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フクシマからの報告 2021年冬      10年前見た行方不明の家族を探すチラシそのお父さんにようやく会えた             自宅跡は核のゴミ捨て場に       それでもなお娘の体を捜し続ける

2021年3月で福島第一原発事故の取材を始めて10年が経つ。その10年の間、ずっと気がかりでありながら、取材をする勇気が出なかったことがある。

震災直後の2011年の春、私は福島県南相馬市に入った。同市は原発から約25㌔のところにある「浜通り」(太平洋沿岸)地方の基幹市だ。

原発から20㌔圏が国の命令で「警戒区域」として立ち入り禁止にされ、30㌔圏は屋内退避になったころの話だ。私は、まさにその20㌔・30㌔ラインで分断される前後の福島県南相馬市を取材していた。その市役所に立ち寄ったときのことだ。

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 海岸部は津波で破壊されていた。原発の危機がどの程度危険なのか、さらに避難が必要なのか、ニュースを見てもさっぱりわからなかったころである。市役所ホールは情報を求める市民でごった返していた。

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断水した家庭のための給水場もあった。どうやって手に入れたのか、腰に線量計をつけている人も多かった。

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市役所を含め、大勢の市民が避難できずにいる一方、現地にいた新聞社やテレビ記者たちはさっさと30㌔ラインの外側に撤退してしまっていた。市役所の職員と雑談すると「マスコミ不信になりました」と率直な意見が出た。

そんな市役所ホールの片隅に、家族や友人に安否を知らせる連絡掲示板があった。

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その一枚の張り紙を見た瞬間、私は身動きができなくなった。

「捜しています!! 大熊町で災害・家族3人が行方不明です」
「少しの情報でもいいので見かけた方は教えてください!!」

それは手書きのチラシだった。赤や黄の色ペンを使い分け、少しでも見る人の注意を引きたいという必死の思いが伝わってきた。

カラーコピーで印刷したのだろう。家族が貼って回ったに違いない。下に「父・木村紀夫」と「おば」の携帯電話の番号が記してあった。

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右上に、和室のこたつに座る年配の男性の写真。「祖父・王太朗(わたろう)」さん、77歳とあった。右下に、頬杖をついて微笑む美しい女性。「母・深雪(みゆき)」さん、37歳とあった。

中でも、左側で微笑む少女の写真2枚が私の目を捉えて離さなかった。7歳。名前は「汐凪(ゆうな)」ちゃんとあった。

名前を見るだけでわかった。汐(しお)と凪(なぎ)。きっと、この木村さん一家は、海のそばに家があったのだ。毎日海を見ながら、この少女は育ったのだ。

私はそれまでに、津波が襲った南相馬市の海岸部を取材していた。海岸線から幅3㌔にわたって、津波が徹底的に破壊していた。家やクルマのがれきが散らばる、無人の泥の平野になっていた。

大熊町は、南相馬市から南に約30㌔の位置にある。おそらく海岸部は同じような惨状であることは容易に想像ができた。

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写真の汐凪ちゃんは、手にオレンジ色のヒトデを捕まえて、得意そうな顔をしている。きっと親御さんが撮った、幸せな家族の思い出なのだ。

チラシを見ているだけで、この木村さん一家が愛に満ちた家族であることが伝わってきた。そして、その家族を襲った悲劇に、胸がつぶれる思いがした。

一家が住んでいたのが「大熊町」と見て、私はため息をついた。

同町は福島第一原発のある町だ。海岸部なら、その家は原発から数キロしか離れていないはずだ。3月12日朝には、強制的な住民の避難が始まっていた。木村さん一家も大熊町から避難を強いられただろう。それまでに、汐凪ちゃんや王太朗さん、深雪さんは見つかったのだろうか。無事だったのだろうか。胸をかきむしられるような気持ちになった。

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私が南相馬市に入った時は、2011年3月11日からすでに数週間が過ぎていた。大混乱の南相馬市や、同じ年の4月下旬に強制避難が始まった西隣の飯舘村の取材に忙殺され、木村さんに連絡を取る時間を見つけられなかった。

その後10年間、私は100回近くフクシマの被災地に足を運んだ。その間、このチラシの木村さん一家のことは頭の隅から離れないままだった。しかし家族に連絡をしようと決心ができないままだった。

大熊町は2019年まで町全体が立ち入り禁止だった。近づくことすらできない。町民は避難で散り散りになっていた。そもそも家族がどこにいるのかわからない。そんなことを考えた。

しかし、今振り返ると、私は勇気がなかったのだと思う。行方不明になった三人の運命を知るのが怖かった。もし最悪の結果だったら、どうすればいいのだ。その家族の苦しみや悲しみを「話を聞かせてください」などと頼んでいいのか。それはものすごく無神経で、罪深い行為に思えた。

私は無意識にためらっていた。記者という職業を25年以上やっていても、これほど大きな悲劇を前にすると足がすくむのだ。

私が意を決したのは、2021月1月15日に、大熊町と双葉町にまたがる巨大な「中間貯蔵施設」の中を取材した時だ。

中間貯蔵施設とは、よくいえば除染で出た汚染土の埋立地、悪くいえば核のゴミ捨て場である。海岸から3㌔ほどの帯状の区域だ。総面積は約16平方キロある。東京都渋谷区(約15平方キロ)より広い(施設の内部の報告は次回詳述する)。

中をマイクロバスで案内してもらって、仰天した。津波で破壊された無人の場所とばかり思っていたら、小学校や団地、児童館や民家がそのまま残っていたのだ。人々が暮らした街がそのまま「核のゴミ捨て場」に呑み込まれていた。

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(2021年1月、福島県大熊町にある『中間貯蔵工事情報センター』展示の空撮映像より)

あまりにむごい光景に、見学のあとその足で大熊町役場に行った。震災の前、中間貯蔵施設の敷地内にどれぐらいの人が住んでいたのか、取材しようと思ったのだ(答えは約3900人)。

避難解除と同時に、2019年にオープンした豪奢な庁舎に行った。

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 職員がパソコンで人口統計を調べてくれている間、カウンターの片隅にあるモノクロの冊子が目に入った。

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(上記3点は2021年1月、福島県大熊町役場で)

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「大熊町震災記録誌」。パラパラとめくるうちに「証言 大熊町の記憶」という被災した町民たちのインタビュー欄で手が止まった。

「木村紀夫」の名前があった。記事を読んだ。家族の名前が一致した。間違いない。10年前、家族を探すチラシを南相馬市役所に貼ったお父さんである。

私は何か運命的なものを感じた。「いい加減に勇気を出して取材しろ」と誰かが言っているような気がした。

宿に帰ると、パソコンから10年前のチラシの写真をグーグルアルバムで検索した。そこに書いてあった番号に電話をかけてみた。

 男性が出た。

「恐れ入ります。木村紀夫さんでしょうか」
「そうです」
「10年前に南相馬市役所でチラシを拝見しました」
「ああ、それは私のです」

電話番号は10年前から変わっていなかった。

そして私は、この10年に木村さんに新たな悲劇が起きたことを知った。

(冒頭の写真は10年前に南相馬市役所ロビーに掲示してあった木村さんのチラシ。ここまでの写真は特記のない限り2011年4月、福島県南相馬市で撮影。本文中のインタビュー部分は、話が脱線したり前後した部分を整理した以外は、できる限り木村さんとの一問一答をそのまま再現した)


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