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アストロコモンズーpart2’

続き

当時のベルギー大使館は大使公邸と同じ敷地にあり、東京の真ん中にある異国だった。外から見る日本家屋の造りと打って変わって大使公邸の入口には白黒の冷んやりした石のタイルが敷かれ、金色の手すりがついたシックな内階段、お庭も広くて立派に育った木々と日本風の意匠を凝らした庭園、大きなプールもあった。控えめで重厚感のある造りだった。私には樹木の呼吸が聞こえるような気がしていた。都会のオアシスだった。

どれほどの期間働いたかあまり記憶がない。ある時その場所をベルギー国が売却することになったと聞かされた。国の財政難などもあったようだ。こんな美しい場所を取り壊すなんて、と私はただただショックで茫然とした。誰がここを買い取ってどんな風にするのだろうと怒りにも似た喪失感を覚えた。

しかし計画が止められるわけもない。仮のオフィスの大門に移った。私は大学最終年だったこともあり、就職が決まっていて、新しい場所に戻ることはないことが分かっていた。

ここからの記憶は定かではない。私はいつも嫌なことはすぐ忘れてしまう。ある時、誰かから麹町の大使館跡地にできる建物の詳細が明かされそこに新たに入る企業などの名前を聞いて愕然としたことだけは覚えている。私の就職先が含まれていた。
建物完成までに時間があったので、就職して最初のオフィスは別の場所だった。しかしほどなくして麹町のしかも全く同じ場所に戻ってきた。あの美しいお庭のあったところが壊されてそこに自分がいるということを理解するのに時間を要した。

***

祖父母の話に戻る。彼らが麹町を離れて移り住んだところが私が知る祖父母の家である。昔は渋谷を牛が歩いていたとは色々な人から聞くが、渋谷からほど近いその辺りも竹藪だったそうだ。引越しをした戦中・戦後は土地を売ってもらえないことが多く、家と借地権を買い、そのうちに所有権を得たようである。私が知る限りでも大きな敷地だったが父達が幼い頃はその倍以上もあったようだ。
祖母はよく、ご縁があってこの土地の管理を任されたからねと言っていた。そしてことある事に、今を生きられていいわねぇ、私の時代は戦争だったからとも言っていた。

昨年私はその土地の一部を譲り受けることになった。なぜか分からないが気づいたらそういう話になっていた。言われるままに祖父の生前に養子になった。90歳を過ぎていた祖父に養子縁組届に署名をしてもらいその紙を持って、当時働いていた麹町のオフィスから千代田区の循環バスに乗って、千代田区役所本庁に出向いて届けを提出した。私は養子縁組届なんて今時出す人いるのかなとドキドキしていたのだが、窓口の男性職員は慣れた様子ですんなり受け付けて下さったことが昨日のことのように思い出される。

祖父が亡くなった後は、寛大な伯父と父のお蔭で私は何もせずにある日そのまま土地の一部とそこに建っていた祖父が退職金で造ったコンクリート建の家(書斎兼書庫)を受け取ることになった。麹町の家もコンクリート建だった。祖父の、彼の父への想いがそこに垣間見える。

こうして新たに結んだこの土地とのご縁。
しかしどうしても自分のものという気がしない。そもそも土地に線を引いてここからここまでは誰の所有というのにずっと昔から違和感があった。世界地図のあの真っ直ぐ引かれた国境に感じるのと同じ違和感だ。
そういえば学生時代に、ナイル河を2週間くらいかけて川下りした時に、アブシンベル神殿まで行き、その先も流れは何一つ変わらずに続いていたのに、この先は違う国だと言われてそこで引き返したことをふと思い出した。そこに見えない境界があった。

明治維新や戦争といった日本の歴史の大きな転換点を生き抜いてきたご先祖様達とそれを一緒に支えてきた日本という土地、もっと言えば地球上のある区画、さらには宇宙の一点を私のものであるという気になれない。
寧ろ、何かの巡り合わせで今この時にこの土地とのご縁を頂いたのだとしたら、この場所を輝かせて活かすことを託されたのではないだろうか。あの場所に聴いてみたい。昔はどんなだったの?どんなことがあったの?これからどうしたい?と。

祖父もあそこはいいところだからね、頑張って社会に貢献してねと言っていた。そう言われた時、私はそこで何をするのか分からなかった。いつかそこに住むのかなぁと漠然と考えつつなんだか違うなぁとも思っていた。

それが数年経っていつのまにか舞台が整えられていた。

アストロコモンズー日本と世界と宇宙を繋いで、何をするのかはまた次回。

愛の循環に大切に使わせて頂きます💞いつもどうもありがとうございます!