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【小説】手紙⑨

 前略 お元気ですか。
 すっかりご無沙汰してしまいました。
 早いもので、加奈子さんが亡くなってから、もうすぐ一年が過ぎようとしています。私たち家族の生活も、少しずつ日常を取り戻し、加奈子さんのいない日々に、ゆっくりゆっくり慣れていっているところです。

 今朝、遺品を整理していた母が
「懐かしいものが出てきたのよ」
 と、古いスケッチブックを見せてくれました。そっと開いてみると、どのページにも、ぷくぷくとした柔らかな、生まれて間もない頃の赤ちゃんの絵が描かれていました。目をぱっちりと開けた顔の正面や、思わず触りたくなるようなほっぺ。指をおしゃぶりしているところ。ふわふわの髪の毛や、ぷにぷにした腕と手。それらは全部、赤ちゃんだった頃の私でした。
 当時、加奈子さんは、小学生になったくらいの年齢でした。それなのに、どのページのどの絵も、そんな小さな子どもが描いたとは思えないほど、とてもよく描けていました。描かれているどのシーンも本当に愛らしく、自分で言うのもナンだけれど、すごくかわいらしい赤ちゃんでした。

「加奈子は本当に、絵が上手よねぇ。これなんて⋯⋯ほら、大人が描いたみたいでしょう?」
 母は、加奈子さんが今でも目の前にいるみたいに呟きます。
「うん。そうだねぇ。まじ天才だね」
 私も、心から賛同します。
「加奈子はねぇ、里香が生まれてくるのが楽しみで楽しみで仕方なかったのよ。生まれてからは、ずっと傍にいて離れなかったの。疲れてしまって熱が出て、お医者さまに色鉛筆を取り上げられるまで、里香の絵ばっかり描いててねぇ⋯⋯」
 まるで昨日のことのように、母は笑いながら、そう言いました。

 最初は笑顔でページを繰っていたのに、次第に感情がせり上がってきて胸が苦しくなり、気がついた時には私は、大粒の涙をこぼしていました。一度こぼれてしまうと、もう後は堰を切ったように溢れて、後から後から涙が溢れて、私は一人、しゃくり上げていました。

 私には、加奈子さんと一緒に遊んだり、楽しくおしゃべりした記憶はありません。覚えているのは、澄んだ目をして、いつも遠くを眺めていた姿だけです。その横顔は崇高なほどで、どこか近寄りがたくもありました。特に、階段の上と下とで目が合った、あの日から私は、加奈子さんの顔をまともに見ることも避けるようになっていました。
 それでもどうにか手繰り寄せれば、私のおぼろげな記憶の底の底に、笑っている加奈子さんの幸せそうな顔がありました。それが、色鉛筆とスケッチブックを持って、小さな私を覗きこんだ時の笑顔だったのでしょうか。いや、いくら何でも、そんな赤ちゃんの頃の記憶が残っているとは思えません。
 それでも、母から渡された古い一冊のスケッチブックには、私の知らない私がいました。そしてその私の向こうには、笑顔の加奈子さんと、父や母がいました。小さな私の、一挙手一投足に笑ったり、ひやひやしたり、心配したり、喜んだりする、そんなありふれた幸せな家族が、そこに確かにいたのです。


 私はこの春、大学生になりました。幼い頃に「不思議の国のアリス」や「メアリー・ポピンズ」を夢中になって読んでいた私は、迷わず英文学を専攻することに決めました。「指輪物語」「ナルニア国物語」「シャーロックホームズ」、そして「嵐が丘」。これまで一人ぼっちで過ごしてきた私の傍には、いつも物語がありました。心寂しい時も、何かの気配がして怖い時も、無性に泣きたい気分の時も、物語は常に、私を救ってくれました。
 あのガチガチの「石」さえも、物語の前では無力でした。私は堂々と、誰に阻まれることもなく、いつでも瞬時に物語の中へ入っていくことができるのです。

 ところで今日これから、私は、以前から考えていたことを、遂に実行しようと思っています。それは、あの引き出しの奥に隠してあったお菓子の箱を「埋葬」することです。
 庭の桜の木の根元を、ガーデニング用のスコップで掘り起こして、箱がすっぽり収まる大きさになるまで、私は頑張って穴を掘りました。かつてユウタ君がくれた、ブロックやミニカーや、キャラクターのシールや、いい匂いのする消しゴムなんかが詰まった、あのお菓子の箱。「リカチャン」「アゲル」と、独特のイントネーションで繰り返したユウタ君。門扉をガタガタ揺らして、何度も唾を吐きかけた、ユウタ君の歪んだ泣き顔。それらすべてを、桜の木の根元深くに埋めてしまおうと思うのです。
 来年の桜の花が咲く頃には、私はどんなふうになっているのでしょう。いい子を演じ続けたリカチャンは、きっともう、どこにもいないはずです。里香という名の偽りのない私が、まっすぐに前を向いて歩いている。そんな姿を想像しながら、私は汗だくになって、スコップで穴を掘り続けました。
 ちょうどいい大きさの、完璧で素敵な穴を。


 これが、私からの最後の手紙です。
 これまでお付き合いくださって、ありがとうございました。
 いつかまた、お目にかかる日まで、どうかお元気でお過ごしください。

 追伸 あなたとあなたのお友達が、あなたとあなたのご家族が、いつでもみんな笑顔でいられますように。

                  了

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