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負け犬の遠吠え 大東亜戦争62 日本本土空襲②神の名を語った虐殺

1939年、ドイツの科学者によって「核分裂反応」が発見されると、ナチス政権下で原子爆弾開発が推し進められるようになります。

これに焦ったアメリカやイギリスは対抗するように共同で原爆開発「マンハッタン計画」を開始、科学者・技術者を総動員しました。

マンハッタン計画の中心となった研究者の中には、ナチスドイツから迫害されて亡命してきたユダヤ人科学者が多数存在し、大きな影響を与えています。

彼らは飽くまでもドイツが核兵器を先に所有する事に危機感を抱き、「ドイツ憎し」で動いていたので、日本に対する使用は想定していなかったと言われています。

原爆開発に直接関わってはいないものの、アメリカ政府への原爆開発の要請に署名したこともある科学者「アルベルト・アインシュタイン」は「日本に原爆を使用しないように」との手紙を1945年3月25日にルーズベルト大統領に送りましたが、大統領はこれを読む事なく4月12日に病没してしまいます。

1945年5月にドイツは降伏しましたが、原爆開発の矛先はそのまま日本へ向けられます。

7月16日、世界で初めての核実験「トリニティ」が行われました。

トリニティという言葉は「三位一体」という意味であり、これはキリスト教の宗教用語です。

この名前がつけられた意図は定かではありませんが、実験名をつけたのはユダヤ系アメリカ人の物理学者で、原爆開発研究所の所長であるロバート・オッペンハイマーでした。

彼は実験名をつける時、イギリスの詩人ジョン・ダンの詩の一節が頭にあったと語っています。

ジョン・ダンの詩には「トリニティ」という単語が含まれる次のような一節があります。

「私の心を叩き割ってください、三位一体の神よ。私を倒して、力一杯、壊し、吹き飛ばして、焼いて、作り変えてください」

ユダヤ教やキリスト教には「終末論」という考えがあり、これは人類に破滅的な神の審判が下され、イスラエルの民だけ救われるというものです。

彼らは「原爆」と「三位一体の神」を重ね合わせ、自らの悪の所業を「神の裁き」として正当化しようとでもしたのでしょうか。

トリニティ実験で使用された人類初の原子爆弾は「ガジェット」という無機質な名前を与えられ、核の時代の始まりを告げました。

話は変わりますが、実は日本も「原子爆弾」の開発を進めていました。

陸軍航空研究所の所長、安田武雄中将は部下に原子爆弾の開発を命じ、1943年5月に「二号研究」を開始します。

中心となったのは理化学研究所の「日本の近代物理学の父」仁科芳雄博士で、彼は英国科学雑誌「ネイチャー」に核分裂実験の成果を投稿するほどでした。

仁科博士

しかしとにかく肝心の「ウラン」が入手困難でした。

日本、満州、朝鮮などでウラン鉱山の探索が行われますが結果は出ず、福島県では中学生を動員してウラン採掘を行いましたが、そこで採掘されたわずかなウラン石も、ウラン含有量の少ないものでした。

石川中学の生徒達

同盟国ドイツからの潜水艦輸送が最後の頼みでしたが、輸送中にドイツが降伏、ドイツ潜水艦は浮上して降伏する道を選びます。

日本への輸送任務のために同乗していた日本人将兵、友永中佐、庄司中佐両名は大量の睡眠薬を飲んで自決しました。

日本へ輸送されるはずだったウランは全て没収され、日本の原爆開発は不可能となったのです。

降伏したドイツ潜水艦

また、日本陸軍に遅れて海軍も「F号研究」として原爆開発を目指していました。

熱拡散法によるウラン濃縮を目指した仁科博士の二号研究に対し、F号研究は遠心分離法を用いたもので、日本を代表する原子核物理学者である荒勝文策博士や、後にノーベル賞受賞者となる湯川秀樹などが携わっていました。

「二号研究」「F号研究」ともに物資不足は決定的で、成功する見込みは皆無でしたが、その研究内容のレベルは高く、これらの資料は戦後、GHQの手によって全て持ち去られました。

1945年2月4日に行われたヤルタ会談において、ルーズヴェルト大統領はソ連のスターリンと「ドイツ降伏の三ヶ月後に対日参戦するように」との密約を交わします。

日本を降伏させるためにソ連の力が必要だと考えていたルーズヴェルトは4月12日に死去し、ドイツは5月に降伏、ソ連の来日参戦は8月上旬であることが予想されました。

7月16日のトリニティ実験が成功すると、ルーズヴェルトの後任のトルーマン大統領は、原爆さえあればソ連の力は必要ないと考え、ソ連が日本に侵攻してくる前に原爆の圧倒的な威力を見せつけてソ連を牽制する必要性がでてきました。

トルーマンの大統領としての最初の仕事は「原爆をどこに落とすか」を決めることです。

原爆投下予定地として当初想定されていたのは「京都・広島・横浜・小倉」となっており、候補に挙げられた都市はなるべく建物を残して原爆の威力を調査するために無差別爆撃が行われないでいました。

横浜では原爆投下予定地から外れた翌日に大空襲が行われ、原爆の威力を確かめるために最適な盆地である京都をどうするのか迷走した挙げ句、8月2日に最終候補地が決定します。

第一候補に広島、第二に小倉、長崎は第三候補でした。

米軍の原爆投下は実に用意周到で、かつてない形状の爆弾を投下することになるので、「パンプキン」と呼ばれた黄色くて丸い形状の模擬原子爆弾を用いて各地で投下訓練を行いました。

模擬原爆パンプキン

原爆は分解された状態で重巡洋艦「インディアナポリス」によってテニアン島に運ばれ組み立てられ、Bー29に積み込まれました。

原爆を輸送したインディアナポリスはその後、日本の潜水艦によって撃沈され、多くの乗員がサメに食べられてしまいます。

インディアナポリス

1945年8月6日と8月9日、この2つの日の惨状についての説明は日本人には不要かと思います。

しかし小倉に投下される予定であった原爆が長崎に投下された理由については「天気が悪かったから」という定説がまかり通っていますが、実際は違います。

一発目の原爆が投下されて以降、日本軍は少数編隊のB-29には神経を尖らせていました。

小倉の八幡製鉄所の従業員たちは B-29の少数編隊が北上しているという情報を入手すると、コールタールを燃やして煙幕を張ります。

これによって小倉上空は煙で覆われ、B-29は投下予定地が確認できなくなり、予定爆撃航路を3回も行き来したあと、目標を長崎へ変更したのです。

長崎の空も雲で覆われていたのですが、雲の切れ間から一瞬だけ市街地が確認されたため、原爆が手動投下されました。

爆心地がカトリック教会の真上であったことはなんとも皮肉な事です。

被爆したマリア像が今も残っています。

被爆マリア

広島の「ウラン型」長崎の「プルトニウム型」の二種類の原爆投下は、どんな綺麗な言葉を並べても許される事のない「人体実験」です。

戦後、日本に進駐してきたGHQは、これまで必死に治療を行ってきた日本人医師達に治療法の発表と共有を禁じ、死没被爆者の皮膚や臓器、生存被爆者の血液やカルテなどを没収しました。

治療してしまったら「実験」にならないからです。

アメリカは原爆被害についての報道も規制し、原爆傷害調査委員会「ABCC」を広島、長崎に設置し、被爆者達を観察し、経過を追って情報を収集しました。

数回にわたり行われた被爆者に対する大規模な調査のデータには、日本人は一切関わる事が許されませんでした。

被爆者達は草を食べ、雨水をすすり、傷は自然治癒に任せるしか生きる術がありませんでした。

ABCCは現在も「放影研」と名前を変えて、日米共同で今も被爆者達の追跡調査を行っています。

放影研

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