見出し画像

地政学から見たウクライナ戦争     なぜロシアはクリミア半島にこだわるのか 海洋への出口をめぐる300年の闘争   ウクライナ戦争に関する私見10     2022年5月16日現在

今回の論考は、視点を大きく広げて考えてみようと思う。空間軸を地球全体、時間軸を100年単位に広げた「ビッグ・ピクチャー」にウクライナ戦争を置いて、それがどう見えるか考察する。

こうしたビッグ・ピクチャーから国際安全保障を考える思考については、拙著「世界標準の戦争と平和」(悠人書院)で詳しく述べた。興味のある方はそちらを参照してほしい。

同書で、地球を「海」「陸」「空」の3つの空間に分類し、地理的条件の観点から政治や経済、軍事を分析する「地政学」(Geopolitics=ジオポリティクス)の発想を紹介した。

地政学は、欧米のみならず、世界の外交官や研究者、軍人など国際安全保障にかかわる人々にとっては「共通言語」であり「基本文法」になっている(日本では第二次世界大戦後、地政学は忘れ去られ、知的空白が続いている。その事情も拙著で説明した)。

ウクライナ戦争をめぐるロシアや欧米諸国の発言を見ても、地政学由来の発想があちこちに顔を出している。こうした「地政学から見たウクライナ戦争」をまとめておくのも有益だろうと考えた。

(冒頭写真はクリミア半島と黒海。Google Earth より)


●ロシアは「ランドパワー」の筆頭格
地政学由来の重要な安全保障の概念に「シーパワー」と「ランドパワー」という言葉がある。前者は「海洋国家」「海の大国」、後者は「大陸国家」「陸の大国」などと訳される。ごく雑駁にその条件を述べる。

<シーパワー Sea Power>
「海洋国家」「海の大国」
繁栄の源泉を海上輸送に依存している。それを守る強い海軍力を持つ。
歴史上の例:イギリス、アメリカ、スペイン、大日本帝国。

<ランドパワー Land Power>
「大陸国家」「陸の大国」。
繁栄の源泉を陸上輸送に依存している。強い陸軍力を持つ。
歴史上の例:帝政ロシア・ソ連・ロシア共和国。ドイツ。

ウクライナ戦争に関して先に述べておくと、ロシアは「ランドパワー」の筆頭格だ。これは帝政ロシア→ソ連→ロシア共和国と過去500年間ほとんど変わっていない。ドイツや中国もランドパワーに分類される。

ロシア共和国はユーラシア大陸という地球最大の大陸の東西に、1710万平方キロという世界最大の領土を持つ。これは、日本国がまるごと45個入ってまだ余るという巨大さである。

 領土が膨らみきったソ連時代(2240万平方キロ)よりやや小さくなったとはいえ、ロシア共和国の面積は、地球の陸地面積すべての11.4%を占める。つまり地球上にある陸地の約9分の1はロシアなのである。

 日本国内に時差はない。ロシア共和国には11もの時差がある。西端のカリーニングラードと東端のカムチャッカでは時差なんと10時間。一国の中でほぼ昼夜逆転である。アメリカでも東西海岸の時差は5時間しかない。

「Time-j.net 世界時計 - 世界の時間と時差 」より

●ロシアに外洋への出口は3ヶ所しかない
この巨大な領土の広さに比較すると、ロシアは「外洋への出口が極端に少ない」という地政学的な特徴を持っている。具体的には、次の3つのルートしかない。

A)バルト海ルート
港:サンクトペテルブルグまたはカリーニングラードなど
→バルト海→北海→大西洋
B)黒海ルート
港:セバストポリなど
→黒海→ボスボラス・ダーダネルス海峡→地中海→ジブラルタル海峡→大西洋
C)日本海ルート
港:ウラジオストック
→日本海→宗谷・津軽海峡・対馬海峡→太平洋

Google Map から筆者作成。

軍事関係者のジョークで「世界でもっとも指揮官のなり手がないのは、どこの国の軍隊か」というのがある。答えは「ロシア海軍」だ。なぜならロシアは、国土の広さに比較して、外洋に出る船のルートが極端に少なく、しかも他国にブロックされているからだ。

ロシア北辺の長大な海岸線で接する北極海は、年中氷で埋まっていて、港や航路としては使い物にならない(近年は地球温暖化による氷原の後退で北極海を航路として開拓する動きが出ている)。

すると、ロシア領の港から出発し、船で外洋に出るには、上記(A)(B)(C)しかルートがない。その航路には、あちこちで敵対的な国にブロックされる「チョーク・ポイント」(窒息点)がある。

これは帝政ロシア時代から現在に至るまで、ロシアを悩ませ続ける地政学的な悪条件だ。冷戦(ソ連)時代は、どのルートも敵対する西側国(トルコ、日本、デンマーク、イギリスなど)が航路の両岸を固めていた。どれも非常に脆弱なのだ。

●中曽根「三海峡封鎖」発言はソ連の極東ルート念頭
ちなみに、日本の中曽根康弘首相が1983年1月の訪米時に「三海峡封鎖発言」をアメリカに向かってしたのは、このソ連の太平洋への出口である(C)日本海ルートを念頭に置いたものだ。

この中曽根発言への好悪や善悪の評価は置いておく。中曽根総理の発言の前提には、ソ連の安全保障戦略のキモである「極東ルート」と「それをブロックできる日本列島のポジション」という地政学的な認識がある。

それをアメリカ、中でも、冷戦真っ最中に、対ソ強硬派・レーガン大統領に向かって発言するのは「私は、貴国の対ソ連戦略にとって日本が地政学的に重要な位置を占めていることをわかっております」と伝えたことを意味する。つまり「対米交渉で日本のバーゲニング・ポジションを高めた」という点では気の利いた発言なのである。

●外洋への出口を求めるロシアの歴史
ロシアの政策の基底には「3つの海のルートを失うと、外洋への接続路を失い、大陸の中に封じ込められてしまう」という強迫観念のような思考がある。

帝政ロシア〜ソ連〜ロシア共和国を通じて、歴史上ロシアはずっと「外洋への出口を求める自律運動」のような動きを見せてきた。これはロシアの国家戦略を考えるうえで見落としてはならない要素だ。

寒冷地に国土が広がるロシアにとって、外洋への出口の重要な要素は「冬でも海面が氷結しない港」である。「不凍港」と呼ぶ。こうした「不凍港を求めて寒冷な高緯度地帯から温暖な低緯度地帯へと領土を拡張しようとする」という19世紀後半の帝政ロシアの拡張政策は「南下政策」と呼ばれた。

クリミア半島をロシア帝国に領土に編入したのは18世紀末。1853年にはここで帝政ロシア軍と英仏オスマン・トルコ連合軍が1年間で20万人が死傷する死闘を繰り広げた。主戦場は軍港セバストポリである。主戦場だったクリミア半島の名前をとって「クリミア戦争」という。


クリミア戦争を含め、ロシア帝国とオスマン・トルコは16世紀から20世紀まで12回の戦争を繰り返している。ロシアが外洋への出口を求めようとすると、クリミア半島〜黒海〜ボスポラス・ダーダネルス海峡というトルコの領土をくぐり抜けばならない。ロシアとトルコが衝突を繰り返した背景には、こうした地政学条件がある。

 Google Mapより筆者作成。

●ウクライナ戦争でトルコはロシアに味方
そんな歴史のため、トルコといえばロシアに警戒的で知られていた。現在もNATO加盟国である。

が、ソ連崩壊後、トルコとロシアの関係は劇的に改善した。ウクライナ戦争でもトルコは親ロシア的なスタンスで動いている。ロシアへの経済制裁には参加していない。第4回目の停戦協議(2022年3月28日)のホスト国にもなった。開戦後も、トルコのエルドアン大統領はプーチン大統領と頻繁に電話で対話を続ける数少ない国家元首である。

地図を見れば一目瞭然だが、トルコはウクライナともロシアとも黒海をはさんだ「お向かいさん」である。

クリミア半島を出発して黒海を出るには、トルコの領土にはさまれたボスポラス・ダーダネルスの2つの海峡を抜けなければならない。もっとも狭いところで幅800メートルしかない。幅500メートルの関門海峡(下関市・北九州市の間)と大差がない。私は現地を訪れたことがある。「海峡」というよりは「川」か「運河」のように見えた。

トルコは、戦時に脅威になるような軍艦のダーダネルス・ボスポラス海峡の通航を阻止する権利を認められている(1936年のモントルー条約)。ウクライナ戦争でも、トルコはこの権利を行使した(2022年4月28日。上記記事参照)。

これはロシア・ウクライナ軍が対象ではない。主にアメリカ海軍が黒海に展開することを阻止するのが狙いだ。黒海で米海軍がロシア海軍と交戦しなくても、AWACS(早期警戒機)を飛ばしてロシア軍の情報収集をすることができる。「米海軍を黒海に入れない」というトルコの決定で利益を得たのはロシアである。

ご覧のように、トルコとの関係が悪化すると、黒海ルートの通航に支障をきたす。ウクライナ・ロシアどちらにとってもトルコは戦略的に重要な国なのだ。

●核兵器時代の国家の生存保証は海軍
海への接続路は海軍の出発点であり、母港でもある。上記3つのルートはどれも「バルト艦隊」「黒海艦隊」「太平洋艦隊」とロシアの主力海軍の母港である。

なぜ海軍が重要なのか。第二次世界大戦後の核武装時代、海軍は核戦略の要になったからだ。

「核の三本足」(Nuclear Triad=地上発射型ミサイル・爆撃機・潜水艦発射ミサイル)の中で、核ミサイルを積んだ潜水艦(SLBM潜水艦)はもっとも「反撃能力」に優れている。海に潜ったまま常時動き回る潜水艦は、攻撃前に位置を特定し、先制で破壊することはほぼ不可能である。すると、先制攻撃しても、相手国にかならず報復能力が残る。SLBMで報復されて自分も破滅する。

敵国がロシアを核兵器で先制攻撃
→ロシア潜水艦は核ミサイルを発射して報復
→両国とも核兵器で破滅
→敵国はロシアへの核攻撃をためらう
→ロシアへの核攻撃を防げる

この仕組みを「相互確証破壊」(Mutual Assured Destruction=MAD)という。ゆえに海軍=SLBM潜水艦は核抑止を成立させるもっとも重要な要素ということになる。これはすなわち、国家生存の保証のシステムとして、海軍=SLBM潜水艦が不可欠になったことを意味する。(詳しくは拙著『世界標準の戦争と平和』参照)

●ウクライナ戦争も発端はクリミア半島の帰属
もうお気づきと思う。この国家の生存を保証する海軍の3つの基地のうちのひとつが、クリミア半島なのだ。

ウクライナ戦争でもこのロシアの戦略的目標は変わらない。下のロシア軍の展開図でもわかるように、クリミア半島はロシア軍の最大の占領目的だ。

May 11,2022, Ukraine Conflict Update, Institute of Study of War.

1991年のソ連崩壊後、半島はソ連から分離したウクライナ共和国の領土になった。しかしロシアはクリミア半島の帰属だけは譲ろうとしない。

上記「国家の生存を保証するための海軍の基地がある」という点で、クリミア半島はロシアに3つしかない戦略上の要衝だ。3分の1を失うと大きな国益の損失になる。

よく地図を見返せば、ウクライナはモスクワを中心とするロシアの心臓部から、クリミア半島を経て黒海→地中海へとつながる「海へのルート」のど真ん中に位置する。

地政学的に見ると、そのウクライナが敵対陣営(NATO)に参加し、このルートがブロックされることはロシアにとっては「国家存亡の危機」ということになる。

Google Mapより筆者作成。

●バルト海ルートが抱える不安定要因
もともとモスクワは、ロシア革命(1918年)のときに、帝政ロシアの首都サンクトペテルブルグが「フィンランドに近すぎる」(革命に干渉する外国軍が侵攻すると首都が陥落する危険性がある)という理由で首都になった。

ソ連崩壊後、バルト三国はソ連から離脱してNATOに加盟した。そのひとつ、エストニア国境はサンクトペテルブルグからわずか160キロしかない。

バルト三国の独立で、バルト海への重要ルートであるロシア領カリーニングラードは二カ国向こうの「飛び地」になってしまった。しかもポーランドとリトアニアというNATO加盟国にサンドイッチされた飛び地である。これは冷戦時代、東ドイツに囲まれた西側の飛び地・西ベルリンと同じ。東西の立場が入れ替わっただけだ。

<追記>フィンランドとスエーデンが2022年5月18日、NATO加盟を同時に申請した。ウクライナ戦争が起きた現実を見て、ロシアの脅威に対抗するため、長らくの中立政策を転換させることにしたわけだ。

これをロシアの視点で見てみる。両国の加盟が実現すれば「バルト海ルート」両岸はすべてNATO加盟国が抑える「NATOの内海」になる。こうなるとバルト海ルートの安定した航行はほぼ絶望だ。ロシアはますます黒海ルートに依存するようになり、少なくともクリミア半島、ひいてはウクライナに固執するだろう。

●クリミア半島・黒海ルートだけは死守したいロシア
バルト海ルートにはそうした不安がある。シベリアの向こうにある極東・日本海ルートはロシア心臓部から遠すぎる。

もしウクライナがNATOに加盟したら、バルト海ルートに続いて、黒海ルートも敵対陣営にブロックされてしまう(とロシアは考えている)。3つの海への出口のうち2つをブロックされる。伝統的なロシアの安全保障観からすれば「黒海ルートだけは死守したい」と思うだろう。

2022年のウクライナ戦争の前哨戦となった軍事紛争として、2014年「クリミア危機」が起きた。ここでロシアは「クリミア半島はわが領土だ」と宣言した。ウクライナはこれを認めていない。ウクライナ憲法はクリミア半島が自国領だと書いている。

もしウクライナがクリミア半島をロシアに譲るなら、国民投票で憲法を改正しなくてはならない。2022年3月29日にイスタンブール(上記のボスポラス海峡があるトルコの都市)で開かれた第4回停戦協議で、ウクライナ側がクリミア半島について「15年間の期限を定めてロシアと協議する」と提案したのにはこうした背景がある。

ウクライナとロシアの停戦交渉はその4回目を最後に途切れた。ウクライナの提案するクリミア半島の扱いにロシアが難色を示したことは想像に難くない。

●ロシアの海上貿易の3分の1は黒海経由

経済(海上貿易)でも「黒海ルート」はロシアの全貿易量の約3分の1(トン数)を占めて一番比率が大きい。

黒海ルート:30.7% =2億5820万トン
バルト海ルート:30.5% =2億5640万トン
極東ルート:25.4% =2億1350万トン

(2019年。全量8億4030万トンのうち。下記JETRO短信から筆者計算)

クリミア半島が、ロシアにとって軍事=政治に並んで、経済面でも重要な戦略的要衝であることがわかる。

ちなみに、ウクライナ戦争でロシアがクリミア半島のほかに占領しようとしている「ドネツク」「ルハンスク」というロシア国境沿いの2州(開戦直前にロシアは主権国家として承認)はロシア系住民が多い。

ここでウクライナからの分離・ロシアへの帰属を求める運動が起きた。ウクライナ政府と内戦状態になった。ロシアのウクライナ侵攻はこの「ロシア系住民を救援すること」という建前になっている。

2001年ウクライナ政府の国勢調査。Wikipedia Commonsより。


一方、このドネツク・ルハンスクは石炭や鉄鉱石の産地であり、鉄鋼や重化学工業が発達している(マリウポリ最後の戦場としてニュースになった『アゾフスタリ製鉄所』もそのひとつ)。つまり経済的な権益もある。

ロシア軍が展開しているアゾフ海北岸は、クリミア半島と「ドネツク」「ルハンスク」を接続する「廻廊」を形成しつつある。もしこの「廻廊」がないと、クリミア半島とロシア本土は「アゾフ海のケルチ海峡の橋一本でつながるだけ」という脆弱性を抱えることになる。

激戦地になったマリウポリはその「廻廊」に位置する港湾都市(アゾフ海から黒海につながる)である。つまりはクリミア半島〜ウクライナ東南部を占領した時の貿易港として、黒海ルートの出口として機能する場所だ。ロシア軍が重点的に攻撃している場所には、そうした戦略上の理由がある。

●自然国境がほとんどないロシア

話を再び地政学と歴史の「ビッグ・ピクチャー」に戻す。

ユーラシア大陸に広大な領土を持つロシアには、山脈や河川、湖水、海洋など自然物による国境(自然国境)がほとんどない。日本やイギリスのような島国にとって国境は「海」という自然物だが、大陸国家であるロシアにとって、多くの国境は陸上に引いた線にすぎない。つまり隣国とロシアの、人間の交渉と合意によって国境が決まる(『人為国境』という)。交渉が暴力的になると戦争になる。戦争で国境が決まる。

「自然国境がない」ということは「外国からの侵略者を食い止める自然の障壁がない」ことを意味する。「いつ外から敵が出現し国土に攻め込んでくるかわからない」という不安意識を生む。

事実、ロシアは絶え間なく外国からの侵略にさらされてきた。13世紀のモンゴル帝国に始まり、ポーランド王国、ナポレオン、オーストリア・ハンガリー帝国、ナチス・ドイツと、陸地経由で外国が侵入し、そのたびに国土を破壊し、人々を殺戮する歴史が繰り返された。占領後は侵略者による支配が続いた。

こうした地政学的条件と歴史は、ロシアの安全保障政策に現在も大きな影響を残している。隣国が敵対的になる・強大化することを警戒する。攻撃される前に潰そうとする。先に潰そうとして攻撃的になる。「警戒的」「神経質」「過剰反応的」といった形容が該当するかと思う。しかし本人はあくまで「自衛のため」と考える。少なくともそう主張する。

その対応パターンはおよそ2つある。帝政ロシア〜ソ連〜現在とほとんど変わっていない。

(A)国境を接する隣国が強大化する、または敵対的になると、その国に内乱・分裂・分断を起こして弱体化しようとする。

(B)敵対的な陣営と本国の間にバッファーゾーン(緩衝地帯)を作る。

(A)隣国の弱体化=内乱・分裂・分断を誘う
ウクライナ戦争はその好例である。

2004年の「オレンジ革命」後、ウクライナはNATO(北大西洋条約機構)への加盟を憲法に明記している。

もともとNATOは冷戦時代の東西対立のなか、ソ連を中心にした社会主義陣営に対抗するために1949年に生まれた軍事同盟だ。西側のリーダー国であり、核武装超大国であるアメリカが強い影響力を持っている。日米安全保障条約と同じように「反共産主義」を一致点として、アメリカが同盟国に核抑止による安全保障を提供する集団的安全保障のシステムである。

ゆえに、NATOに加盟することは「アメリカの軍事同盟に参加する」ことを意味する。加盟すると、米軍基地がそこに展開する可能性がある。ウクライナ戦争でも、ポーランドやルーマニアなどNATO加盟国に米軍が展開してウクライナへの武器などの物資を供与する拠点にしている。

ソ連の崩壊とともに、ソ連・東欧の軍事同盟「ワルシャワ条約機構。1955〜1991年)」は解散した。ところが、NATOは冷戦時代の役割を終えたにもかかわらずそのまま存続し、1990年代後半にはかつてのワルシャワ条約機構国に加盟国(ポーランドなど)を拡大した。

ロシアはNATOを「欧州におけるアメリカそのもの」と見ている。さらに、ロシアの目には「冷戦終了後も自国に敵対的な姿勢を変えない」しかも「核武装した」「軍事大国である」という最大級の「潜在的脅威」(Potential Threat)と映る。

かつ国境を接するウクライナがそこに参加すると表明している。ロシアの伝統的な安全保障観はこれを「危険な兆候」と理解する。

→こうしたロシアの視点を知る参考文献として、ロシアの元軍人で国際政治学者ドミトリー・トレーニンの「ロシア新戦略」(2012年、作品社刊)を挙げておく。東西両側にフェアである。

こうした「敵対的な隣国」が出現したとき、ロシアが取る常道パターンは「その国にロシアに友好的な勢力を育て、分裂や内乱状態を作る」である。

ウクライナ戦争では、先立つ2014年のクリミア半島危機で東南部ロシア国境付近の「ドネツク」「ルハンスク」のロシア系住民の多い二州が「ウクライナからの分離とロシアへの帰属を求めた」ために、ウクライナ政府軍との間で内戦状態になった。

(注)この内戦の結果、ウクライナ政府と同国内親ロシア派との間で交わされた停戦合意協定が「ミンスク合意」。14年9月の「ミンスク1」と15年2月の「ミンスク2」がある。停戦は実現しなかった。

ロシアは公式には「分離運動を支援していない」ことになっている。が、2014年クリミア危機では、国旗や階級章のない制服を着た軍隊が多数展開した。装備や兵器、兵員から考えてロシア軍以外にない。「国籍を隠したロシア軍の介入」と考えるのが自然だ。

●ロシア革命〜ソ連時代から常道パターン
「隣国が敵対的になると、そこにいるロシアに友好的な勢力を支援し、その救援を名目に軍事介入する」パターンは、アフガニスタン、チェチェン、グルジアなどで繰り返されてきた。ソ連時代から変わらないロシアの常道である。

ルーツをたどると、ロシア革命(1917年)→反革命派(白軍)との内戦(1918〜1922年)の当時からある。「帝政ロシアの各地に共産主義勢力を育てる→支援して赤軍(革命軍)を派遣する」という形でずっと続いている。

これはソ連時代の外交政策にも表れている。

1945年4月、ナチス・ドイツの首都ベルリンを制圧して、ヒトラーを自殺に追い込んだのはソ連軍である。そのドイツ東側を占領したまま、戦後ソ連はドイツを東西に分割した。これはランドパワーの強敵・ドイツを分断して弱体化しておくためである。

第二次世界大戦中の日中戦争から国民党・共産党内戦(1945〜49年)時代には、ソ連は国民党と共産党の両方を援助していた。意外なことに、同じマルクス・レーニン主義を信じる「同志」中国共産党だけではなく、その敵・国民党も援助していたのだ。

当時スターリンは、中国を「北側・共産党支配区域」「南側・国民党支配区域」の分断国家にすることを考えていたという(『アジアの多重戦争1911-1949 日本・中国・ロシア』 S・C・M・ペイン)。長大な国境線を持つ隣国・中国が統一され、強大化しないための「布石」である。

しかし蒋介石率いる国民党は、毛沢東の率いる共産党に内戦で敗北、中国本土を離れ台湾に移った。中国は共産党が統一し、中国の分断国家化は失敗した。

一方、翌年に始まった朝鮮戦争(1950〜53年)にはでは、ソ連は北朝鮮を支援して(指導者の金日成は第二次世界大戦中は極東ソ連軍の士官)朝鮮半島の分断国家化に成功した。

(参考文献:韓国の新聞『東亜日報』記者がソ連に亡命した金日成の同僚にインタビューした『金日成―その衝撃の実像』=講談社)

隣国が分断国家になると、二国間の争いに忙しくなり、ロシアを攻撃する余裕がなくなる。内戦状態になっても同様である。ロシアの安全保障の考えでは、それが自国の安全を守る利益になる。

(B)敵対陣営との間にバッファーゾーンを作る。
第二次世界大戦後、ソ連は自国と西側陣営の間に東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアなどに社会主義政権を誕生させた。それが現地国民の反乱によって転覆されそうになると、軍事介入して潰した(1953年:東ベルリン暴動、1956年:ハンガリー動乱、1968年:チェコ事件など)。

これら東欧の国々はソ連軍によってナチス・ドイツから解放されたエリアである(パルチザンによって祖国を解放した旧ユーゴスラビアを除く)。戦後、ソ連の意思通りに国を作ることができた。

その東欧は、敵陣営である西側(NATO)諸国からロシア(ソ連)本国を物理的に引き離す機能があった。これがバッファーゾーンの考え方である。冷戦当時のソ連の計算としてはこうなる。

*西側と東側で武力衝突が起きると、まず戦場になるのはロシア本土ではなく、東欧の国々。
*開戦してから西側地上軍がロシア本土に到達するのに時間がかかるので、防御を固める時間ができる。

朝鮮半島における北朝鮮や、ロシア・中国の間にあるモンゴルも、こうした敵対陣営・敵対国を自国から物理的に引き離すバッファーゾーンに該当する。

(注)バファーゾーンは通常戦争の範囲では今も有効である。
しかし1970年代になって米ソのミサイルの飛距離が伸び、本国や海洋中の潜水艦から発射したミサイルで敵国に核兵器を撃ち込めるようになると、重要性が低下した。

●NATOの東方拡大をロシアは自国への脅威と受け取った

1991年のソ連崩壊後、NATOはかつての東欧・中欧に加盟国を増やし続けた。旧ソ連国や、ワルシャワ条約機構加盟国も総崩れである。

  • 1999年:チェコ、ハンガリー、ポーランド

  • 2004年:エストニア・ラトビア・リトアニア(旧ソ連領バルト三国)、   ブルガリア、ルーマニア、スロバキア、スロベニア(旧ユーゴ)

  • 2009年:アルバニア、クロアチア(旧ユーゴ)

  • 2017年:モンテネグロ(同)

  • 2020年:北マケドニア(同)

なぜかくも加盟希望国が跡を絶たないのか。NATO加盟がEU加盟の「一次テスト」のようになっているからだ。EUに加盟できれば、投資や雇用、通貨など経済面で、EU域内の恩恵を受けることができる。資本主義経済への移行で経済運営に悪戦苦闘する旧社会主義国にとってはチャンスである。

2022年2月25日Yahoo!ニュースより

上記の図をよく見てほしい。ロシアの視点から見ると、かつてソ連時代の同盟国だった旧ワルシャワ条約機構国は、ほとんどNATOに「寝返って」しまったことになる(ベラルーシ、モルドバ、旧ユーゴ分裂後の2カ国を除く)。せっかくナチス・ドイツに勝って築き上げたバッファーゾーンが空っぽになった。

アメリカは、その拡大したNATO東欧国に自軍の施設を置く計画をブッシュ・ジュニア大統領が2007年に表明した。当時の言い分は「イランの脅威に備えるため」だった。

  • チェコ:弾道ミサイル早期警戒レーダーサイト

  • ポーランド:10基の弾道ミサイル基地

  • ルーマニア:米軍基地

アメリカとソ連は、1972年に弾道弾迎撃ミサイルを制限する「ABM条約」を結んでいる。迎撃システムが完成してしまうと、前述の相互確証破壊による核抑止が崩れるからだ。この条約はソ連崩壊後はロシアに引き継がれたのに、アメリカはそれをわざわざ失効させた(2002年)うえで、前述の東欧への米軍配備を進めた。ロシアはこれを「アメリカの変節」と受け取った。

ロシアの視点からすると、これは「バッファーゾーン」がなくなって自国領土が「丸裸」になってしまった上に、さらに敵対勢力の勢力範囲になってしまった、ということだ。あまつさえ最強のライバルであるアメリカ軍の施設が来る。

ロシア(特にプーチン大統領)はこれを「ソ連崩壊時にNATOを東に拡大しないと約束したはずなのに、約束違反だ」と考えている。しかも、その東方拡大はロシアがソ連解体後の政治・経済混乱で手一杯の1990年代に進んだから、ロシアにすれば「こちらが困っているのにつけこんだ」と憤懣を持つ。

ロシアの視点から見ると、NATOは1999年から23年かけてじりじりと東に拡大し、かつてのバッファーゾーン諸国を侵食して、とうとう陸続きの隣国ウクライナ(しかも旧ソ連第二の大国だった)にまで王手をかけた、ということになる。ウクライナ国境からモスクワまでは400キロ余りしか離れていない。この至近距離まで米軍が展開する可能性がある領土になることは、ロシアにすれば「自国の自衛にとって許容できない事態」となる。

ウクライナ戦争での停戦の条件として、プーチン大統領がしつこくウクライナの「中立化」「非武装化」を要求しているのは、こうしたウクライナ戦争に至るまでの第二次世界大戦後史を踏まえている。つまり「ウクライナがNATOに入って米軍が来るのは困ります」と言い続けている。

●なぜロシアはNATOを敵視するようになったのか

とはいえ、ロシアはソ連崩壊後ずっとNATOを敵視していたわけではない。むしろロシア共和国初代大統領のエリツィンはNATO加盟の希望を表明すらしている。しかしそれは「片思い」に終わった。西側が冷たくあしらったのである。

前述のロシアの国際政治学者ドミートリー・トレーニンの著作「ロシア新戦略」から引用しよう。

エリツィンは、1991年12月にNATOに宛てた最初の書簡の中で、ロシアが近い将来、NATOに加盟することを検討していると書いた。だが、クレムリンにとっては驚くべきことに、ブリュッセル(NATO本部)からの返事はなかなか来なかった。その代わり、ロシア、他のすべての旧ソ連構成諸国、sれにワルシャワ条約機構の加盟諸国は、北大西洋協力理事会(NACC)に参加するよう招待を受けた。モスクワの失望は明らかだった。

(中略)

1992年春、ブッシュ大統領はワシントンにおいて、米露同盟に関するエリツィンの誘いをにべもなく拒絶した。世界中が平和であふれかえろうとしている今、不適当だというのである。NATO加盟へのロシアの希望は瞬く間に雲散霧消した。

「ロシア新戦略」(作品社)183ページより。

こうしたNATO(西欧とアメリカ)へのロシアの不信感は、政府だけでなく国民にも共有されている、とトレーニンは指摘している。

1993年12月の(ロシア)下院選挙は、共産党と民族派が心理的な復讐を遂げたごとき様相を呈したため、民主派は大きなショックを受けた。民主派はこうした中で、西側の動きをロシアの民主主義に対する不信の表明と受け取った。

(中略)こうして民主派は、ロシア抜きでNATO拡大を進めればロシア国内でNATOに対する敵対的なイメージが再燃することは避けられないという警告を発し始めた。彼らは、旧東側陣営からNATOに加盟する最初の国でなければならないと信じていた。ドイツ再統合の交渉に参加した人々は、アメリカ側の代表団は1989年の時点以上にNATOの担当範囲を拡大しないと約束した、交渉記録を読めば明らかだ、と主張した。したがって、NATOが今やっていることは約束違反だというのだ。

この結論は、モスクワにおけるNATOの評判を大いに落とした。NATOは、冷戦終結とソ連崩壊の後も消えてなくなろうとはせず、軍事同盟として存続し続けたばかりか、ロシアと国境を接する国々を新規加盟国として取り込み始めた。NATOの担当範囲内では、ロシアは仮想敵に他ならなかった。西側にしてみれば、ソ連は冷戦に破れた側なのであり、ソ連の後継国の筆頭であるロシアはその結果に甘んじるべきだと考えているーー今やロシア人はこう考えるようになっていた。

トレーニン前掲書184〜185ページ。

ウクライナ戦争をロシアが始めても、ロシア国民の多数派は表立って反対をしていないように見える。むしろプーチン大統領を支持している。それはプーチンがロシア国内のメディアを規制しているから、だけではない(それもあるだろうが、すべてではない)。「1990年代からロシア国民の心理に澱のように溜まったNATO・西側諸国への不信感」という地盤が先にあるのだ。

もちろんそこには「ロシアはかつての東側諸国のリーダーだったのに、西側は他のワルシャワ条約機構国と同列に扱った」という心理的な反発(プライドを傷つけられた、メンツを潰された、など)もある。これは大衆という集合的心理なので「ソ連時代から頭が切り替わっていない」と非難しても栓のないことに思える。

●コソボ紛争での空爆でNATOが軍事的脅威に
ロシアがNATOを「軍事的脅威」として考えるようになったのは、旧ユーゴスラビア解体の紛争で、コソボ独立に反対する新ユーゴスラビア全土をNATOが空爆したことがきっかけだった(1999年)。NATOの主権国家への武力行使はこれが初めてだった。しかも国連安全保障理事会の決議も待たなかった。

クロアチアおよびボスニアヘルツェゴビナにおける初期のバルカン紛争はロシアにはごく穏やかな影響しかもたらさなかったが、1999年5月から6月にかけてNATO軍が武力行使を使ったことは、大部分のロシア人にショックを与えた。これまでは共産主義ソ連に対する防衛機構という歴史的役割に甘んじていたNATOが、突如として「攻撃的な」同盟に豹変したのである。

トレーニン前掲書187ページ。

●「NATOを東方拡大はしない」という西側の確約はあったのか?

トレーニンが指摘する「NATOを東方拡大しないという西側の約束」は本当にあったのだろうか。

この交渉の当事者だった当時のミハエル・ゴルバチョフソ連書記長の回顧録「変わりゆく世界の中で」(朝日新聞出版)158ページにこのくだりが出てくる。

1990年2月9日、アメリカのジェームズ・ベーカー国務長官(1989〜92年ブッシュ父大統領政権で国務長官)がモスクワを訪問した時のことだ。

主な議題は当時急ピッチで進んでいた東西ドイツの統一と、そのNATO加盟だった。近接するランドパワー同士として、ソ連・ロシアはドイツへの警戒心が強い。

私たちが(第二次世界大戦)戦勝4カ国の権利を有効に行使しなければ、歴史に禍根を残すと思っています。統一の問題は、ドイツとドイツ国民が決めることになるでしょう。しかし彼らは、他国の意見も知っておく必要があります。

(中略)私たちの本能や戦争の記憶のせいでしょうか。二度もドイツと戦わねばならなかったせいでしょうか。私たちがドイツ統一の問題にきわめて神経質になるのは、おそらくそういったことが理由でしょうね。私たちは戦争の悲劇をいやというほど味わいました。過去の教訓を忘れることはできません。

(1990年2月モスクワ。アメリカの国務長官だったジェームズ・ベーカーとドイツ統一問題を話しあう会談でのエドゥアルド・シェワルナゼ・ソ連外相の発言)。

ベーカー国務長官の回顧録
「シャトル外交激動の4年間」より

「統一ドイツが強国化し、脅威になるのではないか」という懸念を解決するための話し合いだった。ゴルバチョフは統一ドイツがNATOに加盟することに反対していた。その協議でベーカーはゴルバチョフにこう言っている。

ベーカー「もし米国がNATOの枠組みでドイツでのプレゼンスを維持するなら、NATOの管轄権もしくは軍事的プレゼンスは1インチたりとも東方に拡大しない、との保証を得ることは、ソ連にとってだけでなく他のヨーロッパ諸国にとっても重要なことだと、我々は理解しています」

同「<2+4>(東西ドイツにフランス、イギリス、ソ連、米国を加えた協議)のメカニズムの枠組みで調整や協議を行うことは、ドイツ統一が軍事機構NATOの東方拡大につながらないという保証を与えるはずだ、と我々は考えています」

ゴルバチョフの回顧録「変わりゆく世界の中で」より

ゴルバチョフ氏は「NATOの東方拡大はしない」という保証はドイツ統一での東ドイツに関してのみ与えられた、と書いている。そして、その保証は1990年9月12日の「ドイツ最終規定条約」で明文化されたと記す。

(注)ベーカー国務長官の回顧録「シャトル外交激動の4年間」にこの下りは出てこない。

また朝日新聞とのインタビューではこう話している。ゴルバチョフ氏らしい遠回しな表現ながら「その後の西側の態度」を批判している。

「NATO軍とロシア軍はごく最近までお互い離れたところにいたが、今は顔をつきあわせている。かつて我々は、ワルシャワ条約機構を解散した。当時ロンドンでNATO理事会の会合が開かれ、軍事同盟ではなく、政治が軸となる同盟が必要だという結論に至った。これは早々と忘れられた。NATOがこの問題に立ち返るのを私は望んでいる」 

ゴルバチョフ氏は危機の原因を、2013年の欧州連合(EU)とウクライナの連合協定をめぐる署名問題だったとする。

「この問題がロシアとウクライナの関係にどう影響するかを顧みることなく検討された事実に、私は最初から胸騒ぎがした」。

ロシア・ウクライナ・EUの〈トライアングル〉を築くため、交渉と調整のメカニズムを模索する必要があったが、EU側がロシアとの協力を一切拒否した、とゴルバチョフ氏はみた。

「ウクライナのヤヌコビッチ大統領(当時)は自身の政治的利益を優先し、結局はEUとの協定書に署名しない決定をした。これはウクライナの多くの人に理解されず、デモと抗議が始まった。最初は平和的だったものの、次第に急進派や過激派、扇動集団が主導権を握るようになった」
(烏賀陽注:2004年のオレンジ革命に始まる政変を指す。ウクライナ国内で新欧米派と親露派の対立が激化し、ヤヌコビッチ大統領は2014年2月にロシアに亡命、翌月のロシアの軍事介入=クリミア危機の引き金を引いた)

ゴルバチョフ氏が強調しているのは、国際関係における信頼の概念だ。それは「双方がお互いを尊重し、お互いの利益を考慮するときに現れてくる」と述べる。そして西側が冷戦で「勝利」を表明し、信頼は損なわれたとゴルバチョフ氏は指摘した。

「西側はソ連崩壊後のロシアの弱体化を利用した。国際関係での平等の原則は忘れ去られ、我々はみな、今のような状況に置かれていることに気づいた」

2022年3月5日付朝日新聞
<91歳ゴルバチョフ氏「早急な平和交渉を」ウクライナ危機への視座>より

烏賀陽が一部順番を改めた。

結論をまとめると「NATOの東方不拡大の保証は東西ドイツ統一をめぐる協議過程で出たものであり、その限りのものだった」とゴルバチョフ氏は言っている。

しかし、その後西側が「冷戦の勝利者」として振る舞うようになり(反対にいえばロシアを『敗者』として扱ったということ)「冷戦終結当時の東西指導者が築いた信頼関係を破壊した」「ロシアの弱体化を利用した」と批判している。

これはアメリカ側の記録でも裏付けられる。1990年の段階ですでに、ブッシュ父大統領は「西側が勝ち、ソ連が負けた」と発言している。

ソ連は、ドイツがNATOに残るべきではないと主張しています。とんでもないことです。私たちが勝ち、彼らは負けたんです。負けたソ連に、勝ちを横取りさせるわけにはいきません。

(ジョージ・ブッシュ父大統領の発言。1990年2月25日ワシントンで、ヘルムート・コール西ドイツ首相との会談)

前掲ベーカー回顧録より。

●プーチンもゴルバチョフもウクライナ中立化は一致
ゴルバチョフ氏の母親はウクライナ人、妻ライサさんもウクライナ人だった。そのゴルバチョフ氏も、ウクライナがオーストリアのような永世中立国になるのが理想的だと述べている。

「ウクライナ国民のためになるのは、民主的なウクライナであり、ブロックに属さないウクライナであると私は確信している。そうした地位は国際的な保障とともに憲法で裏付けられなければならない。私が想定しているのは、1955年に署名されたオーストリア国家条約のようなタイプのものだ」

前掲朝日新聞記事より。

オーストリアは、第二次世界大戦前夜の1938年にナチス・ドイツに併合されたが、1945年4月にソ連軍の軍事侵攻によって解放された。大戦終結後、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連=戦勝国(連合国)の協議の結果、オーストリアは1955年に占領を脱して永世中立国になった。他のソ連軍占領(東欧)国は戦後ワルシャワ条約機構に加盟してソ連の影響下に入ったが、オーストリアは中立化によって免れた。中立化はソ連にも、オーストリアは西側陣営に入らないという安心材料を与えた。

「ウクライナをオーストリアのように『中立化』(NATOにもロシアブロックにも属さない)することがロシアとウクライナ両国の国益になる」というゴルバチョフ氏の見解は、実はプーチン大統領と同じだ。

ウクライナに関しては、プーチンもゴルバチョフも見解が一致するとは、日本の大衆は意外に思うかもしれない。

しかし、これは本稿で説明してきたロシアの伝統的な安全保障観(A:隣国の敵対化・強大化を嫌う B:バッファーゾーンを設定したがる)からすれば、そうなるのが自然なのだ。

ゴルバチョフ時代もプーチン時代も、ロシアの地政学的な安全保障環境はほとんど変わっていない。ロシアの視点からすれば悪化している。その解決策として「軍事侵攻という暴力的な交渉方法を採用するのか」「話し合いという平和的な交渉を採用するのか」が、リーダーの資質によって違うにすぎない。

●ウクライナ戦争はロシアの地球規模の摩擦のひとつ
ここまで述べた事実を基に推論すれば、ロシアがウクライナに侵攻したのは、地政学的な安全保障上の動機(ロシアの言葉では『自衛』)によると考えるのが自然だろう。「ロシア人vsウクライナ人の民族対立」とか、その反対の極にあるプーチンが唱える「ロシア・ウクライナ民族一体説」(どちらも民族的動機)あるいは「民主主義国vs全体主義国」などという二項的な観察は、表層的または副次的、あるいは「政治宣伝のスローガン」「建前」にすぎないと私は考える。

それよりは「ロシアが歴史上無数に繰り広げてきた敵対勢力(この場合はNATO)との地球規模での地政学的な摩擦のひとつ」と考えるほうが、ウクライナ戦争の本質は理解しやすい。反対にいうと、そうした地政学的なクリミア半島・黒海のロシアにとっての重要性から考えると、ロシアがウクライナを諦めることはないだろうと私は推論する。

●ウクライナ侵攻はブレジネフ・ドクトリンの再来
ひとつ困るのは、ウクライナは今や独立した主権国家なのに、同国が自国の国益に沿う行動を取らないからといって「軍事侵攻する」というプーチン大統領の手法が、ソ連時代の古臭い発想(1968年の『ブレジネフ・ドクトリン』)そのままだという点だ。

ウクライナ戦争は、モスクワの意に沿わない東欧・ソ連内の動きを軍事で踏み潰したハンガリー動乱やチェコ事件、チェチェン戦争、グルジア戦争と酷似している。

東欧への介入の正当化として、1968年に当時のレオニード・ブレジネフ・ソ連書記長は「制限主権論」(社会主義体制を守るためには衛星国の主権は制限される=軍事介入してよい)を唱えた。このブレジネフ・クトリンは、1985年にゴルバチョフ書記長が正式に放棄を表明した。

しかし、ウクライナ侵攻でのプーチン大統領の態度は、まるでウクライナを独立した主権国家と見なしていないように見える。私はこれをロシアの「ブレジネフ・ドクトリン以前への保守反動」「祖先返り」と見ている。時代錯誤(アナクロニズム)だとすら言える。

こうした「ロシアが旧ソ連圏国をどう見ているか」については稿を改めて詳しく解説する。

<余談> 第二次世界大戦末期の1945年2月、ルーズベルト(アメリカ)チャーチル(イギリス)スターリン(ソ連)の連合国首脳が集まって「戦勝後」の国際秩序を話し合ったヤルタ会談は、このクリミア半島の保養地ヤルタで開かれた。国際連合の構想や、ソ連の対日参戦が話し合われた歴史的に重要な首脳会談だ。

第二次世界大戦でセバストポリは、1941年9月から1942年7月にわたる戦闘でドイツ軍(枢軸軍)が占領。1943年10月から1944年5月にソ連軍が反撃し奪回した。サンクトペテルブルグ(旧レニングラード)やボルゴグラード(旧スターリングラード)と並んで「第二次世界大戦での侵略に英雄的に抵抗した」として「英雄都市」(旧ソ連内に12都市・1要塞)の称号を与えられた。

ソ連・ロシア指導者にとってクリミア半島・黒海エリアは、軍事的な勝利の歴史に満ちた「名蹟」なのである。くわえて、寒冷なロシアにとって、黒海に面するクリミア半島は地中海に似た温暖な保養地でもある。2014年の冬季五輪が開かれたソチも黒海東岸の保養地だ。

1991年8月にソ連で保守派が起こした「8月クーデター」のとき、ゴルバチョフ大統領(当時)はクリミア半島フォロスにある自分の別荘にいた。セバストポリにほど近い半島南端の町である。ゴルバチョフは3日間この別荘にクーデター派に幽閉された。


(2022年5月15日、東京にて記す)


<注1>今回も戦争という緊急事態であることと、公共性が高い内容なので、無料で公開することにした。しかし、私はフリー記者であり、サラリーマンではない。記事をお金に変えて生活費と取材経費を賄っている。記事を無料で公開することはそうした「収入」をリスクにさらしての冒険である。もし読了後お金を払う価値があると思われたら、noteのサポート機能または

SMBC信託銀行
銀座支店
普通
6200575
ウガヤヒロミチ

までカンパしてほしい。

<注2>今回もこれまでと同様に「だからといって、ロシアのウクライナへの軍事侵攻を正当化する理由にはまったくならないが」という前提で書いた。こんなことは特記するのもバカバカしいほど当たり前のことなのだが、現実にそういうバカな誤解がTwitter上に出てきたので、封じるために断っておく。

私は読者のみなさんの購入と寄付でフクシマ取材の旅費など経費をまかないます。サポートしてくだると取材にさらに出かけることができます。どうぞサポートしてください。