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不死と永遠

みなさん!こんばんにちはようす。丸々です!(º﹃º♡ )


今回は『「黄金の法」myブログ感想講義 』に入りたいと思います(ㆁωㆁ*)

前回の復習と致しまして、これまで「仏光物理学」について3つのテーマに分けて解説したかと思います。

この『黄金の法』という書籍がこれから何を言わんとしているのかがここから明らかになってきます。

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さて、最近、『秘密の法』がHSの支部や精舎あるいはネットショップなどにて開示され、書店には来年の1月から頒布されるということです。

これは、2021年の羅針盤に当たるものと推定されます。

今年は、「鋼鉄の法の年」と言われ、その結果、新型コロナウイルスの蔓延で、オリンピックが開催されないことへの不安と絶望がないまぜになった時代が本年だったのではないかと思います。

そんなときこそ「鋼鉄のように、しなやかに、力強く生きる」ということが、『鋼鉄の法』の前書きに書かれているのです!

それについては、以前のブログでもお話ししたかと思います。


さて、この「秘密の法の年」が来年にくるとは一体どういうことなのか??

これは不幸が来年くることは人類の危機的状況において少ないことを意味するのではないかと個人的に思います。

ですから、来年に酷いものがきた時に、それを助けてくれる何かがくるという意味でもありますし、現代の科学技術がもう少し進化することを意味すると個人的に考えます。


さてと、本題の『黄金の法』に入りましょう!

これは『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』のHSの最高傑作と呼ばれ、その中の「時間論」について歴史的に明らかになった書物が『黄金の法』であることをおさらいとして述べておきたいと思います。

今回は本書の9節は飛ばします。そして、10節「不死と永遠」に入りたいと思います。

『「黄金の法」テキスト 』に沿って解説していくので、どうぞよろしくお願いします。


さて、不思議な「不死と永遠」というテーマではありますが、この「不死と永遠」はどういう意味なのかと基本的なところから言いますと、

「不死」とは、「死なないということ」です。「永遠」とは「滅びないこと(不滅)」を意味します。それは神仏の目であるこの教えから見て、一体どういうことなのかがこの後に書かれているのです。




不死と永遠ーー「永遠なるものの影をつかむ」には 

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永遠とは、どういうものでしょうか。それは、真理のなかに生き続ける人間の姿です。

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👉  「黄金の人生を創る」最後のポイントは、「不死と永遠」についての理解である。「不死」の願いとは、死にたくないという欲求に基づくこの世的な地位、名誉、財産等を求める気持ちであり、「永遠」とは、「真理のなかに生き続ける人間の姿」である。この論点はやや哲学的で難しいので、先にRO総裁の解説を確認しよう。👈

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私たちは時間論のなかで、どうしても自分を発展させていきたいという気持ちを持っています。その発展の願い自体は正しいものであり、許されるものでありますが、その発展の願いを間違うとすればどこで間違うのでしょうか。それはこの「不死と永遠」の、まさしくここに出てくるのです。発展の願い、自己実現の願いと言ってもいいのですが、自己拡張、自己発展の願いが間違いとなるのは、この不死の願い、すなわち死にたくないという願いにつながっていく時なのです。

死にたくないという願いとは、いかなるものでしょうか。実際に、死なない人はいないわけですが、この死なないことと同じ意味を持つ行為に没頭するのが、人間の常です。「死なないことと同じ」、それは何であるかというと、言ってみれば、石碑(sekihi)を残す、銅像を残すという類(tagui)から、またそれなりの自分の力をはっきりと示したいという、そうした形が出てきます。名前、名誉、地位、椅子、こうしたものは、ある意味での「不死性への願い」「死にたくないという願い」が転化された姿として、この世の欲望として出てくるのです。

しかし、それが真の発展への道ではないということを明解に説いてあります。私たちの真の発展への道は、「永遠」への道しかない。この永遠への道の出発点は、私たちが永遠の生命を持っているという、この認識にある。永遠の生命を持っているという認識のもとに、今世の数十年という限られた人生を見たときに、そのなかに生きねばならない方向というものがあるのだろう。それを極めていけ、ということを言っているわけです。

今世が一回きりの大切な人生であることは事実ですが、一回きりであるということは、この時代環境、地域環境においては一回きりであって、自らの魂修行においては、やはり無限に近い営みのなかの一部であるという事実を忘れてはなりません。それを忘れた時に、愚かな過ちが始まっていくでしょう。「死ねば全て終わる」という唯物論と全く逆なように、死ねば全て終わるが、せめてこの地上にある時に、死ねないがごとき自分、不死性を示すがごときそんな自分になりたいとあがく、そういうみなさんになっていないかどうか、それをよくよく追究して頂きたいと思います。

(『「黄金の法」講義(一)』より )

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つまり、なぜ人間が生きるかというと、神仏から与えられたミッションがあるからです。

それは、夢を持つ人においてはそれを叶え、そこに本当の自分に出会う理想像に近くための第一歩を踏み出すということです。

それに対して、夢が分からない人は、自分の使命がまだ見つかってないということであり、そのためには人々のお役に立ちながら、そのなかに喜びを見出すことがとても重要ではないかと教えられているのです。

こうした当たり前のことを当たり前にやるということが大事なのであり、現代文明はどう生きるのかが分からなくなっていく方向へ行くところがあり、そのため「宗教から神の教えを学ぶ人が多い」ということを意味しています。

だからこそ、自殺も他殺も悪いことなのであります!そうした地獄的な方向に行くことは地球神は望んでいないのであり、どの教えを見ても天国的生き方をすることで幸福を得るのだということが語られているのです。


👉  自己実現が単に「この世の欲望を満たす」だけのものであれば、それは真なる発展ではない。「永遠の生命を持っている」という認識のもとに、自らの人生の歩みを考えなければ、真の発展への道は見えてこないのである。

しかしここで注意すべきは、「不死」の対象となるもの(この地における政治や経済活動等)を単純に否定し、遠ざかれば良いということではない点だ。

『政治の理想について』第1章「水平権力の時代」では、ハンナ・アーレントの思想を参照しつつ(後述【参考②】参照)、宗教的・瞑想的生活としての「観照的生活」と、この世においてより良き共同体を創らんとする「活動的生活」の双方が重要であることが説かれている。大事なのは、「不死を求めがちなこの世の生活(物質的利便性や名誉の世界)を送りつつも、いかにそれを超えた『永遠なるもの』を信じ、つかんでいくか」ということにある。👈

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人間として、どうしても、最低限の生活はしなくてはいけませんし、「活躍して。より大きな影響力を与えたい」という思いでしょうが、「地上に生きながら、そのなかで、いかに霊的であり続けられるか」ということが大事だと思うのです。<中略>

言葉を換えて言えば、現代に生きる我々が、普遍的な生き方をしようとするならば、あるいは「普遍」に触れようとするならば、やはり、「永遠なるものの影」をつかまなければいけません。

同時代に生きながら、永遠なるものが存在します。「永遠なるものの影」を見たら、それを逃さず、つかんで、離してはならないのです。

同じ時代に生きていながら、永遠なるものが、一瞬、かすめること、通り過ぎることがあります。

その永遠なるものを捉える。あるいは、少なくとも、その影を捉えて離さない。永遠なるものに自分の人生の波長を合わせようとする

そうした努力が、「普遍なるものへの参入」ということになるだろうと思うのです。<中略>

俗世にまみれる生活をしていながら、そのなかに、「普遍なるものの影」「永遠なるものの影」を見て、それを見逃さずにつかむことが大事なのです。<中略>

本当の聖人は、大勢の人が住む、俗世の真っ只中に住んで、生きているのですが、そのなかで、自分の信念を貫いて、真理を追い求め、「永遠なるものの影」をつかむ努力をしている人が、「普遍とは何か」ということをつかむことができるのです。そう私は考えています。

(『HSU創立者の精神を学ぶ Ⅱ (概論) )

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ちなみに、「ハンナ・アーレント」は、全体主義についてを批判した女性政治学者でありまして、あまり世間では知られてない方々も多いようですが、ハンナ・アーレントの思想を本とかで見ると、マルクスが唱えた労働に対する認識とは、別の認識を学ぶに至るわけであります。アーレントは、哲学者ハイデガーの弟子であったので、この話は非常に有名です。

さて、「永遠」とは、人生を長い目でみれば人間の寿命は3万日ではありますが、例えもし使命が果たせなかったとしても、神の願いに従えば、来世に持ち越すこともできることを意味します。しかし、それは当然、神仏の教えをしっかりと学ぶことによって神との約束(契り)を誓うことができることを意味するのであります。自分勝手な行動をせず、神の思いのままに祈ることにこそ、今世果たす天命が約束されるのです。


👉  この私たちが求めてやまない「永遠」とは、実はHSの説く「成功」の考え方と深くつながっている。「永遠」なき成功とは、「真の成功」ではないのである。👈

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どのような仕事をしてきたとしても、どのように自分づくりをしてきたとしても、どのように人間関係を育んできたとしても、「永遠」というものを感じる瞬間がなければ、その人の思いは、浅いところにとどまっていると言わざるをえません。

真の意味において「成功した」と言えるためには、この「永遠」という観点を抜きにしては語れないのです。

仕事にしても、それが成功したと言えるためには、「永遠を感じるときを、そのなかに持っているかどうか」ということが大事になると思います。自分の仕事、自分が情熱を傾けて、やり遂げようとしていることが、「永遠」という、この二文字を感じさせるものでなければ、その成功は、浅いものとなってしまうのです。

また、自分自身の幸福感を成功と捉えることもあるでしょうが、その場合でも、永遠の喜びというものを感じなければ、その成功観は底の浅いものとなってしまうでしょう。

「永遠を感じる」ということは、なかなか難しいことかもしれませんが、これは、努力によって感じ取るべきものではありません。そうではなくて、永遠というものは、垣間(kaima)見るものなのです。永遠というものは、営々として努力を続けているときに、あるとき、ふと垣間見るものなのです。

(『成功の法』 pp.29-30 )

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現代は救世主RO先生が生まれている時代であり、これは基本的にありえないことなのです。

そうした奇跡の瞬間に出くわしていることを実感しなければならないのであります。

さて、そんなRO総裁が若き日に何を思うたかがこの「永遠」の二文字にこう経典で述べられております。

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ちょうど二十歳の頃ですが、まだその頃は、私も霊的なことにあまり関心もなく、平凡(heibon)な大学生でありましたけれども、なぜかバスとか電車とかに乗っているときに、目の前に字が見えることがよくありました。それは、たいていの場合、白く大きく書かれた「永遠」という2つの文字でありました。私はこの「永遠」という字がなぜ見えるのかが分かりませんでした。しかし、ときおり「永遠」という字が、私のまぶたに浮かんで参りました。そしてその頃、将来自分がどの道に入っていくのかということは知らずに、友人たちに「私は将来、二千年、三千年後に残るような思想を遺したい」ということを、語っておりました

しかし、私は、なぜそういうことを自分が言っているのかということには気が付きませんでした。その頃すでに、ある種の準備が始まっていたわけであります。

(『幸福の原理』 pp.10-11 )

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ちなみに、「未来透視リーディング」では、宇宙教会もできているため、さまざまな惑星で、このHSの教えが宇宙人も地球へ学びにくることとなっており、広がっていることが霊言で明らかになっております。

そうした漠然とした運命決定論は、このまま何も努力をしないでいては何も起こらないのが原因結果則であります。

信じてついていくなら地球は宇宙人交流に向けての橋渡しとなるでしょう。

しかし、信じないでついていかないものでもあるならば地球は滅びてしまう。

この二択のうち、私たち人類は何をすべきかという、この最大の問いが現代において問われているのです。

哲学的な話が多かったですが、「不死よりも永遠をとる」ことが結論であることがよく分かります。



【参考②】ハンナ・アーレントによる「不死と永遠」

👉  政治思想家・ハンナ・アーレントは、著者『人間の条件』第1章において、「不死と永遠」の概念を次のようなものとして述べている。

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なおアーレントは、著者『人間の条件』『革命について』においては、「不死の世界」(活動的生活)の正しいあり方(人々が複数性に基づいて理想的な政治に参加していくこと)を説いたが、最晩年は『精神の世界』を著す等、若き日の哲学的関心(観照的生活、「永遠」の世界)へと回帰している。👈




さて、「テキスト」ではここまでとして、本書『黄金の法』第1章10節「不死と永遠」に入ります。

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私は、ここでもう一度、人間の欲というものについて、考え直してみたいと思います。つまり、あなたがた人間は、一体、なぜ、欲というものに振り回されてゆくのかということについてです。

情欲(jouyoku)の背後にあるのは、動物的な種の保存欲でしょう。人間は、知らず識らずのうちに、生命(seimei)の糸を切らさずに、連綿(renmen)と続けてゆきたいと思っているのです。

地位欲や名誉欲の背後にあるものは、一体、何なのでしょう。より多くの人々に、自分の名前を知らしめたいという気持ちしかありません。そしてまた、願わくば自分の死んだ後にも、人々に自分の名を語り継がれたいという気持ちかもしれません。

金銭欲の背後にある考えとは、物質的な豊かさをありありと目の前にして、自分の存在感を物質に仮託(kataku)して、陶酔(tousui)したいという気持ちでしょう。つまり、輝く真珠や煌めく(kira-)宝石、目を見張る豪邸(goutei)、デラックスな車、こうしたものを、日々、自分の目で確かめることによって、自分の存在が不滅になったかのような気持ちに酔い(yoi)しれているのです。

要するに、人間的な欲の背後にあるものは、「不死(fushi)」への願いだと言えます。本当は、健康な肉体に恵まれて、できれば、200歳、500歳、あるいは、1000歳までも地上で生き続けてゆきたい。しかし、それが不可能な現実に直面し、何か別の形で不死性というものを追い求めているでしょう。すなわち、死にたくないという気持ちが、人間を欲望にのめり込ませる動機となっているのです。

この不死性への願いは、個人を離れても、集団のなかに、連綿と生き続けております。自分の勤めている会社が、未来永劫(eigou)つぶれずに続くことを願っている社員は、かつて、御家(oie)の安泰(antai)の至上命令として奉じていた侍(samurai)の現代版とでも言えるでしょう。しかし、今から100年経ってもなお継続している企業は、ほとんど皆無(kaimu)だと言えるのです。

また、人間は、国家という名の正体不明なものの永遠を願って、惜しみなく戦争で命を捨ててゆきます。人間が死滅した後の国家というものなど有り得ないにもかかわらず、国家の不滅のために、滅私奉公型(messhi-houkou-gata)の努力をするのです。

このように、私企業という経済の単位、あるいは、国家という政治の単位のなかにあって、人間は、あくまでも、不死性を追求してやまないのです。<略>

しかし、不死の双子の兄弟のようによく似ておりながら、その本質において、異なっているものがあります。すなわち、「永遠」です。人間は、この地上での不死の願いを断たれても、永遠という名の希望の道があるのです。<略>

この世的なもののなかには、何ひとつとして不滅のものはありません。しかし、真理の内に生きるとき、人間は、永遠の時間のなかにあるのです。永遠の今を生きているのです。真理とは、すなわち、人間が本来、仏の子であり、永遠の転生輪廻(tenshou-rinne)のなかを生きているということを意味します。その魂を磨くために、一時期、この地上に肉体を持つという真実なのです。

そして、この真理のなかに生きてこそ、人間は、死の持つ呪縛性(jubakusei)から解き放たれ、永遠の時間と天空のなかを天翔る(amagakeru)ことができるのです。自らを、可死の、すなわち一回限りの、有限の、雑巾のごとく使い捨てられる値打ちなきものだと思うべきではありません。

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つまり、どういうことかと言うと、こう要約できます。

・人間は死の下に平等である。

・人間は生き通しの人生を生きているのである。

・「この世のありとしあらゆるものは変化し続け、永遠はない」(諸行無常)であり、「この世に我がものと思うものはない。しかし、我がものと思うのは神に生かされているからである」(諸法無我

そして、安らぎの生活が人間の本心であるということが「涅槃寂静」であります。ちなみに、この3つを「三法印」と言います。

つまり、この世にあるものは滅んでいき、あの世にあるものはすでにあるものであり滅ぶことは何もないと言うことです。

つまり、「この世は仮の世界であり、本当の世界はあの世である」と言うことを「不死と永遠」のなかでは意味しているのです。



そんなことで、話が長くなりましたが、人間は生かされていることの意味を知って努力するという単純なルールが分かるかどうかが大事だということが言えます。

ってなことで、ご精読ありがとうございます💌

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