「清く正しく優秀でなければ」という思い込みと、その変化の体験談
みなさんこんにちは、うきまろです😄
今日は「私の思い込みが変わったこと」を、家庭問題や学校生活の悩みを絡めつつ、お話ししたいと思います。
わたしの「思い込み」
変化する前の私の思い込みは、
「自分は清く正しく、そして優秀であらねばならない。そうでなければ人から受け入れてもらえない」というものでした。特に小学生高学年から高校生にかけて、この思い込みが強かったです😅
そんな私の普段の生活は、常に清く正しく優秀であろうと、かなり気を張っていました。それは自分自身が本当はそんな「完璧な人間」ではないからこそだったのでしょう。
そのため当時の私は、
●自分の弱みを誰かに見せないように気を張り続け、
●それと同じように何かのミスや失敗をしないように注意を払い、
●自分の素直な感情をあらわにすることを避けてきました。
その度合いは、中学時代に通っていた塾の先生から「異常に静か」と言われるほどでした。
そうして気を張った上で、私は「望ましいとされるであろう言動」をできるだけ心がけてきました(もちろん時々ケンカをしてしまうなど、完全なものではありませんでしたが)。その結果、自然と学校での勉強や役割においても「優等生っぽく」なり、また先生方や他の保護者の方々からも高く評価されるようになりました。そして当時の未熟だった私は、そのように評価されることを誇らしく思うとともに、どこか安堵していたように思います。その安堵の理由はおそらく、「自分が受け入れられている」という実感ができることに加えて、普段から気を張って「優秀で清く正しく」あろうとすることに、かなりのエネルギーを使っていたことの反動だったのではないかと思います。
思い込みの原因は?
ではなぜ、私はそんなにも強く思い込み、神経を遣う生活を送ることになったのか?その大きな原因は、やはり私が育った家庭環境にあると思います。
もう少し詳しく言うと、①「家庭での教育」②「家庭内の雰囲気、空気」
ということになるでしょう。その詳細をすべて語るには字数が多すぎますので、ここでは一部だけを挙げることにします💡
●「清く正しくあらねば」の原因考察
私が育った家庭は、子どもにも”大人のように振舞うことを望む家庭”でした。特にマナー面がとても細かく、例えば食事の準備の際にお箸を置く順番まで「正しい」とされる型が決まっていたり、さらには洗面台で顔を洗うときの手の形まで決まっていたりしました。これらを間違うと親や上の兄弟から叱られるのです💦
そのような生活から私は自分の家庭には「礼に始まり礼に終わる」というような雰囲気を感じていました。それとともに、
「世の中のあらゆる物事には”正しい在り方”というものが決まっており、それに従わなければならない」と自然と信じ込むようになりました。
●「優秀でなければ」の原因考察
家では親が、幼い私に何度も難しい本を勧めたり、厳しく勉強を教えるなどしていたことからも、私は親から「優秀」であることを求められていたことを容易に感じ取りました。そのため「親が求めている優秀さ」に近づかねばという思いが自然と生まれました。ですので、私が小学生の時にテストで一度だけ0点をとってしまったときは「この家ではもう自分は終わりだ…😨」と愕然としたことは記憶に新しいです。ですが答案用紙を親に隠すことも「正しくない行為」ですので、隠すことに自分で耐えられず、泣く泣く親に報告したものです。
思い込みが変わりだした大学時代
●きっかけのサークルメンバー達
そんな家庭で育ち、偏った思い込みを強く持っていた私ですが、大学でサークルに入ったことが、その思い込みが少しずつ変わっていくきっかけになりました。
サークルメンバー達が会話していた際、私はなかなか会話に入れずその様子を眺めていたのですが、その時に気づいたのです。彼らは自分達の決して「清く正しい」とは言えない部分を仲間たちに見せ、それでも愛されていました。少なくとも、私の目にはそう見えていました。逆に私はというと、とあるサークルメンバーから「後輩を無理に入部させたのではないか」と疑われてしまう始末です(もちろん、そんなことはしていませんが💦)。
それらのことを受けて、当時の私はこう考えました。
「彼らはなぜこうも愛されるのか?」
「対して私は”清く正しく”を心がけているのに、自分で思っているほどには信用されていないのか?清く正しくあれば、人からの信用は得られるのではなかったのか?」と疑問に思いました。
●考え続けた結果
これらの疑問について考え続けた結果、私は一つの結論に達しました。
「”清く正しく優秀であらねば”という考えに固執しすぎたため、私自身が本当はどんな人間なのかが、人から見て分かりにくくなっていたのではないか」と。優等生っぽくふるまうことで、私自身の考えや性格が隠れてしまったのではないかと。実際、思い返せば「うきまろ君は何考えてるかよくわからない」「しゃちほこばってる」と言われたことがありました。高校では「夜は”ダークうきまろ”になってそう」なんて言われたことも・・・。
たしかに何を考えているか分かりにくく、ダークな性格を隠し持っているように見えるならば、信用されにくくても仕方ないのかもしれません。要するに、自己開示が全く足りていなかったのですね😅
この結論に至ってから、私はそれまでのガチガチな考え方から、徐々に柔軟な考えに変わっていきました。張りつめていた神経を少しゆるめて、自己開示するようになったのです。以前は人に自分の弱みを見せることも、ある意味「優秀さ」や「正しさ」から外れることだと考えていましたが、以降は自分の弱い部分を人に見せるようになりました。時には涙を友人の前で見せるようにも…。それによって、返って友人たちとより深い絆を結べるようになったと感じています。幸運にも「心友」と呼べる人と一層仲良くなれたのも、そのおかげなのかもしれません😊
気づきのきっかけをくれた人たちには感謝ですね。
さいごに
「思い込みに気づく」という言葉は、こうして文字にするととてもシンプルに見えます。ですが実際には非常に複雑で難しく、そして時間がかかることだと実感しました。この記事で取り上げた私の思い込み一つとっても、それに自分で気づくまでかなり時間がかかりました。その間の私はずっと自分の思い込みゆえに「なかなか深い友情を築けない」ことに悩み続けていました。「気づくか気づかないか」の違いが、とても大きいのですよね。もしかしたら今でも私は、いくつかの、あるいは多くの思い込みを持っているのかもしれませんが、時間をかけてでも、少しずつそれに気づいていきたいですね。そして、よりのびのびと生きたいものです。
みなさんも、よい気づきに恵まれますように🍀
以上、うきまろでした😊
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