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アストロコモンズ—part1

私はいわゆる”先生”と呼ばれる人達に囲まれて育ってきた。身近な人で働いている人達は、父も祖父も伯父も大叔父も、はたまた曽祖父もその先代もみんな学者か医者だった。直接面識のない祖母の家系の人達やらも、祖父や祖母の会話の中では、○○先生が、などと呼ばれていて私はいつも頭がこんがらがっていた。祖父は実の弟のことも○○先生と呼んでいた。今思えば特殊な環境だったと思う。

皆それぞれに色々あったとは思うが、総じて自身の信念に基づいて道を切り拓いていっている印象があった。

私はというと、母は私に学者になってほしかったようだ。しかし、大学時代に白衣を着て実験室に篭っていたある日、これは私のやりたいことではないと確信した瞬間があった。もっと外の世界に飛び出したかった。それで、フランス語の学校に週3回通い始めたり、そのお蔭で奨学金を頂き留学もしたりして、何となく国際機関で働きたいと思っていた。小学生の時から、生まれた場所が違うだけでチャンスが公平に与えられないことに問題意識を持っていた。高校生の時には、砂漠にオアシスを取り戻す活動をしている方の講演を聴いて、人間と地球の共生のために何かしたいと思うようになっていた。

実際に就職が近づいてきて、国際機関は社会人採用しかしていないことを知った。それでまずはそれと同じ仕事ができる日本の機関で働くことにした。10年ほどの間、世界のあちこちで様々な背景を持つ人達と共に働く機会に恵まれた。私にできたことは微々たるもので、いつも教えられることの方が多かった。私が幼い頃想像していた”公平でないチャンス”は実は幻想で、経済的に貧しくとも眩いほどの笑顔と逞しさとで幸せそうに生きている人達にたくさん出会った。国際機関にもほんの一時期出向させて頂き、その雰囲気も知ることができた。

それはそれで充実していたのだが、また違うことがしたいなと思っていた矢先にカナダに来るチャンスを頂いた。3年を上限に休職させて頂くことになった。先のことは考えていなかったが、1年、2年と経つうちに居心地が良すぎて、日本に戻る気がしなくなってしまった。それで、3年が経つ少し前に将来の何の確証もないまま退路を断つことにした。お先真っ暗だったが、思っていたより清々しかった。

辞めますとお伝えしてから1ヶ月も経たないうちに幸いにして今の会社に拾ってもらった。今思えば予定調和だったのだろうか。当時は闇の中を手探りで進んでいる感覚だった。それから2年少し、まだこの世にない先端技術を生み出すエンジニア達を束ね、会社としてどこに向かっていくのかの戦略を担っている。自由でオープンな環境がとても気に入っている。ただ、やはり最初に比べると新鮮味が薄れてきたというのは事実。前の仕事では2年おきに全く新しいことをしていたのでそのサイクルが自分の中にも染み付いていたのかもしれない。

そんな折にまた新たな展開が突如やってきた。初めて”開業”することになった。これまで生きてきて、家族はおろか身近に事業をしている人はいなかった。先生でも雇われの身でもない新たな道。自分でもまさかこんな未来が待っていたとは想像すらできなかった。でもとにかく流れに身を任せ開業届を出した。

そうこうしているうちに、私のこれまでの全てはここに至るための布石で、これが私の本当のミッションのような気すらしてきた。いつの日かこちらがメインの仕事になっているような映像がちらちら浮かぶ。自分の信念に基づいて、やりたいことを実現する。自分で決断し、責任を持つ。先代達の生き様が頭を過ぎる。そして彼らが在って今私がここに在ることも。

最初のプロジェクトは”アストロコモンズ”と名付けた。宇宙資産の公益化ー

その心は、そして何をするのか、それはそのいきさつと共にまた次回書くことにしたい。

愛の循環に大切に使わせて頂きます💞いつもどうもありがとうございます!