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抵抗

抵抗。抗うこと。何か外部からの力に反抗すること。

僕にとても関係がある言葉。

皆さんにも「反抗期」というものが存在して、馴染みがあるだろう。

この言葉を書いたのは、反抗する自分に酔いしれているからではなく、何故自分は今まで生きてきた人生のほとんどを反抗期でなくとも「抵抗」や「反抗」といったことをしてきたのだろうか、とふと思ったからである。

文字通り、ものや言葉、態度、行動で抵抗を表す、本当の「反抗期」はあったが、思春期を経ても僕はもっと大きな存在、世の中、社会、言い換えると外部世界に対して反抗を続けた。
外部世界には他者も含まれる。自分以外の存在するもの全て。
そもそも反抗とは自分じゃない存在に対して行うものであるため、「反抗期」が続いている、もしくは形式が変わっただけとも言える。

なんでこんな「反抗」について思ったのかというと、普段の会話で僕が自炊や料理が好きなことについて触れたられたからである。

まず、僕は食に対してある程度こだわりがあるみたいだ。食べる行為そのものもそうだが、作ることもこだわりがちなところがある。

「なんでそんなに料理が好きなの?」

なんて言われたが、確かに思ってみれば、なんでこんなに好きなんだろうと考えた。

そして過去を遡ってみたら、僕が料理を始めたのは小学生の頃からだった。

僕の小学生時代は前の記事にも少し書いたが、ド田舎の祖父母の家から学校へ通っていた。なので食事は家で専業主婦の母親と祖母が作ったものを食べていた。
もちろん調理師免許を持った母と長年料理を作り続けている祖母なので味は保障できるが、小学生の僕にとっては少し大人な味というか、子供向けではなかった。はっきり言ってしまえば、煮物や漬物といった田舎料理、郷土料理で色がほとんど茶色のものばかりで味も濃く、子供が好きな、単純な味のハンバーグやらスパゲティやらとは大きく違った。さらに毎日そんな料理が出てくるので途中から飽きてしまって、少ししか食べられなくなったこともあった。


そして、僕はその時から大食いで、とにかく食べたがりだったが、食べるおかずがない、という状況が続いた。

そこで僕は、自分でキッチンに行き、冷蔵庫を開けて食材を探し、試行錯誤しながら、フライパンを使った。

母はそれを見て、「何するんだ!」と驚いていたが、料理をすることを止められそうになったとしても料理をするつもりだった。そうしないと美味しい食べ物が食べれないから。自分の口に、食べることが出来るおかずが入らないから。自分の体が欲してる栄養素が摂れないから。

これが僕の最初の「抵抗」だと思っている。

そしてほぼ毎日、飽きる煮物料理を少しだけ食べ、あとはキッチンを覗き、母と祖母がどうやって食事を作っているのか盗み見した。そして、家事の手伝いと称して徐々に技術を盗んでいった。目玉焼きは簡単に作れるようになり、ウインナーを油で焼くということも覚えた。
そして、朝ごはんを自分で作り、ご飯をよそい、醤油をかけて食べて、学校に行った。

久しぶりに茶碗一杯を無理せず食べることが出来た。

こんな話は絶対に母と祖母にはできない。なんせ、あなたの作る料理は美味くないと言っているようなもんだからだ。

僕が目玉焼きとウインナー炒めが作れるようになった当時は「作れるようになって凄いね」なんて言われたが、実際僕はそれを聞いて嬉しい気持ちはさほどなかった。
そもそも親に料理ができるようになったことを褒められたいがために目玉焼きを習得した訳ではないからだ。
自分が気分よく食事をするため、深刻に言い換えると、自分が生き延びるためにしただけだった。

それから僕は目玉焼きだけでなく色々な料理を作った。カルボナーラも最初は料理本の通りにやってみたが、田舎のスーパーでは取り揃えてない食材もあり再現できなかったり、ずっと強火でやればいいだろうと強火にしたせいで少しダマっぽくなってしまったり、味がいまいちだったりした。失敗ももちろんあった。
スイーツもオーブントースターがあったのでプリンやケーキ、チョコケーキなどを作ってみた。
それから高校、大学と自炊する機会も増えたが、僕が料理をする時は決まって、僕が食べたいものだった。栄養なんて考えてなかった。

そもそも「今日は鉄分が不足してきたから緑黄色野菜を使って、あとビタミンBも足りないからアレを使って、健康的な献立を考えよう。」なんて子供がいるだろうか、と僕は思う。

つまり、僕は料理が好きだが、それは自分が食べたくない料理を食べないための「抵抗」手段だったということだ。

そして、僕の「抵抗」は料理だけではない。
反抗期も自分のしたくないことをしないためにものや言葉で抵抗した。

そしてこの思春期の抵抗は直接的かつ暴力的でただ人を不快にし、外界を拒絶するだけで、自分はそれで救われる、守れるかもしれないが、外部世界の住人達はただ傷つけられただけだ、と気づいた。

なので、それが無意識的に気づいてからか、次に僕は「皮肉」という手段で「抵抗」を続けた。直接的な抵抗と比べると、こちらは間接的に外部に対して抵抗する手段だと思っている。それ故に、姑息で卑怯、もっと言うと幼稚な手段だとも思う。「皮肉」や「自虐」というお笑いに昇華させたのはいいが、結局は自分が情けないから、直接的な反抗ができないだけだ。そういう反抗ができなくなってしまった。もちろん直接的な抵抗が正しい方法だとも思わない。これが正しいとすれば戦争の肯定になってしまうからだ。
直接的な争いを避けたいが、自分のやりたくないことを主張したい、そんな思いが「皮肉」や「自虐」になってしまったと思っている。
分かる人にしか分からないネタだから、分かる人だけが自分のやりたくないことを理解し、わからない人とは戦わない、ということができてしまうから僕は皮肉が好きになったのだと思う。
料理もそうだ。作った自分にしか分からない。あの料理は不味くて自分が作った料理は美味しい、と食べないと分からない。それを口にした人にしか分からない。食べる前の料理と比較してどちらかに抵抗するのだ。

俺はアイツとは違う。アイツが悪いんだ。ということを「皮肉」で包んで食べる。食べてもらうことで本当に自分がしたいこと、あるいはやりたくないことを理解してもらう。

この手段も正しいとは今でも自信を持って言えないのだ。先程も言ったが、これは卑怯でずるい手段だから。戦わない選択を選んだのはいいが、正々堂々とした抵抗ではない。

料理も皮肉も、直接言えば話が早いじゃないか

と思うかもしれない。まさにその通りなのだ。直接的に「美味くないからハンバーグ作って?」
「価値観が、ノリが合わないわ」って言えたらいい。言えたら、いいんだ。

でも僕には出来なかったし、今でも多分できない。意識して、正直に、素直に言おうとしないと無理だ。

それは僕がひねくれてしまったからなのだろうか。そして、僕が直接素直に対話ができない小心者だからだろうか。

「抵抗」のために始めた料理だが、皮肉にも料理好きになり、趣味としても、得意分野としても言えるようになった。特技となった。
なんでも極めれば特技になるなんて良く言うもんだが、自分のやりたくないことをしないようにし続けた先が長所になるとは思ってもみなかった。

僕は自分の好きなことが自分の嫌いなことをしないためだったことに気づいて少し落胆した。

そして、この結果で、あることを思い出したので皆さんのためになればと思い共有したい。

それは僕が大学の授業でマーケティングの授業を取っていた時言われたことで、
「短所を突き詰めれば誰にも真似されない長所になる。だから短所にこそ目を向けろ。」
というものだった。

実際にマーケティングの領域では真理をついていて、短所だと思ってた所を集めたら逆に大成長したという企業の例も見てきた。

企業の事業戦略だけでなく、自分のことを見つめる際も必要だし、使える技だと僕は思っている。

短所は治すものじゃなく、そこに価値はないか、長所とも言えないかと考えることで自分の好きなこと、あるいは得意なことが見えてくるかもしれないと思った。

そして、この格言が正しいとすれば、僕の皮肉はどう長所に転じていくのだろうか。皮肉が特技になって誰かの役に立てるのだろうかと。
それが今の悩みである。

僕はどんな形であれ「抵抗」は続けるのだろう。

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