あいらぶエッセイ⑤「『ありがとう』の偉力」
母親は、昔からとにかく我の強い人だった。
幼い頃、僕はよく風邪をひいて高熱を出したが、そのときに母親が取る恐怖の対処法があった。
「うぇぇ……もう熱、下がってるから、やらなくていい」
「いいん!これやらないと下がらないよ!ペー、ペペェーッ!!」
母親が、自らの唾を僕の足や手にこすりつけるのである。
誰から習ったのか知らないが、母親はそれが最も効果的な解熱法だと信じて疑わず、僕は抵抗するのを諦め、ただ時が過ぎるのを待った。嫌悪感で、熱がさらに上がった気さえした。
晩婚で、同級生のお母さんたちより明らかに年上の母親が、小学校の授業参観に来ることだけでも少し恥ずかしかったのに、学級担任が児童たちへ、壁の掲示物を見るよう指示したとき、たまたま、そこの窓越しにいたうちの母親が、自分を見ていると勘違いしたのか、手を振り始めたときには、意識が遠のく気がした。
少年野球では、肩に悪いからピッチャーはやるなと言い、テレビは、視力が下がるとの理由でほんの短時間しか見せてもらえなかった。極端な健康志向で、添加物の多い菓子類を食べるのはもちろん厳禁。ハンバーガーのファーストフード店へ家族で行ったのは、確か、僕か兄貴の誕生日か何かのときの一度きりだ(その際も、母と父は何も食べず、僕らが食べるのを見守っていた)。
そのように育てられれば、当然、思春期には親への反発心も生まれる。
高校生のとき、クラスメイトから、
「お前の母ちゃん、この間、バス停そばで、ショルダーバッグを頭から後ろにぶら下げて歩いてたぜ」
と言われたときには、恥ずかしさや苛つきを通り越し、こうなったら、母親を笑いのネタにしてやろうと思った(後日、母親に聞くと、姿勢がよくなるバッグの持ち方らしい)。
そんな母親との関係性によって、僕は思春期特有の反抗期を卒業しそびれてしまった。その状態は、大人になっても長らく続いた。
「あんたー、たまには家に来て、お父さんが作った野菜食べないと、すぐ健康、害するよ!」
「わかってるって!仕事中にしょっちゅう電話してくるなよ!忙しいから切るよ」
頻繁に電話をよこす母親へ、僕は露骨に苛立ちをぶつけ、たびたび着信を無視した。それでも母親は、おそらく毎日夕飯を作るたびに、僕や兄のことを思っていたのだと思う。
公私の時間の区別があやふやなほど、日々多忙だった会社を15年目で辞め、ふと母親に目を向けたとき、僕が社会人になる以前の実家にいた頃の母親とは、だいぶ様子が違っていることに気づいた。もともと頑固で、ひねくれ者ではあったが、それでも朗らかな部分が勝っていて、その点に関して、僕は尊敬していた。だが、時を経て、それらの性格が大きく逆転しているようだった。自分の部屋で財布を紛失したことを、父親が盗ったと言ってみたり(後に発見)、父親が畑で採れた作物をどこか別の家へ持っていっていると疑ったり。あまりにも妄想的な小言が酷いので、ある日僕は、母親に怒鳴り散らしてしまった。
「いつのまに、こんな意地悪い人間になってしまったのか!」と。
数日間は母親からの電話も取らなかった。しかし、気になって、図書館から本を借りてきて調べてみると、やはり症状が幾つも当てはまった。振り返ると、実家で母親が僕のためにゴーヤーチャンプルーを作ってくれたとき、ボールいっぱいに切ったゴーヤーが冷蔵庫のなかにすでに用意されてあるのに、母親はそれを忘れてまたゴーヤーを切り始めていた。みそ汁に豆腐を入れてくれたあと、しばらくして、また豆腐を食べるか聞いてきたときも訝しく思った。僕は母親の認知症を疑った。
父親の耳が遠いのをいいことに、台所の母親は、リビングの僕に聞こえるほどの声で、父親への小言を一人、延々と言い続けていた。僕は母親に黙ってもらいたかった。一方で、まさか彼女が病気ではないかと思うと、泣き出したい気持ちだった。僕はご飯だけを自分でよそい、おかずの炒め物が入った鍋ごと、母親が食卓へ運んできたとき、本当に恥ずべきことだが、おそらく僕はその歳になって初めて、母親へはっきり口にした。
「ありがとう」
母親の、頑固そうな表情が一瞬、反応したように見えた。が、特に僕へ何も言わず、台所に戻っていった。鳥肌が立つような、落ち着かないような、正直に言って気色悪いような、変な気持ちだった。だが、それから、僕は事あるごとに母親に対して感謝の言葉を付け加えるようになった。
母親の態度に変化が現れたのは、そのあたりからだった。
台所での父親への小言が激減したのである。もちろん今でも、思い出したように一人でぶつぶつ言うが、ずいぶん変わった。80歳を超える、しかも長年、頑固を貫き通してきた者が態度を変えるなんて、僕は正直無理だと思っていた。今では、僕が「ありがとう」と言うと、「なんでー、我が子なのに、ありがとうじゃないさー」と満足そうな表情を浮かべる。たまに父親が不在のときに実家へ寄ると、父親のバッグから一万円札を抜き取り、僕にあげようとする。「いいから、やらないで」と僕は言うが、ときにはちゃっかり頂く(父親には後で言う)。そしてまた感謝を伝える。たぶん、母親は、僕や家族からずっと言われたかったんだと思う。「ありがとう」の言葉を。僕はそれまで実に幼い、馬鹿息子だった。
去った四月、沖縄のシーミー(清明祭)の時期に、父親がみんなで行こうと言うから、三人で墓参りをした。父親の先祖が眠る墓だ。母親は、外出することを無精していたが、僕がすかすと、その気になって付いてきた。
墓の周囲の草を刈り、簡単に清掃をして、餅とお茶だけを供え、線香に火をつけた。
「長男や、東京で頑張っています。次男や、沖縄で頑張っています。みんな健康でいられるように見守ってください(すべて方言)」
母親が立ったまま、線香を頭近くに掲げて、熱心に祈る。前髪の数本が線香に触れ、微かな煙が立った。僕は小さく笑う。
「お母、前髪、燃えてるよ」
「あんた、お墓で笑わん。大変するよ、すぐ」
何歳になってもぶっ飛んだ母親だと僕は思う。認知症を疑い病院へ行こうと言っても、母親は「私は絶対、病気しない」と言い張り、決して応じない。僕は体調への変化が出たときの対策を考えつつ、もう好きなようにさせてやりたいという気になっている。
平日の人けのない墓地には、柔らかな春の日差しが降り注いでいた。人一倍、怖がりの僕は、死が最も恐怖である。だが、体が痩せて小さくなった今年89歳の父親と、猫背になり、顔のシミが目立つ84歳の母親の後ろ姿を見ていると、母親に「縁起が悪い」と叱られそうだが、僕は思ってしまう。この世から、いつか僕らがいなくなったとしても、僕はあなた方といたい。同じ墓で永遠に一緒にいられるのなら、僕はむしろ幸せだと。
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