あんときのデジカメ 羊がその葉を食べると「躑躅」して死ぬツツジ with FUJIFILM FinePix F401
(はじめに)4月の終わりに一斉に開花するツツジ。紅白の大輪が美しくもありますが、漢字で表記すると「躑躅」。語源には、おどろおどろしい意義があるようですが、今回は富士フイルムの2002年のデジカメ・FinePix F401でスケッチしてみました。
こまがりに刈り残されて山つゝじ 正岡子規
街道沿いや山々でこの時期、一斉に開花するのがツツジです。写実という近代俳句を確立したのは俳人正岡子規ですが、子規もツツジについていくつか句にしております。表題の「こまがりに刈り残されて山つゝじ」は21世紀の現代においてもイメージしやすい一句ではないかと思います。
では、次の句はどうでしょうか?
さゝやかな金魚の波や山つゝし
(出典)正岡子規『寒山落木 第一巻』
ヤマツツジの斉放する様子を金魚の波のようだと子規は形容しております。だとすれば、私たちは、写実主義という立場を、まるで鏡が対象を映し出すように、あるいは、写真が情景を切り取るように映し出し、そして表象する立場であると理解しがちですが、そう単純ではなさそうですね。
「文学者の友情」を描きながら、子規が俳句・短歌に持ち込んだ「写生」概念の成立過程をあぶり出したのが小森陽一さんですが、ちょっとその様子を見てみましょうか。
つまり身体的な知覚経験を媒介とした経験が、どのような言語表象と結びつくのかという、表現する側の過程と、どのような言語表象を実現すれば、読者の側の身体的知覚感覚に働きかけることが出来るのかという、読む過程の両方が四季の実践においては意識化されていたのである。
(出典)小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』集英社新書、2016年、146頁。
写実するとは、私たちが単純に考えていることほど簡単なものではなさそうですね。写真を取るといっても、それは同じで、コンディションによって目で見えている表象と写真として切り取られる表象は全くことなるものです。写真とは切り取られるものではなく、絞りやシャッタースピードによって創造される表象なのです。
36枚撮りフィルムを入れて使うフィルムカメラの感覚
さて、FinePix F401です。撮像素子は1/2.7インチスーパーCCDで有効210万画素、レンズは35mmフィルムカメラ換算で38-114mm相当の3倍ズームフジノンレンズです。露出制御はオートとマニュアル(という名前のプログラムオートですが)が可能で、いわゆるコンパクトデジタルカメラに必要とされる機能はすべて揃っています。
210万画素というのが「時代」を感じさせますが、使ってみると、思った以上にレスポンスが良いことに驚きます。起動に4秒、撮影間のタイムラグは約3秒と言われていますが、2002年以降の製品でもここまで軽快に動作するデジカメが多くなかったことを考えれば、デジタル黎明より一貫して、富士フイルムがカメラ造りに力をいれていたことが理解出来るのではないでしょうか。
現在においても、フィルムメーカーとしてカメラを製造販売する唯一のブランドというのは伊達ではありませんね。
ただ、難点を申せば、そしてそのことは、2002年という時代の制約があるのですが、保存メディアがスマートメディアということでしょうか。本体よりもコチラの入手が現在では難しく、筆者は64MBのメディアをもっていますが、最高画質で保存すると40枚程度の撮影しか出来ません。使っていると36枚撮りフィルムを入れて使うフィルムカメラの感覚です。撮像は非常にカリッとしたCCDらしい写りで、筆者は割と気に入っています。
足ヘンふたつの「ツツジ」
「躑躅」の語源を最後に少々お話しておきましょう。大修館書店の漢字文化資料館でそれが紹介されていますが、語義は、「足で地をうつ」、「行きつもどりつする」、「躍りあがる」だそうな。そして、6世紀の中国の学者の意見として、「羊がその葉を食べると、「躑躅」して死ぬ」とあり、「食べれば死ぬので、羊たちはこの葉を見ると『躑躅』して散り散りに分かれてしまう」から「羊躑躅」という名がつけられたとあります。躑躅は品種によっては蜜に毒があるそうです。
さて、拙い写真に戻りますが、讃岐の「躑躅」をお楽しみくださればと思います。
ということで撮影データ。ISO200、プログラム撮影、ホワイトバランスオート、画像は4Mで保存。撮影は2019年4月27日~5月7日。香川県丸亀市、善通寺市、三豊市で撮影。
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氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。