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Be the nice kid. に感じた違和感

大変ご無沙汰しています。オーストラリア在住7年目、保育士で新米ママのぴぃともうします。

最近子育てしつつもTwitterや配信にハマってしまい汗

なかなかnoteまで手の届かない日々を送っておりました。

さて本日のお話はサクッとコラム。
Twitterでeducationの括りで私のアカウントに

awesome


の一言と共に流れてきたこんな写真に感じた大きな違和感です。

その写真がこちら。

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僭越ながら翻訳させて頂くと

"あなたより頭の良い子がほかにいるかもしれない

あなたより素敵な服を持っている子がいるかもしれない
あなたより運動が得意な子がいるかもしれない
でも、あなたにはあなたのいいところがある

仲良くなれる子になろう
親切な子になろう
他の人の為に喜べる子になろう
正しいことをする子になろう
いい子になろう"

ツイートをされた方は記憶によるとアメリカの方だったと記憶しています。

返信コメントにも素晴らしい教え方だね。と言う旨の返信が多く、ツイートをされた方も返信されている方々も多くは教職に付かれている方のようでした。

ツイートをされた方が務められている学校の壁の写真を載せたのか、インターネットからの画像だったのかは不明です。

皆さん、この言葉を読んでどう思われましたか?

私が瞬間に思ってしまったことは…

すみません、言葉を選ばずに言うと

気持ち悪っ

です。

そう思ってしまったがために他の方がどう思われているのかが気になってしまいコメントを覗きに行ったというわけです。

何度も読んでみれば、みんなそれぞれいい所があるんだから、なんがしかのいい所を持ってればそれでいいんだよ!

という意味で書かれたものだと気づくことが出来ました。

でも私が

気持ち悪っ

と思ってしまったこの文章への第一印象は

これって、他の子と比べないようにって言ってるわりに、結局教師や大人が描くいわゆる”子どもの正解像”を並べられてるだけな気が…しかも締めくくりがいい子になろう?

その一択なの?


という感想を抱いてしまい、更にその文章が絶賛されている世界観に大きな違和感を感じてしまったからなのです。

以前ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎さんがの周囲に合わせる能力が無いから日本に帰りたくない。という発言が話題になったのを覚えている方はいるでしょうか?

アメリカではありませんが同じく移民の国であり、みんな違うのが当たり前のオーストラリアに住む私もその意見に痛く同感したのを覚えています。

だからこそ英語で書かれて真鍋さんの住むアメリカに住む教育者の手で全世界に発信され、様々な国の先生達に共感を得ていたたこの文章に、子どもはこうあるべき。という同調圧力に感じてしまったのかもしれません。

私にとって教育とは、一定のよい。を伝え押し付けることではありません。

お友達と仲良く出来ればいい子?

先生の話をよく聞ければいい子?

言われたことをその通りに出来るのがいい子?

もちろんいい子です。

ということはそれが出来なかったり、したくなかったら悪い子で、その子たちはいわゆるいい子達の出来ることを目指すのが教育でしょうか?

私はそうであってはならないと思います。

お友達は多くなくても、集団行動はちょっと苦手でも自分信じて好きなことを突き詰められる子は素敵です。もしかしたら真鍋さんはその中の1人かもしれません。

先生のお話を聞けない子は、もしかしたら聞きたくない理由や先生とは違う意見があるのかもしれません。それは先生としては聞くべきだと思います。自分の意見を持ち、それを言葉に出来るのは素敵な事。それがまだ出来ないならそれが出来るよう手助けするのが教育だと思います。
もちろん、聞いた上でやはり違うと思えば先生にも意見があるのでちゃんとさらなる反論をしますけどね笑

私がこう考えるのには実はわけがあります。

こんなことを言う私、実は子どもの頃は、いわゆる“いい子”になろうと必死な子でした。授業中には積極的に意見を言ったり、作文にも先生が好みそうなことを書いたり、それで何度か賞も受賞しました。各種実行委員も進んでやっていたのを覚えています。今考えるとそれはみんなと同じ事が出来ない自分への自信のなさの裏返しだったように思うのです。

“なんでみんな出来るのにあなただけ出来ないの?”

これはADHD傾向のある私が子どもの頃から本当によく私に投げかけられた言葉です。今考えたらなんと刺激のある残酷な言葉でしょう。なにせ私だけが出来ていない、そしてそれは私が悪いからであり、それはなぜなんだとその答えをいちばん知りたい私に問いかけられているのです。未だに心に杭を打たれたようなトラウマの残る言葉です。
自分を周りと比べ、いいところが分からず、だからこそ認めてもらいたい、そして何よりこの言葉を言われたくないと大人が分かりやすく提示していてくれた“いい子像”を当時の私は必死でおいかけていたように思います。

結果的に私は常に周りの目を気にし、気にするどころか常に悪く評価されているのではないかと恐怖すら感じてしまう大人になってしまいました。

程度はどうあれこんな経験を持つ人、私だけでは無いのでは無いでしょうか?

もしあの時、

あなたは、こんないい所があるんだよ。
あなたのままで素敵なんだよ。
だからその、あなただけの素敵を
一緒に伸ばしていこうね!

なんて言って私の“いい子”じゃない部分を認めてくれる大人が周りに1人でもいたら少し違ったのかな、なんてふうにも思います。

私はそれが教育だと思うし、そんな教育者でありたいな。と思っています。

                                                文責:ぴぃ


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