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生きる
私は小さな頃から人の秘めた想いが自然と分かってしまう子だった。それはちょっとしたその人の表情なのかバイブスなのかそういったものを通じてだと思う。それらが自分の中にそのまま入ってきてああこの人はこんな風なことを思っているんだと言うことが分かった。
ある時までみんなそうだと思っていた。母に何かの折にそのようなことを話したら、”何でそんなことを言うの?誰もそんなこと言ってないじゃない”というような内容の返事をされ、それ以来、誰しもがそういうコミュニケーションの取り方をしていないことを学んだ。小学校2年か3年生の時だった。
そのうち人の感情が分かりすぎることが辛くなって、気づいても気づかぬふりをした。自分と人との境界が見えなくなっていた。そしてその力を自ら封印した。そうしているうちに鈍くなってきた。自分を守るためにそうするしかなかった。
中学・高校時代は周りの人たちの圧倒的な個性の前に、自分の領域を守ることに必死で、でもその自分という者が分からないまま過ごした。私の中では暗黒の時代だった。
大学生の途中くらいだろうか。封印を少しずつ解いていったらいつの間にか”分かりすぎる力”をコントロールできるようになっていた。自在にシールドを張ったり解いたり。人間界で生きていくにはとても役立つ力になった。
何でこんなことを思い出したかというと、最近今まであまり接点がなかったような人たちと話をする機会が立て続けにあり、その人たちの心の奥底にある想い・叫びみたいなものにも気づくようになったからだ。それは思うよりもっと深くにあってその人すらも気づいていないかもしれない。
私の感覚では、その人らしく生きている人は細胞の振動が活発で、生き生きとしたオーラが発せられている。逆に葛藤を持っていたり、何か心の奥の奥に不安を抱えていたりして、自分らしく生きていない人の細胞は檻に入れられている感じで、振動が鈍く、オーラも閉じ込められている。
後者の人と話をしてみると、それでもその人の魂の輝きみたいなものが奥底から時折感じられたりする。何かその美しいものが、”私を外に出して”と訴えかけてくる。
私は幸いなことに暗黒時代も含めて、自分を信じる力を失ったことはなかった。自分が分からなくなっても自分を信じ続けていた。それは生まれてからずっと備わっていた力で、だからどんなことがあっても進むことができたし、信じる方向にただただ進んで行ったら、振り返るとそこに自分だけの道ができていた。そしてそれが自分だった。少なくとも自分でそう定義した。そしてそれが自信にもなった。
これまではあまり自分の経験を人に話すこともなかったのだが、最近新しく出会った人たちには気づいたら私の話をしていた。その人たちの奥底から何かが私に訴えかけてきたから。それで結果として、少しその人たちを勇気づけることができた。
私の信じるものや進む方向は、昔から人に言わせれば破茶滅茶だった。いい子を演じていた時もあったけれど、つまるところ私は破茶滅茶なのだろう。でも私は誰が何を言おうと幸せ。この開き直りがいいのかもしれない。
何かに迷っている人がいれば、とにかく自分を信じて進んで経験するのが一番とお伝えしたい。経験はただただ経験であって、それを成功とか失敗とかジャッジする必要もないし、そんなことはおこがましいとすら思う。進んでみて違うなと思えば別のことをすればいいだけのこと。
折角この生きる機会を頂いたので、私はワクワクする経験をできる限りたくさん積みたい。
この瞬間が最後の瞬間になってもいいと思う。それくらい”真面目に”私は私を生きている。
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