ハリネズミの感動短編について。社会的幸福と内面的幸福
この記事を読んで感じたことを書きます。
だいすけさんは私と同じゲイ(同じにされたくないでしょうがw)で、感性的にも共感できる部分が多いので、記事は毎回読んでいます。
お会いしたことはないですが、きっと繊細で可愛い子だろうな。
問題の動画と、不快感について
まず、上記記事が触れている動画について。
内容は、ザッとこんな感じ。
一見、心温まる動画ですが、だいすけさんは「ちょっと嫌な気持ちになった」と語っています。
というのも、背中の鋭い針はハリネズミとしての個性であって、その個性をなかったことにすることで周りに受け入れてもらうということが引っかかっているようです。実際に「ゲイ」というマイノリティ属性を持っているからこその視点でもあるんでしょうかね。属性を打ち消すような解決方法に不快感を持った、というのは私も理解できます。
「あいつはゲイで、男の俺たちにいつ欲情するかわからず気持ち悪いので仲間にはできない。だから、みんなでゲイの矯正治療費をカンパして、彼をノンケに修正した。もうこれから俺たち仲間だよな」という解釈だってできてしまうような気がします。
どう考えたか
優しい世界という一面、没個性という一面
これが幸福な物語なのか不幸な物語なのかはコインの裏表なんだと思います。
ある面では個性を潰してみんなと揃えるディストピアだし、ある面では除け者がみんなに受け入れられる理想の社会です。
私はゆとり世代ですが、ゆとり教育の特色といえば、「平等性を重視した教育」です。できない子に足並みを揃えて、成績順位等の格差を生み出すものは教育現場から排除されていきました。それも、ある面ではみんなが同じ景色を見れるような優しい世界ではあるものの、ある面では飛び抜けた実力者の活躍の場を奪ってしまう世界でもありました。「徒競走は、みんなで手をつないで一緒にゴール」みたいなこともあったようですが、足の速さでは誰にも負けないという人からすれば悪夢ですね。私は足がクラス1遅かったので、実際そんなことがあったら大助かりですが。
ハリネズミは微かに笑っている
この物語の中で考えるとどうなのでしょうか。
ハリネズミは、最後みんなに抱きしめられて笑っています。
この動画制作の意図的にも、逆張りの社会風刺的視点で見るよりは、純粋にハッピーエンドとして解釈するのが基本的には正解だとは思います。
針という個性を覆い隠す形にはなったけれど、社会的な幸福をハリネズミは手に入れました。
ただ、他の動物キャラクターと比較すると、最後に浮かべる笑みが小さいことがわかります。
最後のシーン。他の動物は目は浅く閉じ、口角は明らかに笑っています。しかし、ハリネズミは、目の閉じ方は深め、口角は分かりづらい感じになっています。
ハリネズミが本当に幸せでたまらない場合、もっと分かりやすい幸せそうな笑顔にするんじゃないでしょうか。動物たちの中で一番笑っているのがハリネズミ、みたいな画でも良いはず。
なのにそうではない。確かに幸せではあるけど、なにか複雑なものがある、みたいな含みはありそうなEDでした。
社会的な幸福を取るか、内面的な幸福を取るか
この動画では、結局のところ、ハリネズミは仲間たちに受け入れられて社会的な幸せを手に入れたのだと思います。
ただ、家に帰ったらいろいろ邪魔だし緩衝材は外すでしょうね。体を洗ったりするのも大変でしょう。でも、学校に行く時には緩衝材をまた一から付け直さなきゃいけない。ボロボロになってきたらメンテしなくちゃいけない。緩衝材があるから、みんなに仲間として受け入れられるんだから。
内面的には、自分のトゲを否定して、毎日毎日緩衝材を身に纏って生きていかなければならないのは不幸です。
しかし、慣れてしまえばそれが当たり前になっていくもんです。我々だって、コロナ禍でマスクのストックがないと不安になる体質になったし、夏の炎天下でもマスクをつけなければいけない状況にある程度慣れて、それが当然になっています。まだまだマスクをいきなり外せば社会的には損をする世の中です。ちょこっと不幸になって、社会的な幸福状態を保とうとしています。
そのうち、ハリネズミも、その「ちょこっと不幸」な状態に慣れて、みんなに受け入れられるために緩衝材をつけるのが日常になっていくでしょう。
内面的な視点での究極のハッピーエンド 映画「ジョーカー」
内面的な視点での究極のハッピーエンドは、映画「ジョーカー」ではないでしょうか。
周りからは仲間はずれにされ、損をする立場に追い詰められた主人公:アーサーがたどり着いたのは、世間から恐れられて嫌われる悪役:ジョーカーとして幸せになるという結末。
「人を笑わせたい」という思いで、ピエロとして働いたりコメディアンの舞台に立ったり、頑張ってはみたものの全部がうまく行かず、意図しない状況で笑ってしまう障害を抱えたアーサーは、結局は悪の代表格として吹っ切れた上で、自分の好きなときに笑うことができるようになります。
観たあとはなんとも言えない暗い気持ちになる作品ですが、純粋に本人の内面的な部分に目を向けると、カタルシスを感じるこの上ないハッピーエンドです。
個人の結論:社会の中で、普通の幸せがほしいならば受け入れるしかない
なんとも言えない結論にはなりますが、主人公のハリネズミが抱えていた問題である、「みんなから受け入れられない」が解決されたこの動画は、ハッピーエンドだと考えています。その後は、自身に降りかかる不便さや自身の特徴の否定という内面的な不幸がついて回るでしょう。でも、「自分を受け入れてほしい」という問題が解決した今、あとはそれを守るのが最優先事項です。
社会的幸福を確保した上で内面的幸福も少しずつ追求するのが一番いいのではないでしょうか。少し惨めで、少し幸せなくらいが丁度いい。
我々、社会の中で生きているわけですから、その中で「非常識」「迷惑」な存在になるのは死活問題です。
最近話題の「スシローペロペロ動画」だって、寿司に毒物を混入させたりしたわけでもないのにまるで連続殺人鬼のように全国民から敵視されているのは、ひたすら「非常識」で「迷惑」だからです。刑事事件になるだの、賠償金請求だのと注目されていますが、私がそれより怖いのは、日本国民からの「不幸になってしまえ」「大嫌いだ」という視線です。刑事事件は判決に従えば良いし賠償は払えば終わりですが、国民からの敵視は終わらないし解決もできません。
他人の視線はどうでもいい。ただ自分のやりたいことをする。そんな生き方だって捨てがたいですね。そういうところから大きな成功を手に入れる人だっているでしょうし、そこで大きな変化が起こって追い風になる可能性もあります。
似たようなことは、他の記事にも書いてます。
ただ、茨の道であることも確かです。
自分の解放は抑えめに、周りと足並みの揃った生き方をしていれば、周りと同じ視点で物事が見れるし、横を見れば同じ境遇の人がたくさんできます。大きな失敗も少ないでしょう。
しかし、そこから一歩外れた生き方をすれば、悪い意味で目立ってしまったり、大きく転がり落ちた先に本当の孤独が待っていたりします。
臆病だったり、いざという時に周りに人がほしければ、ある程度は自分を抑制した無難な生き方を選ぶのがいいと思います。
とはいえ、激動の昨今社会、無難に生きていたって足を掬われるものですから。ある程度は解放的に生きるのもアリですよね。
多様性を守るためには社会が若干停滞しても良い、みたいなポリコレ社会でもありますので。普通のマジョリティとしてはたまったもんじゃない部分もありますが、マイノリティの視点で見ればありがたいことが増えてきた部分もあります。
反感を買わない範囲で、ポリコレにある程度はお世話になりつつ、社会にも良い顔するのが、楽な生き方なんじゃないかなぁ〜
他にも書き出すと止まらないので、一旦止めます。
またこういうこと語りましょ〜
だいすけさん、記事書くキッカケをありがとう。
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