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アストロコモンズーpart2

ご縁のある土地と聞いてどこか思い当たる場所はあるだろうか。

私の場合はどうしても何らかのご縁を感じざるを得ないところがある。

千代田区麹町ーここは私が生まれる遥か前から、そして私が大人になってもずっとご縁があった何とも不思議なところである。これまでに何度も大いなる力によってこの場所に引き戻されることになった。

私の祖父は麹町小学校の出身で80歳を過ぎてもずっと小学校の同窓会に参加し続けていた。昔から甘いものが大好きで、幼い頃は村上開進堂のお菓子を楽しみにしていたらしい。祖父の晩年、老人ホームに入っていた時に麹町のお菓子屋さんでケーキを買って行ってあげると嬉しそうに食べていた。

祖父に買っていってあげたケーキ

遡ると、明治維新前の1857年に神職の娘として生まれた祖父の祖母ー千代子が甲州から出てきて神田に住んだ後に、家族と共に麹町に引越したそうだ。皇居から道を一本挟んだところだった。千代子のインスピレーションに溢れて行動力もあったという性格は今も語種になっている。明治維新という変革期に生き、体制に左右されない仕事についてほしいと息子を本郷にある医学部に入学させ、株の投資などもして財を築いたそうだ。

私も祖母から、麹町の家に毎週のように証券会社の人が紫色の風呂敷を持っては訪れて、玄関でそれを広げると中にはたくさんの株券が入っていたという話を聞かされた。よく考えると祖母も実際にはその場にはいなかったと思う。祖父の母から話を聞いたのではないかと思うが、あたかも自分がそこに居合わせたかのように語っていた。千代子の息子であり、祖父の父は後に、麹町の家で目医者をしていた。

戦争が始まったのは、祖父が大学に入った頃、当時は皇居が最初に狙われるかもしれないと言われていたようだ。そこで大した荷物も持たずリヤカーを引き、知人宅の近くが売りに出ているというのでそこに疎開したそうだ。当時珍しいコンクリート建だった家も、戦時中は警察に貸し出し、その後二束三文で引き払われたようである。今は東京FMとなっている。

私はというと、実に中学・高校の6年間、なぜかその後も10年近く麹町に通うことになった。中学・高校は母の望みでその学校に通った。母は私が生まれて女の子だと分かった瞬間にその学校に入れたいと思ったそうだ。しかしその学校のことは場所はおろか、入るのが大変であることも全く知らなかったという。(実は母がこの天啓を受けたことが、その後カナダで私の人生を変えることにもなったのだが、以前別に書いたのでここでは割愛する)

いずれにせよ、母の期待に応えようと私はその学校に入り、当時住んでいた横浜から片道一時間以上かけて、電車を3本を乗り継いで麹町に通った。良い思い出が全くない私の暗黒時代である。中学に入ってすぐに、緊急連絡先を登録する必要があり、祖父の麹町小学校の同級生で当時まだ付近に住んでおられた方のご自宅を訪れてご挨拶したことは懐かしく思い出される。

その後大学に進み、麹町を離れたと思ったのも束の間、また数年後に麹町に呼び戻された。ベルギー留学から戻ってきて、アルバイトを探していた時のことだ。

そもそも留学先はフランスの財団の奨学金を受けてフランスに行くことになっていた。しかし最後の最後に私が行く予定だった大学がリストから外れ、別の大学を指定するように言われた。そう言われても私が学びたいと思っていたものがそこになかった。それで奨学金をお断りすることにした。その後、偶然にも大学にベルギー政府の奨学金の貼り紙がしてあるのを目にした。ベルギーにフランス語圏があったのだとその時初めて知った。それでベルギーのことは全く知らないまま現地にいくことになった。

話を戻すと、帰国後のある日たまたま見たパートの募集がベルギー大使館勤務となっていた。お弁当を作ったりする他のパート募集に混じってそれがあった。自分の目を疑ったが、ベルギーから戻ったばかりでこれはチャンスと思った。学生ということに先方は多少戸惑っていたようだが、雇って頂けることになった。そしてその場所がまた麹町だったのだ。

続く

前回のアストロコモンズーpart1


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