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あいらぶエッセイ⑦「“異文化交流”に思う」

 高校生の頃のことなので、記憶が定かでない(ので、誤りがあれば後日、訂正する)。

 わが校に、マット君という米国からの短期留学生がやって来た。ずんぐりむっくりで毛の濃い者が多いウチナーンチュ(沖縄人)の男子生徒に比べ、彼は足が長く、目鼻立ちは明らかに西洋人で、どこか上品さとお坊ちゃんのような雰囲気が漂っていたように思う。基地がある沖縄と言えども、普段、なかなか身近で接する機会のない外国人が突如、校内に現れたので、生徒たちは若干、色めき立った。

 しばらくして、そのマット君、生徒の誰かから酷い言葉を言われ、傷ついたことが問題になった。ホームルームか何かの時間に、僕も担任からその話を聞いた記憶がある。

 誰がどのような酷いことを彼に言ったのか、僕らの関心は高まった。しばらくして、その詳細の中身が聞こえてきた。ある男気のあるスポーツマンの男子生徒が、下校時にマット君を見かけ、声をかけたのだという。その生徒は、マット君を思いやり、友好の意味を込めて「一緒に帰ろう」と言おうとした。そして、こう声を発した。

「Go home !(帰りなさい!)」

 慣れない異文化の言語を使うときには、若干の危険が伴うこともあるのだと、そのとき僕は気づいた気がする。

 その後も、外国の方と接して、僕らが普段、何気なく使っている言葉の意味を、深く考えさせられる場面がたびたびあった。

 会社勤めだったとき、台湾人の方が入社してきた。とてもエネルギッシュで明るく、優秀な方で、入社時から日本語での会話や文章執筆はほぼ完ぺきだった。同僚同士、挨拶のように使っている「お疲れ様」の言葉を彼女にかけたときだった。彼女はにっこり笑い「私、疲れていない」と言ったのだった。ハッとさせられた。確かに、僕らはその言葉にあまり意味を込めていないことが多かった。そういったこともあり、僕は特に午前中は「お疲れ様」をあまり使わないようになった。その彼女から、逆に「お疲れ様」と言われたときは、じんわり心が温かくなった(彼女がそのとき、意味を込めて言葉を使ったのかは知らないが)。

 仕事で、各社の代表社員が参加して、米国と韓国の基地を視察するツアーに参加したことがあった。日本人と米国人が案内役を務め、そのうちの一人の米国人女性とは、出発日前に顔を合わせた際に、ほんの少し会話を交わしたが、日本語があまり上手でなかった。僕も英語がまったくダメなので、彼女とは意思疎通を図れていなかった。韓国か米国の地下鉄で電車に乗るときだった。成人してから外国へ行った経験は、仕事でマラウイ(アフリカ)へ行ったきりだった僕は、外国での移動経験が極めて乏しく、その上、英文も読めず、電車のない沖縄でずっと暮らしてきたので、切符の購入の仕方にも慣れていない。発券機の前でぐずぐず焦っていたら、ツアー案内役のその米国人女性がそばに近づいてきて、ニヤリと言った。

「アナタジッカデショ?」

 一瞬、意味がわからなかった。が、すぐに《あなた、実家暮らしでしょ?》と、言っているのを理解した。

 何も知らない甘えん坊だと、揶揄されていると知り、顔が真っ赤になった。少しムッとしたが、日本語が流暢でない彼女が、絶妙な意味のその言葉をチョイスしたことに、僕は妙に感心してしまった。

 

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