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何度目の冬

「何度目の、雪というか冬になりますか?」

「そうですねぇ....10年目くらいですかね...」


これは僕が中3の頃、東京の私立高校への進学を考え、入試を無事終え、また地元の福島へ帰る途中に向かい合わせに座った呑んだくれのおじさんとの会話である。

そのおじさんとはちょうど北千住駅から乗り合わせていた。

もちろん、普段から僕はこのように電車の乗客と会話をする柄じゃないが、そのおじさんは電車が発車して落ち着いた頃、おもむろに小さいスーツケースに詰まった缶5、6本中からお酒を1本と酒のツマミを取り出し、1人で酒盛りも始めた。僕はそれをよそ見に、英語の単語帳をただ見ていた。

おじさんは窓に移る景色を横目にワンカップを開け、気持ちよくなっていた。しばらくすると、分かりやすく顔が赤くなっていた。

高校入学を前にした中3の僕は、「あー酔っ払っちゃってるよ」、「絡まれるのはやだな」なんて思いながら目を逸らして単語帳をただ見続けようとした。

勉強に飽きて、というべきか、帰宅までとても時間がかかるため、僕も単語帳から目を離し、窓の外の景色に目を向けた。

僕は電車が好きだ。電車好きというのは鉄道オタクほどのことではないが、電車に乗るのが好きだ。車窓から見る景色が、動く景色が好きだ。今でも車の免許は持っているが電車に乗るのを好む。ペーパードライバーだから電車を選んでいるのもあるが。

そして、景色に黄昏ていると、さっきのおじさんが話しかけてきた。
「ちょっと話し相手になってくれませんかね。」

僕は内心戸惑った。というより「酔っ払いに絡まれた」という気持ちが大きく、適当に相槌を打ってればいいだろうと思った。

しかし、僕も単語帳を見る以外やることがないので話を聞くことで暇を潰そうと考えた。

もう15歳の頃のことだから、7年前のことだから会話は正確には覚えていない。おじさんの名前も覚えてないし、自分の名前も言ったか分からない。

そして、地元の話になり、僕が雪国に住んでいることを話した。

「何度目の...冬ですか。」

今まで聞いた事のない日本語でびっくりした。歌詞のような言葉を耳にして戸惑いながらも、

「そうですね、、10年目くらいですかね。」

僕は5歳の頃、祖父母の体調が優れなくなったのを機に祖父母の家がある「只見町」というところで中学卒業まで過ごすことになる。そして、越してきてちょうど中3で10年目くらいになった。

だからなんだって話だけど、僕からしたら普通に生きてきた10年なんだけど、酔っ払いのおじさんにとったらすごいことだったのかもしれない。この話が酒の肴にでもなれば本望だ。

そして、大学4年、2月28日。春休みの中間くらいに僕は3年振りに帰省する。最後に帰省したのはコロナウイルスがちょうど蔓延し始めた2020年3月。その時は新潟のスキーリゾートバイトで住み込みで働いていたのだが、その休日に電車で帰省した。2日くらいしか実家にいることが出来なかったし、最愛の猫も死ぬ寸前で弱々しくなっていて、その春には亡くなった。だから、今はもう2匹いた猫はいない。

コロナウイルスの影響や就活の忙しさなどが重なり、なかなか帰省出来ずにいた。

中3から数えると12、13回目の雪の降る冬だろうか。

親にもしばらく会ってはいなかった。寂しかったわけではないが、最後の期末テストが終わったことと顔を見せることは久しぶりに会ったわけだし、しようと思った。

情けない話、今までは猫に会うために帰省していた。しかし、もう猫はいない。テレビをつけて文句を訛った方言で言う祖母がいるだけだ。

僕は福島に10年住み、訛りの酷い祖父母の近くで過ごしたから方言が使えるかというと、実はできないのだ。元々生まれは関東なので、ずっと友達と喋る時も標準語で、でも友達は方言を喋ることが多い。只見弁のリスニングは出来てもスピーキングはできないのだ。

そして、この「只見」という町。
正直僕はこのド田舎で遊びたがりの10代を過ごしたことに不満が多い。東京では歩いて10分圏内にコンビニやスーパーがあるし、ネットが繋がる。スマホが使える。ゲームができる。友達にすぐ会える。そんな生活に今では慣れてしまったが、これらほぼ全てが出来なかった。


近くのセブンイレブンは車で法定速度ギリギリで走っても2時間。遊ぶ場所は公園の遊具か広場。インターネットは祖父母の家では最初は使えなかった。時代もあるが、友達との連絡は固定電話、メールアドレス。遊びに行く時は親に車で送ってもらい、17時になったら友達の家まで来てもらい、また山奥の家に帰る。そして朝は兄弟2人しか乗らないのにスクールバスが来るから遅れてはならない。

たまに春休みなどに父親が働く東京に遊びに行くと町はオシャレな人ばかり。訛っている人なんて1人もいない。

そして、また帰ると、「何か足りない」と感じてしまう。ユニクロもないし、ドンキもない。美味しいラーメン屋さんも、なくはないけどそんなに多くあるわけじゃない。遊ぶ場所、食べる場所は決まってた。やっぱり僕は新しいものがその時から好きだったのか、そういう定番化された場所は僕にとってある意味不満だった。
しかし今ではいい思い出、懐かしい思い出でもある。

「只見町」というのは、小学校か中学校で聞いた話だが、昔、ある僧侶だかお坊さんだか修行僧だか通りすがりの流浪人だか、そんな人が只見町を通った時、まだその頃は町の名前がなく、宿に泊めてもらったり町を散策したりしていた時に、その人は「ほかの町や村に比べて特徴がなく、この町はただ見るほかすることがない町だ。」と言ったそう。そこからこの町はただ見る町、只見町となった。

本当に文字通り景色を見るだけですることが他にないのだ。映えスポットなんかない。山。川。森。雪。それだけだ。

逆に言えば自然が豊かで、ツウな人にとってはこの「只見町」というのは町全体として価値があるらしく、普段自然を見ることが出来ない都心の方から旅行客が来ることもある。
実際僕の祖父母の家は民宿を少し前までしていて、東京から原付バイクに乗ったバックパッカーを家に泊めたことがある。
他にも只見というと只見線が有名で、全国の撮り鉄、電車オタク、鉄ちゃんと呼ばれる人がこの地に訪れ、本数の少ない只見線が走るところを撮りに来るのだ。

小学生の頃はそんな人たちが只見線が通るのを今か今かと待ち構えているのを車から見ることもあった。駅に行けばいつでも見れるのに、と当時は思っていたが、今になってその希少性もそうだが、自分でも東京に来て本数の少ない只見線は価値があると改めて再確認した。

景色の他には食べ物ももちろんある。岩魚(いわな)という川魚の塩焼きはお祭りなどで食べられるし、マトンケバブという羊肉を使ったケバブも名産品だ。さらに、冬に開催される雪まつりでは寒いので熊汁と呼ばれる熊肉を使った汁物が出される。熊肉は町の猟師、ハンターが森で狩ってくるのだ。僕の町にはリアルモンスターハンターがいた。
そして寒い冬の飲み物として甘酒があった。酒といっても酔う程アルコールが入ってるわけではなく、老若男女誰でも飲める。むしろ身体が温まって子供やお年寄りにとってはとてもいいものなのだ。

「只見のいい所を紹介する!」ようなつもりはなかったが、只見町でないとできないことも色々とあった。

どこかの県のPRポスターか何かで「ないものはない。」という言葉を覚えているが、これには文字通り都会にあるものはないという意味と、生活するには困るものはない、満ち足りているという両方の意味がある。

只見町も同様に、人が少ない限界集落スレスレの田舎なので「ないものはない」状況ではある。よく田舎で思い出されるのは、吉幾三の「俺ら東京さ行くだ」という曲だ。この曲のように田舎が嫌で東京の大学を目指したわけではないが(田舎暮しに不満があったのは否めない。)、オシャレなバーもないしスクールバスは1日往復1回。デジタル機械は基本最新のものはない。iPhoneが登場した時もAppleストアもなかった。映画館もないし、本当にそれっぽいのは小学校の読み聞かせの時間。ファッション誌なんか読む人は誰1人いない。

とにかく、ないものはなかった。

でも、東京に来てから、只見にあったものはないことに気づくことがあった。

それは熊汁や岩魚の塩焼きだけじゃなかった。

自然。大自然。キレイな空気。大雪。静けさ。

それは、毎日何万人とすれ違う東京にはないものだ。

そして、これはただ良い景色を見て、感動しているわけではない。故郷だからというのもあるが、僕にとって大きな意味がある、そんな気がした。

僕はこの静けさを感じる度、自然と1つになっている気がした。大自然の中に1人の僕。

そのひとときをただ、感じていた。

僕は、自然と、人ではない存在と対話している時が1番自分らしくいれる気がする。


100分遅れで只見線が只見駅に向けて出発するみたいだ。
乗客は僕含めて2人。もう1人は旅行客だろうか。外はもう暗い。
100分遅れで点検を行い、2人の乗客のために電車を動かしているのではないだろうか。そうだとしたら乗務員にはとても苦労をかけたことになる。

僕は待っている間、駅弁の柿の葉寿司を食べ、レモンサワーやら酒のおつまみも食べ尽くし、残った時間で番組配信アプリでアニメなどを見て暇を潰した。

今では中3の頃に話した酔っ払いと自分が同じ状況だなんて信じられない。酔ってはいなかったが、お酒を飲める年齢になり、いっちょ前におつまみやら駅弁やら食べるようになった自分を俯瞰してみると、時の変化と成長を実感してなんともはがゆい気持ちだ。

「何度目の冬」

今でもその言葉は思い出す。
会話としては、違和感のある言葉だったのもあるが、冬は僕にとって身近で、そばにいた存在でもあった。
これからも何度か冬に只見町に来ることがあるだろう。逆にこれから数える程しか帰らないかもしれない。その度に僕は「何度目の冬」かと思い出してしまうのだろうか。

どうやら駅に着いたようだ。
ワンマン電車なのでボタンを押して降車した。
そして、駅員さんもここで降りた。

やっと、帰ってきたんだ。

寒さを感じながら、駅の待合室で待つ父の元へ向かった。

ちなみに今回の帰省でわかったことだが、父親も子どもの頃、親の仕事の関係でカメラを見ることが多く、写真に関して知識があるため、写真が上手く、僕もまた写真が好きになったのは偶然ではなかったかもしれない話はまた今度にしよう。

父が1月に撮った写真
僕が3/1に撮影した写真

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