今後の課題:ではインド人は日本のカレーをどう思っているのか?)

カレーで考える意義

 「カレー以外の食べ物でも、言えるんじゃないの?」と思いながら読んでいる方がいるかもしれないので、その点を考えてみたい。「美味しいものをたべていれば、平和だよねー」というけれど、その食べ物にもまた余計な解釈がついてくる。

 例えば、味噌汁や、お雑煮を思い浮かべて欲しい。これらは日本の伝統食である。そうなると、どこか正解の味や、調理方法があるような気がしないか?

 そこでカレーなのだ。なぜカレーか?カレーにはどのような特性があるのか?

・特性1:正解がない
 明らかに外来のものであるためコミュニティ(日本人)の中で正解が存在し得ない。

・特性2:正解を主張する人が現れない

 マウントがとれない。とろうとしても。とりきれない。微笑ましい空気が流れる。マウントが成立しない。正解がないのだから。優しい空気が流れるのだ。

 同様にジャッジ(「このカレーが正解だ」とか「カレーたるものこうあるべきだ」といった判断を他者に強要すること)ができない。ジャッジしたとしても、正解がないのだから、ジャッジは成立しない。

 それらの、特定のコミュニティ(今回は日本)にとって、正解がありえないコトの周りでは、平和な他者理解がなされているように思うのだ。日本人にとってカレーに正解は存在し得ない。そのようなカレーの周りで起こる人のコミュニケーションは、素直でストレート、なのに平和。カレーにまつわる話ならば、人間は素直に話せる。だから、誤解も生じない。

 カレーの話の中には、必要以上に相手のカレーの好みを全て知ろうとも思わない、ゆとりがある。自分と同じカレーの好みを持ってほしいとも思わない。

 夫婦の間でみそ汁の味で意見がくいちがって争うのに比べて、カレーの味が食い違うことにはさほど目くじらをたてないのではないか。

 今回はカレーで考えているが、他の事物や出来事などに、類似の構造があるならば、是非知りたい。

 ではなぜこのことに気が付きにくかったのか?それは、カレーが食べ物だからであろう。思想ではなくて、食べ物として浸透したから。けれど、いまここでカレー様に、思考の場にきて助けてもらおうという狙いがある。

 例えば、「○○と言う事件があったことを忘れてはいけない」とは言うけれど、過去のことで理解できたのかできてないのか、何が事実で何が嘘か🤯混乱してしまう。ほじくって、藪から蛇みたいなことになりかねない。中途半端な理解によって、また争いが生まれているようにも見える。
 そこで、そんなことなら思い出さずに幸せに暮らせばいいのではと考える人が現れて、「あまり考えすぎるのはやめよう」なんて言えば、そう言うわけにはいかないと言う人が現れる。このあたりが、「地続き」から逃れられない状況なのだと思う。考えた結果アクションを起こせば角が立つ。複数の主張が、なんとかして判断を下した結論を出すことで存在感を示す。複数の違った結論を冗長して、四方八方に突っ走ったばかりに、真ん中で硬い結び目ができてしまっているのではないか。糸がてんでばらばらの方向へ力を加えて、真ん中に硬い結び目を作っている状況にみえる。この状況から、「地続き」から逃げ出さず蓋をせず(足並み揃えて逃げたり、蓋をできたら楽だけど、地続きでできな)、どのように次の道を作っていくのかを考えることが必要だろう。そのためには、もうすでに人々の中にある思想、または人々の実践の中にある行動の中から、かけらを拾ってきて見つけることが大切だと思う。

 そこで、カレーのことならば、ほとんどの人にとって関係のあることである。私は、それぞれが無意識に思考したり振る舞っている様子を観察していきたいと思っている。

(curry(イデア)があって、a curry(人間が作り出すもの)がある?)

カレーで考える意義②
カレーなら既に他者理解をうまくできている日本人。だから注目している。

 望ましい未来を考えるときに、見たことも想像したことのないようなところへ一足飛びに意思を向けることは難しい。

 今求められているのは、今生きる人の中に既に持っている要素の中で、他者理解をうまくやっている部分を抽出して認識しやすくすることではないか?私はカレーの話題の中に、うまい他者理解があると主張している。

 この主張に対して、そんなの食べ物の話だからけんかにならないだけでしょと言って見捨てないでほしい。そして読み進めてほしい。

 それから、「カレーだけじゃないよね?」や「カレーよりもっと、正解がないなかで平和な空気がながれているよ」という批判があれば喜ばしいことである。もしカレーの周り以外でも、「特定のコミュニティにとって正解のない事柄なゆえに平和な空気が流れながら他者理解をうまくやっている場面」があれば、知りたい。

 (一足飛びに戦争、環境問題、人口問題などは解決していかない。過去からの経緯によって、様々な要素、思想、歴史経験、偏見などがブレンドされた個人や地域、団体、民族、国、地球を全部捉えることはできない。)

(記述することが支配的であるという課題を乗り越えることにもつながるのではないか。)

カレーで考える意義③

 カレーについて考えることの良いところは、だれもが関与しているから想像しやすいことであるというところだと思う。

カレーの周りで起こる他者理解の様子は?

 どういうわけか、カレーに接する人間は、平和な状態で、わたしはわたし、あなたはあなたを無意識に前提としているようにみえる。その上で、それであなたの味はどうなってるの?へぇわたしはやっぱり自分の味がいいと思うわけれど、あなたのもいいわね、何入れてるの?少しまねしてもいいかしら?どうぞどうぞといった塩梅だ。意見が合わなくても、どうということのない空気感。意見が合わない相手の特徴を聞いてみたければ聞いてみるし、分からないことがあれば尋ねやすい雰囲気。そして、相手の要素を取り入れたいと思えば気軽に取り込んでいく。そのようなやりとりが、平和に行われている。

 ルーはどうしているのか?、具の大きさをどうするか?、スパイスは何を使うか?、リンゴやチャツネなどの果物の具合は?などについて意見を聞いて、取り入れたりするだろう。ありあわせで作っても良いし、型にはめて作ったってそれぞれ成り立つ。好きに作るもので、自由だ。(カレーを作らない人は、他の食べ物や活動の中でおんなじような構造がないか見つけて教えて欲しい。)

 どのようなカレーを初めに食べたのか、食べ慣れているのか、についてまっさらなところから話を聞きやすい。カレーと言っただけでは伝わらないもので、他者がどんな食べ物をカレーと言っているのか?を聞くこととなるという点は重要な点である。正解がないからこそ、相手の言っているカレーについて理解したいと思う場合は、かぎりなく先入観ない状態で聞くことになるのである。

 カレーは、オリエンタルカレーなのか、それともバーモンドなのか、CoCo壱や星の王子さまなのか、それとも誰かによるスパイスの絶妙な調合に基づくカレーなのか。(相手の言うカレーがどんなものかを聞こうとしたことがないと言う声も出てくると思う。その場合は、一度試しに誰かに尋ねてみてほしい。)

 つまり、初めに食べたカレー、置かれた環境は人それぞ背千差万別だということが、自然と理解しやすいのだ。そして、カレーといえば○○と自分の中にあるカレーを認識しやすいのではないか。もちろんそのカレーは、一つである必要もない、はっきりした答えである必要もない。自分の中にあるカレー像を捉えられることが重要なのだ。

他者理解がうまくいかない場面では何が起こっている?

 それに対して争ってる場所では、関わる人、皆が正解があることを信じ込んでいて、疑いもしない。そして、考え続ける限界がきて、最後にどこかに答えをだすために正解を求めて判断する。しかし、その判断が複数の人や集団の間でズレるから、認識違いとなっている。そして争う。

 ひとりひとりが、自分の中にそれぞれの唯一無二の文化を形成している。その文化を形成する過程によって、さまざまな民族集団、コミュニティ、個々人が生み出されて、生成されて、熟成されていく。もしも民族がカレーの鍋のようなものだとしたらどんなふうに理解を深められるか?もしもコミュニティがそうだったらどうか?もしも個々人がそうだったらどうか?

理論

 ある外来のもの(例えばカレー)が、あるコミュニティ(日本人コミュニティ)にやってくる。その外来のものが、そのコミュニティに元来とはち違う形で、広範囲にわたって入り込んだ時に、正解の無さにより平和な空気が流れる構造が生まれる。

(もしかしたら、アメリカにおける寿司は、その位置付けになるかもしれない。アメリカへ行ったことないから、知らんけど。)

 カレーというものは誰も正解を知らないし、そもそも正解がない。同時に、どうしても日本人の中では正解は作りようがない。外来のものだからコミュニティ内(日本)で正解を追い求める作業がない。空想を詰め込める、自由に創造できる対象(カレー)となる。だから、カレーの周りには平和な空気が流れているのだ。

 異国の文化を取り入れることで、正解のないことを前提にした、穏やかな他者理解が成り立っている。穏やかなというのは、ヒエラルキーもなく、ジャッジメントがない、もしくは、ヒエラルキーもジャッジメントも効かない(威力を持ちようがない)状態のことを言う。

 他者理解のありようは、これまた様々だろう。このカレー理論自体も一つのカレー鍋の中で起こっていることに過ぎない。他者理解の一つのありようとして、私はカレーの周りで起こっている他者理解に興味を抱いているに過ぎない。

 私はカレーに興味があるから、カレーで考えてみたけれど、この構造(正解の無さにより平和な空気が流れる構造)は他の事物、出来事の中にもたくさんあるように思う。

 加えて、二項対立を乗り越えていく可能性もある。なぜなら、カレーには正解はなく、誰も二項対立を作れないから。けれどもしかしたら、カレーの中にもトロトロカレーとサラサラカレーで二項対立としてみなしてみる人もいるかもしれない。けれど、本来カレーとは?が定まらないのに、そのような二項対立はこじつけでしかないと、気がつけるだろう。便宜を図って二項対立を用いて考えたとしても、さほど信頼性のない二項対立であると気が付きやすい。
 とにもかくにも、カレーには正解がない。カレーのように正解がないことを念頭におけば、二項対立の解釈のもつれ、硬い結び目を、少し緩ませて扱えるのだ。

もっと知ってみたいこと

・カレーだけではなくて、このような構造の中で行われる平和のコミュニケーションをもっと知りたい。

・日本ではなく他の国では、「カレー」にあたるものが何になるのか?

・カレーはそのままにありあわせの材料を投入して、煮込まれる。ありあわせではなく、必ず人参、じゃがいも、たまねぎ、豚肉を必ず入れるかもしれない。レヴィ=ストロースの「野生の思考」に関連づけて考えるとどうか?

・一般交換の原理が働いている様子を分析してみたい。

・カレーの基本構造について調べてみたい。

・イノベーション理論との関連はどうなるか?新参者が参入することで組織が活気付くことと関連しているか?

・さまざまなカレーと、その周りにいる人間の暖かさ、理解のある様子、多種多様なカレーがあることをマイルドに受け入れ受け流していることについて。

・なぜ日本人にとってのカレーは平和なのかという疑問に対して、地理的条件や、離れている距離から考察できるか?

・時代を経て、家の中での争いの種類が変わってきてるように思うので、そこで何が起こってるのかを、どう捉えるかについて考えたい。

・「私は資本主義というスパイスを2グラムと、民主主義というスパイスを0.5グラムと…といったノリで個人やコミュニティを表現できたりするだろうか?主義とスパイスを重ね合わせて考えてみるとどうか?どう調合するかは、個人のさじ加減となっているのが、現状ではないか?

・手作りコーラやチャイも当てはまりそうだが、どうか?

結論

「なぜカレーの好みならストレートに主張できるのか?認識できるのか?」という問いに対する答えとして、発見したことは、以下の二点である。

①正解のないことのまわりには平和な空気が流れている。秩序がある。

②そして他者理解をうまくやっている。


あとがき

 私の育った環境のことになるが、家庭の中で、様々な生育環境、文化背景を経ている3人がいるだけで、喧嘩はたえなかった。家の中で起こる紛争をどうしたら良いか考えて、トライアンドエラーを繰り返した結果、私はどのようにしてこの苦しい感情からドロップアウトできるのかを考え続けてきた。そして平和な生活にすこし近づいたと思う。そしていきやすくなった。おそらく家族の問題ととことん向き合う機会があったおかげで、私はいろいろ考える機会に恵まれてきた。というか考えざるを得なかった。

 このような話をすると共感してくれる人も多い。身内のことほど他者理解を進めるのが難しいのは私だけではないのではないか。

 そもそも私がカレーと頻繁に接するようになったのは、7年前。仲間のアイディアがきっかけで、カレーまつりを運営する立場に立った。約15店舗が参加して、300人ほどのお客さんが足を運ぶ。

 これまで色んなイベントをしてきた中で、カレーまつりはとても運営しやすいことに気がついた。その運営のしやすさはどこから来るのかについて考えることが増えた。もちろん飲食店のオペレーションにマッチしていることは、まず明確だった。それは、アイディア時点で、ある程度予想していた。お店側の前日までの準備や、後日残った場合の対応にも柔軟性があるのだ。そして、カレーはターゲットに老若男女を問わない。それも、いろんな方にお知らせするときに「来て〜」と言いやすく、集客も気楽だった。その頃に、私たちの間では「カレーはユニバーサルフード」なんていう標語が立ち現れた。

 しかしそれだけでは、なぜカレー祭りが運営しやすいのか?なぜ私はカレーに魅力を感じているのか?について腑に落ちていなかった。カレーの特性についてさらに考えていた。

 私はよく悩み相談される。それは私自身がおそらく個別具体的な話をきいて悩みの核を見つけ出す。そして、私の37歳までの間に事実として起こったことをどのように考えたり、捉えたり、乗り越えたり、乗り越えたと思い込んだりしたことをなるべく伝わりやすいストーリーとして伝える(メタファー)。それから、これまで受けた相談内容と類似点があれば、個人情報が特定されないように個別名称を伏せたり、抽象度を上げて伝える。悩みは全く一緒ではないが、構造が似ているところを見つけ出して、心を落ち着ける方向を目指すのだ。そういうことを何度も繰り返しているうちに、自分自身の限界を感じていた。それは、「あなたの場合はそうだったのだ」、「その人はうまくできただけ」という話で終わってしまう場合もあることだ。それから、私自身が自分の背景をまず伝えて理解してもらう過程で、認識違いが生まれては、伝わらないということだった。

 悩み相談で多いのは、人間関係の悩みが多い。人間関係の悩みというのは、理解し合えない場合に起こっている。人にジャッジされたことを不服に思っていたり、人に序列化されたことに不満を持っていたりするケースが多い。

 「人に言われただけなら気にしなければ良い」という意見はあるが、自分でもそう思うところがすくなからずあるからこそ、悩みになることもあると思う。言われたことに対して腹が立つが、一理あるなと思うから気にせずにはいられない。

 そういうわけで私の頭の中で、「カレーの魅力は何か?」と、「他者理解するときにどういう姿勢が望ましいか?」という問いが共存していた。ある時までは別の問いだった。ある日、とある少し内気で口数も少なく、自分の意思をはっきり言葉にしない人が「私は、バーモンドカレー!カレーと言ったらバーモンドカレーでしょう、それ以外は考えられない。」と言った。その言葉がきっかけとなって、今回のカレー理論を考えてみた。
 生きている人たちが既に持ち合わせているものの中に、自然と平和が保たれている構造を見出して、そこに言葉を当てることが大切である。すでに誰もがしていることであればそれをしてみることで、起きていることを捉えることができたり、判断をうまく先延ばししたり、やめるということもできるだろう。
 ある特定の分野において何らかの二項対立の中で、一方が優位、他方が劣位としているのならば、そのことに自覚をもつことができるだろう。また、そこに正解がないならば優劣の判断も機能しきれない、という可能性を考えることとなる。
(人のカレーを笑うな、ということ。)

 「他者理解」といわれてもやったことがないからできない。けれど人は、カレーなら既にやっている。自分の考えや先入観・固定観念を自覚しているだけでも、心の持ちようや言動に影響を与える。
 カレーは、今から一人で作るとしても、何人かで作りはじめるとしても、そこには正解がないのだ。新たに想像する余白が常にある。

他のことについても、
もし正解がないとしたら?
新しく創造するとしたら?


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