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ウクライナ戦争を理解する歴史知識6  ロシア産天然ガスのくびきから解放され ウクライナは脱露から反露へ転換    露も報復に転じ武力衝突へエスカレート       終わりなき泥沼の離婚劇         ウクライナ戦争に関する私見 後編・各論 2023年1月25日現在

今回は1991年、ソ連が解体しウクライナが独立した後、現在に至るまで32年間の歴史を時系列でたどってみる。350年の悲願である主権国家を持ったウクライナにとって、独立は夢と希望に満ちた出発だった。それが32年間で「旧社会主義国でいちばん貧乏な国」に転落した。一体何があったのか。

(注)本文中では、2014年に始まるロシアのクリミア半島併合と東部2州への軍事介入を「第一次ウクライナ戦争」、2022年に始まる軍事侵攻を「第二次ウクライナ戦争」と記す。2014年にはすでにロシアのウクライナ領内への軍事介入が始まっていて、2022年はその軍事エスカレーションと筆者は考えているからだ。

(冒頭写真はロシアから天然ガスを送るパイプライン。Andrey Rudakov | Bloomberg via Getty Images.)

<1990年代>核兵器・黒海基地とエネルギーの取引

●ウクライナは世界第3位の核武装国になるはずだった


1991年12月、ソ連が解体して15の主権国家に分裂したとき、欧米をはじめとする世界の最大の懸案は、各国に分散していた旧ソ連所有の核兵器だった。特にICBM(大陸間弾道ミサイル)は、欧州だけでなく、アメリカ本土や日本をも射程範囲に収めてしまう。核兵器の拡散という点で、第二次世界大戦後最大の危機だった。当時のICBMの分布を下に示す。

ロシア:8155
ウクライナ:1650
カザフスタン:1040
ベラルーシ:72

もしこの核兵器をそのまま引き継いだとすると、ウクライナはイギリス・フランス・中国を上回り、米露に次ぐ世界第3位の核武装国に躍り出るはずだった。

ソ連の解体を決定づけたのは、ロシア・ベラルーシ・ウクライナの元首(エリツィン・ロシア大統領、クラクチュフ・ウクライナ大統領、シュシケビッチ・ベラルーシ議長)が1991年12月8日にベラルーシの森「ベロヴェーシ」の山荘(下の写真:ソ連時代、フルシチョフ書記長の別荘だった)に集まってソ連からの脱退を決めた会議である。

BBC "How three men signed the USSR's death warrant" December 24, 2016.

ゴルバチョフ・ソ連大統領(当時)を外した会談であり、主要構成国3カ国を失ったソ連は17日後の同年12月25日に崩壊。ゴルバチョフも辞任し、大統領権限をエリツィンに引き継いだ。

このベロヴェーシ会談に出席した当事者たちの証言をNHKが取材し、BSドキュメンタリー番組「証言でつづる現代史〜こうしてソ連邦は崩壊した」として2006年に放送している。

出席者の証言によると、ウクライナはソ連時代の核兵器をそのまま引き継いで、核武装国になる考えを持っていた。

<クラフチェンコ・ベラルーシ外相>
ウクライナは自分をソ連の核兵器の正当な後継者と考えていました。当時、ウクライナとベラルーシの領土には相当数の最新型大陸間弾道ミサイルが配備されていました。

ウクライナは当時5000万もの人口を持つ、経済的に大きな可能性を持った国で、一大農業国でもありました。ヨーロッパの中では明らかに大国です。そして、もし核兵器を持てば、単なる大国ではなく、ヨーロッパの強国にすらなれると考えたのです。

NHK「証言でつづる現代史〜こうしてソ連邦は崩壊した」

1991年6月には、同じ社会主義連邦国のユーゴスラビアの分裂と内戦が始まっていた。構成国が民族別に分かれて血みどろの殺戮と破壊を繰り広げていた。核兵器が分散したソ連で分裂をめぐって内戦になれば、破局的な結末になる可能性があった。

ウクライナは先立つ1991年7月に国家主権を、同8月24日にはソ連からの独立を宣言していた。レオニード・クラクチェフ初代大統領は、会談3日前の12月5日にに当選したばかり。もともとロシアからの独立を悲願としていたウクライナ側は、ベロヴェーシで早くもロシアと対立する場面が多くなった。

ロシア側は「ロシアに核兵器を引き渡す」「ソ連時代の核兵器はロシアが管理する」ことをウクライナに提案。「その代わり国境線はいじらない」ことを約束した。ウクライナ側は核兵器を引き渡すことと経済援助を引き換えにする交渉に出た。

●アメリカの援助と引き換えに核兵器を放棄

結局、ウクライナやカザフスタン、ベラルーシが核兵器の保有を諦めたのは、アメリカのベーカー国務長官(当時)が各国を訪問し、核兵器のロシアへの引き渡しと交換に援助を約束したことによってだった。1992年末の時点で、アメリカがウクライナに渡した援助は核兵器関連だけで17億5000万ドルにのぼった。

<クラクチェフ・ウクライナ大統領〜当時>
エリツィンは「あなた方は核兵器をロシアに無償で譲渡すべきだ」と言ってきました。

そこで私たちはアメリカにも、この交渉に第三者として参加してもらい、助けてもらおうとしました。早い話が、解決してほしいと依頼したのです。
私は「ウクライナは核兵器を譲渡することに異論はないが、値段がつけられないほど貴重なものをタダで渡すことはできない」と主張しました。

ウクライナには365もの核兵器関連の工場がありました。365ですよ。どの工場も、20億ドルの価値がありました。アメリカもうまく介入してくれ、結局はうまくいきました。

NHK「証言でつづる現代史〜こうしてソ連邦は崩壊した」

クラクチェフは全体の金額をはっきり言っていないが、核兵器関連工場ひとつ20億ドルを要求した、それをロシアに代わってアメリカが出したと暗に言っている。つまりウクライナは核兵器放棄を交渉材料に、アメリカからの資金援助を引き出すことに成功したということだ。

結局、戦略核兵器のウクライナからロシアへの引き渡しが完了したのは1996年のことだった。

●ウクライナは通常兵器を中国やタイへ輸出


「ウクライナを知る65章」(明石書店)の中の「ウクライナの軍需産業」で塩原俊彦・高知大学准教授は次のように指摘している。

ソ連崩壊でソ連全体の「国防産業複合体」の3分の1がウクライナに相続された。
企業数1840〜3600社
従業員数270〜300万人

その内訳は「ミサイル部品」「輸送機」「ジェットエンジン」「船舶用ガスタービン」「装甲車」などである。2014年6月末現在でも、軍需産業関連の企業数は162社。ウクライナ政府は輸出産業として軍需産業を強化している。

「ストックホルム国際平和研究所」の「世界の武器貿易」2020年版によると、ウクライナは武器輸出国として世界14位、シェア2.5%(2012〜26年)である。ウクライナの国民一人あたりGDPが世界116位であることを考え合わせると、兵器産業のシェアは突出している。

主な輸出先
①中国
②タイ
③ロシア(2014年の第一次ウクライナ戦争以降は途絶)

実は、ウクライナ産の武器は日本など東アジアの安全保障環境にも影響を与えている。中国とウクライナが「国防省間協力条約」「国際軍事技術部門面協力協定」(1994年)「相互機密情報保護・維持に関する政府間条約」(2000年)などを締結して緊密な共同歩調を取っているからだ。

時おり沖縄本島と宮古島の間の公海を通過して日本のマスコミを騒がせる中国初の空母「遼寧」はウクライナ生まれである。

ドニエプル川の黒海河口にあるミコラーイフ黒海造船所でソ連時代から建造され、ソ連崩壊後は係留されたままになっていた空母「バリヤーグ」(『バイキング』の意味)を、ウクライナが中国に売却(1998年5月)、中国が改装したのが「遼寧」である。

またロンドンにあるシンクタンク「国際戦略研究所」(IISS)は2017年8月、北朝鮮のICBM「火星14号」のジェットエンジンが「ロシア設計・ウクライナ製造」で「ウクライナからロシア経由で秘密裏に輸出された」という説を提示している。

2017年7月に打ち上げられた「火星14号」は、5月の「火星12号」に比べて射程距離が770キロ→6700キロ〜1万キロと飛躍的に伸びた。アメリカ本土の西半分を射程に収めた。

IISSは「突然なぜ飛距離が伸びたのか」という疑問への解答として、火星14号とロシア設計ミサイルの画像を比較して「同一のもの」と断定し、ウクライナに貯蔵されていたロシア設計のエンジンを北朝鮮が買った、と推論している。

●ウクライナ「いかなる同盟・統合にも反対」


ベロヴェーシでのもうひとつの合意事項は「独立国家共同体」(CIS)の創設だった。これはソビエト連邦に代わる「主権国家のゆるやかな連合体」を作る構想だ。「単一の軍隊・単一の核管理・単一の経済組織」。これが当初の目標だったが、今日に至るまで実現していない。

ウクライナの国民や議会はCISに反発した。クラクチェフ初代大統領も途中でベロヴェーシ会談には「公式には参加しない」ことにした(会議室の外で待って、会談の結果を聞いては非公式に意見を伝えた)。その後もウクライナはロシアやロシア主導のCISから距離を取り始めた。

1992年10月 ウクライナが暫定通貨(カルボヴァネツ)導入
ロシアの通貨であるルーブル決済圏から離脱。しかしウクライナ政府は通貨管理に失敗し1993年のインフレ率は1万パーセントを突破(物価が100倍に高騰)。ロシアがエネルギー価格を「ソ連時代の国内価格」から「国際価格」に値上げ。ダブルで市民生活を直撃。
1993年 「ウクライナの外交政策基本方針に関する議会決議」
=EC(欧州共同体)への加盟方針を明記。CIS憲章に調印せず。準加盟。ロシアと距離を置く「脱露入欧」を表明。

●ウクライナ・ロシア間のエネルギー紛争の始まり

ウクライナがロシアと距離を取ると同時に、二国間に天然ガスという対立点が浮上し始めた。その前提は、ウクライナがエネルギー源の70〜80%をロシアに依存していたことだ。

ウクライナがいう「(ロシア主導の)いかなる統合・同盟にも反対」という方針は「ロシアとの通貨統合や関税引き下げ=経済統合にも参加しない」ことを意味する。これは当時の自由貿易の国際潮流からは逆行している。

1993年 ロシアがガス・石油価格を国際化。
天然ガスや石油はそれまで「ソ連国内価格」で提供されていた。「二国間貿易」として代金支払い。ウクライナ経済に打撃。ウクライナは対応できず。ガス債務が約31億ドルになった。

ウクライナの消費者はソ連時代の安価なガス料金に慣れており、ソ連解体後のガス輸入価格の国際化に対応できなかった。

住民はソ連時代のような安い公共料金を望み、最大の輸出産業たる鉄鋼産業へも安価な天然ガス供給が政治的に求められていた。

つまり、選挙での集票と利益団体からの圧力により、政府はガス料金引き上げをためらい、結果として価格転嫁が遅れ、以前の消費構造は維持され続けたのである。

アジア経済研究所2022年6月 「混沌のウクライナと世界2022」
第6回 ウクライナの「中立」は買えた――ロシア天然資源外交の興亡 藤森 信吉

●経済的な利得より政治的な独立を優先


ここで、ウクライナは社会主義経済から自由主義経済に移行し、経済をゼロからテイクオフさせる最初の一歩で「悪手」を打った。私はそう考える。

貿易を促進するために通貨統合や関税の相互引き下げなど「自由貿易協定」に同意することは、EC(欧州共同体)やNAFTA(北米自由貿易協定。1992年)など、当時の国際社会では珍しいことではなかった。

まして国家存亡の基礎であるエネルギー源の輸入先との間なら、自由貿易圏に参加することは、決して悪い取引ではない。そちらのほうが「お得」だ。

また中国と日本、米国のように、政治的には対立しても、経済では相互に利益をとる「政経分離」政策を選択する選択肢も、国際社会では普通にある。

しかしウクライナは「ロシアからの離脱」という政治面を経済的な利得より優先した。これはなぜなのか。

<クラフチェンコ・ベラルーシ外相>

クラクチェフ(ウクライナ大統領)は(1991年12月のベルヴェーシ会談で)上機嫌でした。なにしろ、その前の週に当選したばかりで、70%の票が彼に集まったのですから。

クラクチェフにとって前途は洋々としたもので、迫りくる経済危機のことなど、彼の頭にはありませんでした。ウクライナの工場がロシアから電力やガスを輸入しなければならないことも、忘れてしまっていたのでしょう。

彼はまったく浮かれてしまっていて「いかなる同盟も望まない」「いかなる統合にも反対だ」と主張するばかりでした。

NHK「証言でつづる現代史〜こうしてソ連邦は崩壊した」

クラクチェフ・ウクライナ初代大統領は長くソ連共産党エリートだった。ここで経済と政治を分離して「ロシアと政治的に距離を取りつつ、経済的に得をとる政策」に踏み切るまでは考えが至らなかったのかもしれない。

●1990年代はウクライナ民族主義政策を取らず

しかし一方、1990年代のウクライナは、ロシアとの対決を明確にするような国内政策を控えている。

当時のウクライナ政府は「ウクライナ民族」の定義を明確にしていない。ウクライナ国籍は、国内に居住する旧ソ連市民なら、希望者には無条件で付与された。ウクライナ語の使用を強制することもしなかった。公的空間ではロシア語の使用がそのまま残った。2言語併用である。

2000年代にロシアとの対立点になる「ウクライナ蜂起軍」(UPA)やその指導者であるステパン・バンデラ(第2次世界大戦中にナチスドイツやソ連軍を相手にパルチザン戦を展開、ポーランド系・ユダヤ系住民の虐殺を起こした。ロシアは『ファシスト』『戦争犯罪人』として今も敵視。本欄下記記事を参照)を名誉回復・英雄視などもしていない。つまりウクライナ民族主義に傾斜した政策を避けていた。

こうした国内政策のため、ポーランドなど欧州文化圏の影響が強いウクライナ西部(首都キエフを含む)と、ロシア文化圏のロシア国境沿い東部(ドネツク、ルハンスクなど、後に分離運動を起こす)の地域対立は表面化しなかった。

あえてポジティブに表現すると、ウクライナ国内の「多文化主義」が機能した、とも言える。民族紛争や地域対立は回避できた。つまり「ウクライナ国民の統合」が機能していた。首都キエフによる一極支配もなかった。

●ロシアも国内の紛争で大忙し

一方の当事者であるロシアも、国内の紛争・問題が多発してウクライナとの対決どころではなかった。経済もヨレヨレだった。

1993年 モスクワ騒乱事件(エリツイン大統領・軍と反大統領議会・市民の武力衝突)連邦議会ビルに籠城する反エリツィン派を戦車が砲撃して排除。
1994年 チェチェンの分離独立をめぐる武力紛争始まる。

このあたりで、欧米とロシアの関係は悪化し始める。欧米はロシアとの対抗策で、ウクライナ支援に傾斜する。前述のとおり、ウクライナには旧ソ連時代の核兵器がまだ残っていた。その拡散を恐れるアメリカが経済援助を続け、IMFの融資も実施された。

1994年10月 カナダ・ウィニペグでIMF主催「ウクライナ経済再編パートナー会議」
G7 に加え、債権国ロシア、トルクメニスタンが参加。ウクライナの債務再編に協力する ことを約束した。ウクライナのガス債務は、ロシアとの二国間紛争ではなく、アメリカはじめG7やIMFという国際機関を巻き込んだ国際問題に発展した。

エリツィン大統領時代のロシアはウクライナにほとんど介入していない。ウクライナは軍事的には中立を保ち、欧米とロシアの間でバランスを取る(=両方から妥協を引き出す)外交を展開できた。

そのウクライナの核兵器の撤去も、1996年6月に完了する。

●ロシア・ウクライナ間で天然ガス代金と黒海基地をバーター

1997年5月 エリツィン・ロシア大統領がウクライナを訪問。「友好・協力・パートナーシップ条約」調印。
領土保全や国境不可侵を相互に確認。「敵対する条約の調印を控える」との条項が盛り込まれた。

同月 「黒海艦隊分割協定」成立。
ロシアは2017年までセバストポリを基地として利用。
ウクライナの対ロ・ガス債務30億7400万ドルをロシア側が棒引き。

この「黒海艦隊分割協定」は正式には「ウクライナ領におけるロシア連邦黒海艦隊分割および駐留に関連した相殺協定」という。

要するに、こういうことだ。

  • ウクライナはロシア産パイプライン天然ガスの代金を払えない。

  • ロシアは、そのガス代のツケ30億7400万ドルをチャラにする。

  • その見返りにウクライナは、クリミア半島・セバストポリ軍港の港湾設備を向こう20年間(1997年~2017年)ロシアに貸す。

  • つまりガス代とロシア黒海艦隊の基地賃借料をバーター。

  • 艦隊はロシア81%:ウクライナ19%で分割。

奇想天外な取引と言わざるをえない。「ガス代」と「領土内の軍事基地の使用」が交換、相殺になった。

●ウクライナを不安定化して敵対国になることを防止


ロシアにも利得はあった。ロシア側にすれば「自分たちの黒海艦隊がウクライナ領内に合法的に駐留し続ける限り、NATOはウクライナを加盟国に加えられない」と解釈した。

ウクライナは経済が脆弱

ロシアの天然ガスにエネルギーを依存

ガス代金を払うカネがない。

ロシアはウクライナ領内の軍事基地を使い続けさせろと要求。

ウクライナが欧米主導の軍事同盟(NATO)に参加することを防止。

ここですでに2014年・2022年のウクライナ戦争で最大の紛争点になる「黒海艦隊」「その母港・セボストポリ海軍基地」「その所在地であるクリミア半島」が顔を出している。

つまりロシアとウクライナの紛争点は、ソ連崩壊直後の1990年代当時からずっと変わらないことがわかる。

ロシアにとって黒海〜クリミア半島〜セバストポリは、世界で3つしかない外洋への出入り口(残り2か所:ウラジオストックとカリーニングラード)であることは本欄で繰り返し指摘した。

ロシアのようなランドパワー(大陸国家)は、外洋への出入り口を失って大陸に封じ込められることを本能的に恐れる。その意味で、ロシアにとって「3分の1」を失うことは戦略上の大きな損失になる。

また、ロシアは帝政時代から、隣国が強大化・敵対化することを恐れる伝統がある。そうなる前に分裂と内戦を起こして介入、隣国を不安定化・弱体化する「伝統」がある。

ドイツの東西分割や朝鮮戦争、中国内戦への介入(中国共産党が国民党に勝利して失敗)からジョージア戦争(2008年)などがその例だ。ウクライナ戦争もその文脈で見れば理解しやすい。

●ウクライナ戦争につながる紛争点・登場人物は当時から

1990年代、すでに今日のロシア・ウクライナの紛争点と、主要なアクター(登場人物)は揃っているのでまとめておこう。

  • 天然ガスをめぐる代金支払い遅滞が慢性的紛争に。

  • エネルギー問題と核兵器・黒海基地など安全保障問題がリンクしている。

  • ウクライナ・ロシアの二国間問題がアメリカやEU、国際機関が介入する国際問題に。

●泥沼の「離婚」が今日まで続く


ロシアとウクライナの関係は「夫婦の離婚」によく例えられる。

ソ連の解体はユーゴスラビアのような悲惨な武力衝突を回避できたので「文明的な離婚」と国際社会は評価した。

ところが、そのあと夫婦時代に築いた「財産」(天然ガス、核兵器、軍事基地など)をどう「分与」するかで、泥沼の争いが32年間延々と続いている。その帰結が第一次・第二次ウクライナ戦争という暴力=「殺し合い」である。

<2000年代>ロシア経済復活。ウクライナ市民革命

一方、ウクライナは西側との軍事同盟(NATO参加)に進んでいく。

  • 1997年 NATO「特権的パートナーシップ協定」に参加。

  • 2001年 9.11同時多発テロ 「テロとの戦い」で米露が一致。米露関係改善。

  • 2002年 ウクライナがNATO加盟希望を公式に表明

この時期は、ウクライナ・ロシア関係においては、一種の「無風」時代である。特に2001年の9•11同時多発テロが起きて、そのあとアメリカがアフガニスタン・イラクに軍事侵攻したことで、国債情勢の風景がまったく塗り変わってしまった。ロシアはアメリカ軍に領内の空軍基地を提供、領空の軍事飛行を許可するなど、アメリカに協調した。米露の緊張状態が一瞬和らいだ。

●原油価格高騰でロシア経済カムバック


その一方でロシアは国力を回復し始めた。2000年にはエリツィンに代わってプーチン大統領が就任する。9・11テロとアフガニスタン・イラク戦争でエネルギー価格(石油、天然ガスなど)が高騰、エネルギー資源輸出国であるロシアの財布が潤い始めた。下は2003年以降の原油価格である。

「新電力ネット」コモディテイ価格より

ロシアの国民一人あたり実質GDP(ルーブル換算)を下に示す。西暦2000年を越えるあたりから成長が始まり、約1.5倍に伸びている。

「世界経済のネタ帳」より


ロシアが経済力を回復したことは、ウクライナとの交渉においてバーゲニング・パワーを得たことを意味する。

この時期のロシアはウクライナEU加盟に反対するどころか、むしろ自国の国益にかなうとして歓迎していた。一方、欧米との軍事同盟(集団安全保障)であるNATO加盟には一貫して反対している。

●ウクライナ:ワイロと寡占支配はびこる

ウクライナ経済は停滞したままである。

本欄前稿で書いたように、庶民は都市部中心の職場近くの家賃が払えず、片道1時間半かけて通勤する。所得は増えない。ポーランドに出稼ぎにいくと所得が5倍になる。一方で、ガス代が高騰して暖房費が上がる。生産コストも上昇するので、物価が上がる。

病院や学校など、行政機構の末端まで公務員のワイロやコネ主義が横行している。

産業が生む富は、少数の富裕な経営者(オルガルヒ)が独占している。国民に所得が分配されない。ソ連・ロシアが発祥なのだが、ウクライナにもオルガルヒが生まれた。寡占状態はロシアよりひどい。

これでは市民の不満が蓄積しないほうがおかしい。

社会主義時代、ウクライナの生産・流通システムはすべて国有財産だった。その経済システムが崩壊したとき、国有財産である「資本」(生産設備や商品、流通、輸送手段、金銭など)をコネや手持ち資産でこっそり買い集めた人たちが「オルガルヒ」だ。

「法の支配」が徹底した資本主義国なら、国有(公有)財産を民間に売るときは「公開入札」をする。「国有財産を売り出しますよ」と公知して、購入希望者を募集し、購入希望価格を提示させ、競争させる。高い価格を提示(入札)した者が「落札」する。公有財産を高く売ったほうが、政府の収入が増えるので公共の利益にかなう。役人が公有財産をコネでこっそり売ると「談合」として法律違反になり刑罰を受ける。日本の場合「入札談合等関与行為防止法」違反。法定刑は5年以下の懲役または250万円以下の罰金だ。

オリガルヒは、ソ連時代に経営や金融の経験があった共産党エリートやテクノクラート(専門家官僚)、またはその周辺にコネがあった人が多い。市民にとっては、ソ連時代の「上級国民」がそのまま支配層に横滑りしたことになる。経済の格差構造はソ連時代のまま変わらないことになる。

●10年間に2回市民の反乱起きる


私は、第二次ウクライナ戦争で日本に避難してきたキエフ在住の主婦に話を聞いたことがある。「この国は誰が政治家になってもダメね」と嘆いていた。そんな国民の生活への不満は、ウクライナ政府への異議として爆発した。

2004年と2014年の2回、ウクライナでは「革命」と呼ばれる大規模な市民の抗議が起きている。どちらも首都キエフ中心部の広場(マイダン)に市民が抗議のために集まったことが始まりなのだが、大きな違いがある。2004年(オレンジ革命)は市民・政府とも穏健で、警察・軍の導入もなかった。死傷者も出ていない。ところが2014年(マイダン革命)は市民と警察が衝突。誰が(政府・市民側)撃ったのか今もわからない銃撃戦が始まり、百人以上の市民と警察官が死んだ。

<2004年 オレンジ革命>
2004年11月21日の 大統領選選挙で、親欧米路線を掲げるヴィクトル・ユシチェンコ候補と、東部ドンバス出身の親露派ヴィクトル・ヤヌコビッチが対決した。

当初はヤヌコビッチの当選が報じられたが、不正選挙の疑惑が浮上。首都キエフの独立広場(マイダン)に数十万人のユシチェンコ支持者が集まって抗議した。下は当選前2000年のユシチェンコ(上)と2014年のヤヌコビッチ。

By The Chancellery of the Senate of the Republic of Poland
2014年のヤヌコビッチ。ロイター/Maxim Shemeto.

この時の抗議活動は「お祭り」のような様子で、暴動や暴力・破壊行為が起きなかった。警察や軍隊の介入もなかった。ちなみに「オレンジ革命」のオレンジはユシチェンコ陣営のシンボルカラーである。

解決も理性的だった。現職のクチマ大統領、ユシチェンコ・ヤヌコビッチ両候補に加えて、隣国ポーランド大統領らの調停団が参加して円卓会議が開かれた。話し合いの結果、同年12月26日にやりなおし大統領選挙が実施された。8%の差でユシチェンコが当選した。

●ユシチェンコ政権は反露・民族主義に傾斜
というわけでユシチェンコ政権(2005〜2010年)が誕生した。

ユシチェンコはソ連時代は銀行員だった。独立後の1993年から99年にウクライナ国立銀行理事長。任期中はインフレ回避のため通貨発行の抑制に努め、IMF など国際社会からは高い評価を受ける。

こうした金融エリートであるユシチェンコには経済の立て直しに期待が集まった。選挙スローガンも「オルガルヒ排除」「腐敗一掃」である。

ところが、蓋を開けてみると、ユシチェンコ政権は政治・経済を支配するオルガル匕との妥協に転向。経済は相変わらずヨレヨレだった。前稿で述べたとおり、ソ連時代を100とすると、同政権時代は「やや持ち直したが、また下がった」で60〜70をウロウロしている。

「ウクライナを知るための65章」(明石書店)掲載の数値より作成

「脱露入欧」路線をはじめて明確に打ち出したのもユシチェンコ政権である。「ヨーロッパ・大西洋統合路線」を推進し、2008年のNATO・ブカレストサミットでウクライナが将来的な加盟国となることを宣言した。

ウクライナ語の公用語化推進や反露外交、ウクライナ文化中心主義に舵を切った。1930年代の「大飢饉」をソ連によるウクライナへの「人為的な飢餓」=民族虐殺=「ホロモドール」であると批判している。

またユシチェンコ政権は2010年、第2次世界大戦中に「ウクライナ蜂起軍」(UPA)を指導したウクライナ民族主義者ステパン・バンデラ(下写真)に「ウクライナ英雄」称号を授与し、名誉回復した。

Wikipedia Commons より。

しかし、UPAはポーランド系・ユダヤ系住民の虐殺を実行した「黒歴史」がある(バンデラ自身はナチスに逮捕されドイツの強制収容所にいたため、どの程度指揮に関与したのかは不明)。またナチスドイツの侵攻当初は反ソ連でナチスに協力したため、ロシア政府は今も「ファシスト」「ナチス協力者」「反ソ主義者」と敵視している。

結局、国内外のユダヤ系社会、ポーランドからの反発を受けて、バンデラの名誉回復は訴訟で争われた。裁判所は「バンデラは亡命したのでウクライナ市民ではない」という理由で、英雄称号を取り消す判決を出した(バンデラとUPAをめぐる歴史記憶論争は本欄記事を参照されたい)。

脱露政策の中でも、特にロシアの国益を直撃したのは、1997年に天然ガス債務とのバーターで20年間の使用を認めたクリミア半島・セバストポリのロシア海軍基地を「2017年で退去せよ」と宣言したことだ。1997年の合意では、5年間の延長ができることになっていた。「延長は断る。出ていけ」と合意を反故にしたのである(→2010年にガス紛争のすえヤヌコビッチ政権が反転させた)。

●反発したロシアとの「ガス紛争」始まる


ユシチェンコ政権の脱露路線に反発したロシアは、独立直後からウクライナとの間でモメていた、天然ガスの価格交渉で報復した。それが3回にわたる「ガス紛争」である。

<2005〜2006年 第一次ガス紛争>

2005年4月、天然ガスの供給元であるロシア・ガスプロム社とウクライナ政府が契約更改の交渉に入った。ロシア側は現行50.0ドル→160.0ドル→230.0ドルへと大幅な値上げを要求(1,000立方メートル)。

ウクライナ側が拒否したため2006年1月、ロシア側はついにウクライナ向けのガスの供給停止に踏み切った。

事態がややこしくなったのは、ウクライナ向けのガス供給は、その西側にあるEU諸国と同じパイプラインを通っていたからだ。

ウクライナ向けのガス供給を停止したせいで、ルーマニア、ブルガリア、スロベニアなどへのガス供給まで止まった。ときあたかも厳寒期である。大混乱に陥った(実際にはロシア側はEU諸国向け供給量からウクライナ分30%を削減。ウクライナが無視してガス取得を続けたため、西側諸国でガス圧が低下)。

Wikipedia Commonsより。

結局、2006年1月4日に95ドルの価格設定で交渉が決着。ロシア側が供給を再開。紛争はいったんおさまった。

ガス紛争はウクライナの内政に打撃を与えた。2006年2月、ウクライナ議会はガス紛争で政府の対応に問題があったと内閣不信任案を賛成多数で採択。政権は危機に陥り、ユシチェンコ大統領がモスクワを訪問してロシアと「新たなパートナーシップを結ぶ」ことを確認。翌月のウクライナ議会総選挙で、ユシチェンコ政権与党は第3位に転落。ロシアとの関係強化を主張する野党が大幅に議席を伸ばした。

<2008年 第二次ガス紛争>
2008年2月、露ガスプロム社は「ウクライナがガス代金約15億ドルを滞納している」と主張。供給停止を警告した。

両国首脳が交渉し、ウクライナ側が料金の支払いに応じたもの、今度はロシア側が2008年1月・2月分の6億ドルの追加支払いを要求。ウクライナ側は「ガス供給体制の見直し」を要求、交渉は暗礁に乗り上げた。

2008年3月3日、ガスプロム社はガス供給の25%削減。当日夜に10%の追加削減に踏み切った。ウクライナ側はガスの備蓄を取り崩して対応。2006年のような欧州全体への影響はかろうじて回避できた。

●NATO加盟宣言したジョージアにロシア軍事介入

ここまでの時点で、ロシアがウクライナはじめ旧ソ連国の脱露入欧政策を敵視し、報復に及ぶ可能性があることは明白になっていた。

そんな中、2008年4月にルーマニアの首都ブカレストでNATO首脳会議が開かれた。ウクライナとジョージアが将来的にNATO加盟国となることを宣言した。これにはドイツやフランスが「時期尚早」「ロシアを不必要に刺激する」と異論を唱えた。が、米国ブッシュ政権が強引に押し切った。

すると4ヶ月後の2008年8月、ロシア軍がジョージアの分離独立運動に軍事介入。武力侵攻してジョージア・ロシア戦争が起こった。

●リーマンショックでウクライナ経済も大打撃

悪いことは重なる。翌月の2008年9月、米国の投資銀行リーマン・ブラザースの破綻を端緒とするリーマンショックが世界に波及した。

ウクライナの主力輸出品である鉄鋼製品価格は下落。投資は冷え込み、外国資本が引き上げた。翌年の2009年のウクライナのGDPは14.8%マイナスという破局的な低下だった。

この時点ですでにユシチェンコ政権はヨレヨレだった。そこにまたガス紛争が起きて止めを刺した。

<2009年 第三次ガス紛争>
2008年12月、露ガスプロムが「ウクライナ側のガス滞納料金は罰金を含めて約21億ドル」「全額返済しなければ1月1日からガスを止める」と警告。
ウクライナ側は「罰金を除く滞納分に相当する約15億ドルを返済した」と主張した。

交渉したが、罰金の6億ドルの返済時期を含めて合意できず。2009年1月1日、ウクライナへのガス供給が停止された。同6日には、ブルガリア、ギリシャ、トルコ、マケドニアへの供給も停止された。

2009年1月18日、ロシアのプーチン首相とウクライナのユリア・ティモシェンコ首相(ガス産業経営者出身)が会談。「2009年度のガス供給価格は20%割引。2010年度以降はヨーロッパ諸国と同じ価格を支払う」ことで合意。紛争は終息した。

(注)ウクライナは大統領と首相がいる。大統領は国民の直接選挙で選ばれ任期5年。主に外政を担当。首相は議会の多数派から出る。任期4年。主に内政を担当。

<2010年代>EUへの参加を一時停止。マイダン革命勃発。親露政権崩壊。東部の分離運動にロシアが軍事介入し第一次ウクライナ戦争始まる。

●親露派ヤヌコビッチ大統領が返り咲き

前回の大統領選挙で、オレンジ革命の末ユシチェンコに負けた ヤヌコビッチ(下の写真)が当選。雪辱を果たした。

Government of Ukraine

「脱露入欧」路線でロシアの報復に遭い、ボロボロにされたユシチェンコ政権を見て、民意が180度反転したといえる。もともと親露派だったヤヌコビッチ政権がその後親露路線を歩んだのは、自然の流れといえるだろう。

●ガス代オマケと引き換えに黒海艦隊駐留25年延長


ヤヌコビッチ政権の対露外交の最初の仕事は「ロシアがガス債務をオマケする引き換えに、ウクライナはロシア黒海艦隊の駐留を25年間延長する」という、1997年の相殺協定に続く、またしても奇想天外なバーター取引だった。

2010年2月 ヤヌコビッチ大統領就任
2010年4月 ロシアのハリコフで両国が「ハリコフ合意」。
ウクライナがクリミア半島・セバストポリでのロシア黒海艦隊の駐留期限を2017→2042年に延長。見返りに、ロシアはウクライナ向けガス代金を割り引く。前ユシチェンコ時代の「ロシア海軍基地借用は2017年で打ち切り」をひっくり返した。

さらに
2011年10月 ウクライナ・ヤヌコビッチ政権がロシア主導のCIS自由貿易条約に参加。

●ガス代は上がり続けウクライナ経済は弱体化


一方、ウクライナの露ガスプロム社への支払い価格はますます値上がりした。

2010年6月 234ドル
2011年8月 同350ドル
2011年11月 同400ドル
2013年1月 同430ドル

(1,000立方メートルあたり)

ヤヌコビッチ政権は国内のガス供給価格を抑えるために補助金を出す政策を始めた。「ガスをロシアから高く買って国内に安く売る」政策である。補助金の分だけ政府支出が増える。

理由は2つある。民衆の生活費を直撃することを避けるのがひとつ。もう一つは、自らの政治基盤である東部ドンバスの石炭・鉄鋼業産業がガス代値上げの直撃を受けることを避けることだ。

しかし、上記グラフでもわかるように、ウクライナ経済の弱体化を食い止めるには「焼け石に水」だった。ソ連時代の60%前後に低迷する。

●ウクライナを迂回する新パイプラインがロシアとEUを直結


そしてウクライナにとって劇的な国際環境の変化が訪れる。

同国を迂回してEUにロシア産天然ガスを送るパイプライン「ノルドストリーム1」が2011年11月に開通。2021年6〜9月には「ノルドストリーム2」が完成した。"Nord Stream"は”North Stream”を意味するドイツ語である。どちらもバルト海の海底を通っている。

(注)2022年2月の第二次ウクライナ戦争勃発を受けて、ドイツはノルドストリーム2の稼働を停止した。

The Economist
"Why Nord Stream 2 is the world’s most controversial energy project?"
Jul 15, 2021


ノルドストリームは、ウクライナとの紛争でEUへの天然ガス輸出が不安定化することを回避するため、ロシアとドイツ(EU)の利害が一致した結果、建設された。

ウクライナにすれば、ロシアからガス供給を受け、代金が支払えなくなるたびに、西側でパイプラインに接続されているEU加盟国を「巻き込む」ことができた(意図的かどうかは別として)。ウクライナのガス代支払いがウクライナ・ロシアの二国間問題ではなく、EUを巻き込んだ国際問題になった。ウクライナがガス代金を払えないと、以西のEU諸国もエネルギー源が止まる。ある意味ウクライナは「生殺与奪」のポジションにいたことになる。つまりロシアと交渉するときの「味方」「応援団」ができる。

ノルドストリームの完成は、このウクライナのバーゲニング・ポジションが失われることを意味する。特にノルドストリーム2に「ヨーロッパの安全保障を脅かす」と主張して反対した。

アメリカも噛み付いた。「ノルドストリームはドイツを含むNATO加盟国へのロシア影響力を強める」と批判。2018年7月、トランプ大統領はNATO事務総長との朝食会の場でノルドストリーム2計画について「アメリカがドイツを守るために数十億ドルも払っているというのに、ドイツはロシアに(ガス代として)数十億ドルを支払っている」と発言した。アメリカは連邦議会や国防総省も批判している。

<2014年マイダン革命 第一次ウクライナ戦争>

マイダン革命
→ヤヌコビッチ政権崩壊
→クリミア半島・東部州にロシア軍事介入
→第一次ウクライナ戦争

エスカレーションの最初のドミノを倒したのは、2013年11月、ヤヌコビッチ大統領が「EUとの連合協定を棚上げする」と発表したことだった。これはウクライナの「脱露入欧」を警戒するロシアの意向に沿う内容であり、ロシア側は見返りに天然ガスの値下げとウクライナ国債150億ドル分の引き受け(=お金を貸すこと)を提供するはずだった。

この「EU参加はいったん見送り」が国民の憤激を買った。

いつまで経っても変わらない政府・行政のワイロ・コネ体質や、オルガル匕支配への「劇薬」として、EU加盟の条件である「法の支配」などの国内改革(コペンハーゲン基準)に国民の期待が集まっていたからだ。

加えて、首都キエフ以西のウクライナ西部では、第三次産業(IT,金融などサービス産業)が勃興していた。EU基準の経済が発展することは、西部住民の経済的な希望にも合致していた。この住民の就業構造の違いは、第二次産業(石炭・鉄鋼業)中心の東部(分離を主張するドンバス2州など)住民との利害の差にもつながっている。

<マイダン革命〜第一次ウクライナ戦争>
2013年11月 ヤヌコビッチ大統領、EUとの連合協定棚上げ。市民が独立広場(マイダン)に数十万人結集し占拠。
2014年2月 銃撃戦で100人以上死亡。ヤヌコビッチ大統領はロシアに亡命。政権崩壊。ロシアが天然ガス値下げを撤回。
2014年3月 ロシア、クリミア半島併合を強行。
2014年4月 ウクライナ東部2州(ドネツク、ルハンスク)での親露分離独立勢力にロシア援助・介入。第一次ウクライナ戦争。

「ヤヌコビッチ政権は2013年11月の欧州連合(EU)の東方パートナーシップ・サミット直前になって、EUとの連合協定交渉を棚上げした。その背景には、デフォルトも懸念される深刻な経済状況があり、政権としては欧州統合という未来の夢はひとまず先送りして、目先の「冬を越す」ために、やむをえずロシアとの接近を図った格好だった。だが、国民はその決定だけではなく、ヤヌコビッチ政権自体にノーを突きつけることになる。2014年2月にヤヌコビッチ政権は崩壊し、ウクライナはEUとの連合協定を締結、EUとの関係を軸とした新たな経済発展の道を目指すことになった」

「ウクライナを知るための65章」(明石書店)
第53章 服部倫卓「ウクライナ経済の軌跡」

●脱露入欧からウクライナ中心主義へ傾斜

こうして、親露派のヤヌコビッチ政権が崩壊して以降のウクライナ政権は「脱露」からより深化して「反露+ウクライナ中心」へと傾斜していく。クリミア半島や東部2州にロシアが軍事介入、国内で戦闘が続くという現実が出現している以上、世論が憤激するのは当然と言わざるを得ない。

2014年5月 大統領選挙でペトロ・ポロシェンコ当選。6月就任。
ポロシェンコ自身、お菓子メーカー「ロシェン」のオーナーであり、資産16億ドルと言われるオルガル匕の一人だ。ニックネームは「チョコレート王」。ユシチェンコ政権で外相、ヤヌコビッチ政権で経済発展・貿易相を経験している。

ポロシェンコ政権は当初から難題を抱えて出発した。2014年4月以来、東部2州の分離独立派を支援してロシアが軍事介入、ウクライナ政府軍との間で戦闘が続いていたからだ。

2014年9月 第一回ミンスク合意=ミンスク1
ウクライナ・ロシア・ドネツク・ルハンスクがドンバス地域での戦闘停止に合意。休戦は失敗。戦闘継続。
2015年2月 第二回ミンスク合意=ミンスク2
フランスとドイツが仲介し2回目の停戦合意。ウクライナ軍と分離勢力軍の兵力引き離し。

●念願のEU連合協定も輸出急増にならず

ポロシェンコ政権は2016年、念願のEUとの連合協定を締結した。DCFTA(深化した包括的自由貿易圏)に参加。これはウクライナとEU間で関税を相互撤廃することを目指すほか、EUモデルに沿ってた法律や規制を300近く構造改革することが義務付けられている。

ところが、EUとの自由貿易圏協定を結んでもなお、ウクライナの対EU輸出は微増にとどまり、急増させる即効効果は出なかった。

それどころか、第一次ウクライナ戦争の結果、またしても経済に大打撃を食らった。

クリミア半島を喪失=GDP4%を失う
ドンバスの石炭・鉄鋼産業を分離派に占領=GDP10%を失う


その結果

為替相場が下落
2014年年初:1ドル=7.99グリブナ → 2015年末:24グリブナ

経済成長2年連続マイナス

2014年:マイナス6.6% → 2015年:マイナス9.8%

と坂道を転げ落ちるような急降下である。ウクライナ国債デフォルト宣言の危機が目前に迫っていた。デフォルト=「借金返せません宣言」=国家破綻である。かろうじて回避できたのは、ミンスク2の停戦合意の1ヶ月後にIMFや世界銀行が支援プログラムを実施したからだ。

2015年3月 IMF 4年間で総額175億ドルの支援プログラム実施。
世界銀行、日本も協調的支援。

●ウクライナ、ロシア産天然ガス依存から脱却


一方、長年ウクライナの足かせとなっていたロシアからの天然ガス輸入は2016年にほぼゼロになった。ロシアがEU諸国に輸出した天然ガスをEUから買う「逆送(リバース)輸入」(実際にパイプライン内のガスを逆方向に走らせるためこの名がついた)に切り替えたのだ。

アジア経済研究所「IDEスクエア 世界を見る眼」2022年 「混沌のウクライナと世界2022」 第6回 ウクライナの「中立」は買えた――ロシア天然資源外交の興亡(藤森 信吉)より。
単位:10億立法メートル。

ここで、ロシア・ウクライナ関係に重大な変化が起きたことがわかる。
ロシアにすれば「天然ガスを止める・値上げする」とウクライナを恫喝して屈服させることができなくなった。加えて、前述のノルドストリームが完成しているから「ウクライナがゴネてもEUに天然ガスを売ってお金を儲けることができる」と考える。

一方、ウクライナにすれば「もうロシアに遠慮する必要はない」と考える。

ウクライナのEUからの天然ガス輸入(=ロシア産ガスからの脱却)は2013年ごろから増加しているので、2014年にロシアがクリミア半島と東部2州を軍事力で奪ったのは、天然ガスという交渉材料を失った結果と考えることもできる。

「ロシアのくびき」から解放されたと感じたのか、ウクライナのロシアへの態度はますます敵対的になっていく。ロシアも報復して敵対合戦になった。

  • 2015年5月 共産主義とナチスの賞賛を禁止する「脱共産主義法」発効。前述のバンデラとウクライナ蜂起軍(UPA)は顕彰してもよいことになった。バンデラの誕生日には「たいまつ行進」が行われるようになった。

  • 2015年10月 ウクライナ、ロシアとの間の航空便を全面禁止。

  • 2016年1月 ロシアがウクライナ製品に関税を適用。CIS自由貿易協定違反。ウクライナも報復。対露貿易悪化。

  • 2016年7月 キエフ市議会が首都キエフの「モスクワ通り」を「ステパン・バンデラ通り」に改名。

  • 2017年5月 対ロシア制裁。ロシア系ネットサービスやSNS使用禁止。ロシア政府系銀行ウクライナから撤退。

  • 2017年7月 ストルテンベルグNATO事務総長との会談の記者会見でポロシェンコ大統領「ウクライナはNATO加盟の準備を再開し、2020年までに加盟基準を充足することを目指す」。西側社会驚愕。

  • ウクライナ世論 NATO加盟支持増加。2014年:30~40% → 2017年6月:69%

  • 2018年5月 ポロシェンコ大統領 CISでの活動を停止する大統領令に署名。

  • 2019年3月 大統領選。ポロシェンコ、ウォロディミル・ゼレンスキー、ユリヤ・ティモシェンコ(前述)ら44人が立候補する乱戦。1回目投票ではどの候補も単独過半数に届かなかった。

  • 同年4月1位のゼレンスキーと2位のポロシェンコの決選投票。ゼレンスキー73.22%の得票率で当選。ポロシェンコ敗退。

  • 同年5月 ゼレンスキー大統領就任。

<2020年代 SNSポピュリズム時代 第二次ウクライナ戦争>

●公共空間でのウクライナ語使用を義務化


ゼレンスキー大統領が就任する前後、ウクライナ議会は「国家語としてのウクライナ語の機能保障法」を可決。2019年6月に施行した。この法律は、次の活動領域でのウクライナ語の使用を義務付けた。

公的機関の業務。
選挙手続き。
政治運動や政党。
NGO
就学前・学校・大学教育
科学・文化・スポーツ活動
出版・配本
印刷マスメディア・テレビ・ラジオ放送
経済および社会生活(商業広告、公共イベント)
病院および介護施設

もともとロシア語話者であるゼレンスキーも、政治家への転身とともに講座を受講してウクライナ語を身につけた。

対抗して、ドネツク・ルハンスクの分離地域では2020年3月に「ロシア語が唯一の国語」として公認された。

もともとウクライナ語とロシア語が併存する多文化社会だったウクライナは、ウクライナ文化優先の単一文化政策に舵を切ったということだ。

本欄でも繰り返し述べてきたように、ウクライナ語は帝政ロシア・ソ連時代とも抑圧されてきた。独立後は2言語併存だった。ロシアとの武力衝突が始まり、親露地域が離脱する環境になって以後、ウクライナ語優先になった。これは一種の「戦時体制」とも言える。

●ネット政治とポピュリズム政治がウクライナにも

よく知られているように、ゼレンスキーは、元々は俳優・コメディアンだった。2016年に放送されたテレビドラマ「国民の僕」で高校教師が、生徒がSNSに投稿した演説がきっかけで大統領になるヴァシリ・ペトロヴィッチ・ゴロボロジコを演じて人気を博し、そのまま「国民の僕」を党名に政党を立ち上げて、2019年に本物の大統領になった。

ゼレンスキー大統領の当選にはふたつ意味があると思う。

1)独立後30年を経ても汚職やオルガルヒ支配が一向になくならず、経済停滞に疲弊し切ったウクライナ国民にとって、政治家経験ゼロのゼレンスキーにむしろ「しがらみがない分、大胆な改革を断行してくれるかもしれない」という期待が集まった。
2)テレビやインターネットが世論形成に大きな力を持つ「テレポリティックス」(テレビ政治)あるいは「ネットポリティクス」(ネット政治)の時代がウクライナにもやってきた。

●テレビ+ネットのマスメディア政治時代

下はウクライナのインターネット普及率(人口)である。だいたい2015年ごろに50%を超え、ネット使用者が少数派から多数派に転じたことがわかる(日本では2005年ごろに同じことが起きた)。

"World Bank / Data"より

下はウクライナの携帯電話の普及率(人口:台数比)。2005年の時点で100%を超えている。

"World Bank / Data"より

このネットと携帯電話の普及の推移という情報環境の変化を見ると、2004年→2014年の市民の抗議(オレンジ革命→マイダン革命)の動員数がはるかに多くなり、暴力的になったのか、理解しやすくなる。2004年はネット・携帯電話の普及前であり、2014年は普及後なのだ。マイダン革命ではフェイスブックが動員や議論のプラットフォームになったことが知られている。

マスメディア・スターであるゼレンスキーが国家指導者になり、ネット・SNS・携帯電話が市民運動を促進する。


楽観的に形容すれば「ネット民主主義」の誕生である。悲観的にいえば欧米日のような「ネットポピュリズム政治」がウクライナにもやってきたということだ。

●コロナでまた経済破綻寸前。ゼレンスキー隠し資産発覚

誕生したばかりのゼレンスキー政権にとっては運の悪いことに、2020年ごろから世界をコロナ・パンデミックが覆った。2020年の経済成長率はマイナス3.8%に落ち込んだ。IMFは18ヶ月間で55億ドルの緊急支援を実施。この借金が一息ついて、翌年は成長率3.4%にやっと回復した。

2021年11月には、国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が「パンドラ文書」と呼ばれるタックスヘイブン(租税回避地)の秘密文書を公開。その中で、ゼレンスキーが大統領当選直前の2019年3月に、英領バージン諸島に登録されたペーパーカンパニーに資産を移転していたことが暴露された。この会社の株主がウクライナ政府の閣僚に登用されていることも明るみに出た。

「庶民の気持ちを代弁してくれる」と期待した国民の落胆は激しく、ゼレンスキー大統領の支持率は、戦争直前には約20%にまで落ち込んだ。

その3ヶ月後の2022年2月24日、ロシア軍が攻め込んできた。この軍事侵攻がなければ、ゼレンスキーも「腐敗したウクライナの政治家の一人」として歴史の波に消えていたかもしれない。

ウクライナのコロナによる死者は11万9000人。人口比で計算すると国民368人に1人が死んでいる。

日本の死者は6万5937人。国民1906人に1人の割合だ。

ウクライナは人口比で日本の約5倍がコロナで死んだ計算になる。

(死者数はいずれも2023年1月24日現在)

(2023.1.25 東京にて記す)

<参考文献>
 本稿は下記の文献に依拠していることを特記する。ウクライナについての初歩知識を得るための基礎文献としても推薦する。


<注1>今回も戦争という緊急事態であることと、公共性が高い内容なので、無料で公開することにした。しかし、私はフリー記者であり、サラリーマンではない。記事をお金に変えて生活費と取材経費を賄っている。記事を無料で公開することはそうした「収入」をリスクにさらしての冒険である。もし読了後お金を払う価値があると思われたら、noteのサポート機能または

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ウガヤヒロミチ

までカンパしてほしい。

<注2>今回もこれまでと同様に「だからといって、ロシアのウクライナへの軍事侵攻を正当化する理由にはまったくならない」という前提で書いた。こんなことは特記するのもバカバカしいほど当たり前のことなのだが、現実にそういうバカな誤解がTwitter上に出てきたので、封じるために断っておく。


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