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「ユリイカの呪い」— ユリイカ / 折坂悠太・総特集を読んで —

長い間、わたしの中には、わたしを文芸の道から遠ざけた「ユリイカの呪い」なるものがある。

20年前、ユリイカの中で交わされた会話に大きなショックを受けた。「自死願望ある?」。それは当たり前の感覚として、まるでファッションのように「今日の晩ご飯食べる?」くらいの軽さで交わされていた。

わたしは激しく憤った。こんな会話を平気で交わして、さもカッコイイものかのように紙に載せてばら撒いている雑誌が憎かったし、現代詩、もっといえば文芸の世界っていったいなんなの、という気持ちで腹が立った。絶望的だな、と思った。

その頃、わたしは身近な人を自死で亡くしたばかりだった。それも、自死だとは誰からも教えられずに、わたしから尋ねることもできずに。ぼやけたままの真相を見つめることも、受け止めることもできないまま、苦しみの中で問い続けた。わたしはどうして生きているのか。生きている意味がほしい。意味が見つからないなら生きている意味がない。じぶんを責め続けた。役に立たないじぶん。なにもないじぶん。その間に歳だけはとっていく。焦っていた。

救いとなったのは、音楽だった。

音楽は、感じることを許してくれた。音楽を聴いたじぶんが感じた気持ちを、わたしはただ抱きしめるだけでよかった。言葉は正しさとか、うまさとか、客観的なものさしで口を出してくることが多くあって、とても疲れた。けれど音楽は、感じた気持ちや感覚や、わたし自身を大きな心で受け止めてくれた。

この数年、幾人かの「言葉使い」に出会って(同時にそのほとんどが音楽を営む人だったという事実)、少しずつではあるけれど、文芸へ戻る兆しというか、言葉を許す気配みたいなものを感じている。

そして、わたしを言葉の道に寄せた「言葉使い」の一人である折坂悠太さんが、今年ユリイカで特集されることになった。わたしに呪いをかけた、あのユリイカで。

よりによってユリイカか、と思った。いい気持ちはしなかった。けれどまあ20年も経っているのだし読んでみるか、と思った。どんなもんよ、厳しい目で見てやろうという気持ちだった。そして手に取った。20年ぶりに。

ほとんどの寄稿に目を通して、正直なところ、呪いはまだ解けていない。
けれど、解けはじめてはいる、気がする。あの頃感じた絶望と、それによって文芸そのものを拒絶したわたしの幼さと焦りを、抱きしめて「よしよし」したい気分になっている。全部を否定しなくてもよかったんだ。ユリイカにすべてを求めすぎた。そう思えるくらい、わたしは大人になった。

むずかしいことをむずかしく語ることが苦手だ。そして、考えて書いた文章よりも、感じるままに書いた文章が好きだ。だからユリイカでも、折坂悠太「を」巧みに語った文章ではなくて、折坂悠太「へ」思いを語った文章がひときわ心に響いた。具体的にいえば、坂口恭平さんと青葉市子さんの文章は、読みながらわたしの心がぽかぽかして、体によろこびが満ちてゆくのを感じた。ふたりには真心と愛とぬくもりがある。折坂さんのことがほんとうに大事、そんな生身の感情が伝わってきた。

それから、白岩英樹さんが聞き手を務めたインタビューがすばらしかった。折坂さんと白岩さんの間で交わされた言葉には、ポジティブなエネルギーの交換があった。白岩さんの投げかけに語っていたのは「今」の折坂さんで、根底にあかるさとユーモアを持つ折坂さんだった。ほんとうは笑って生きてゆくことを願っていて、いのちの肯定を願う(そしてまだ願いきっていない)折坂さんだった。それらはわたしの願いでもあり、その投影なのかもしれないけれど、少なくとも聞き手の白岩さんの中には、同じような願いがあるのではないかと思っている。白岩さんの愛とリスペクトが見える言葉は、いち折坂ファンとしても、普段インタビューを行う同業者としても、音楽や文化の力、そして人間を信じる世界の一員としても、共感を覚えるものだった。希望が託された言葉たちに、わたしはもう一度、言葉を使った表現へ向かう勇気をもらえたように思う。

また何度でも、ユリイカを読んでみればいい。
わたしが望むのは文芸という舞台にわたしの居場所が見つかることだ。それに、わたしの呪いを解けるのはわたししかいない。そのことに気づけた今、ユリイカに感謝している。

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