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【ポンポコ製菓顛末記】                   #40 銀行の罪とワナ

 どんな企業も銀行から借金をしている。企業は借金で経営が出来て、銀行は利息を得て商売が成り立っている。特に日本は欧米に比べると銀行への依存割合が高いという。その持ちつ持たれつの持たれあいが緩いぬるま湯体質を温存してきた。
 


銀行員の経済オンチ


 
 読者の会社も多かれ少なかれ銀行から借金をして経営しているだろう。そして最も多く借りている借入先をメインバンクと称して大事にしている。大概メインバンク、または準じる銀行とは互いの株を持ち合い、資本関係を濃密にしている筈だ。大株主は株主総会の議決権が多いので、何かと重宝だ。

 この持ち合い株は政策保有と称して昭和の日本企業の経営の根幹だった。企業はこのメインバンクにずっと頭が上がらない。何故ならポンポコ製菓のように自己資本比率が低く、他人資本、即ち銀行からの借金に頼りきりだと銀行にソッポを向かれてカネを借りられなくなれば干上がってしまうからだ。
 だから企業はメインバンクには最恵国待遇をしていた。毎期経営状況を社長がメインバンクのトップに状況報告をする。メインバンクはよっぽど回収の見込みがない、焦げ付かない限り多少業績が悪くても融資を続ける。その見返りとして銀行からは退職した人材、または出世の見込みのない社員を融資先企業に押し付ける。所謂天下りだ。
 天下り後は大体監査役や経理関係の要職に就く。何故なら銀行員だから財務や会計のプロだろうと推測してしまうからだ。

 ポンポコ製菓も代々メインとサブバンクから常時2人を天下り先として何十年も受け入れていた。筆者もそうだがそれが当たり前だと思っていた。役職は悪くて監査役、時には取締役となって重役になる人もいた。一部上場企業のそこそこの役職だから当人に取っても決して悪くない筈だ。しかも昭和の役員は新しいことをするわけでもなく決まりきった業務をこなすだけで、さらに大半を部下がやってくれるのでボロが出なかった。
 ところが平成になって市場も経営も難しい時代に入り、役人にも経営センスを求められるようになった。銀行からの天下り役員も例外ではない。当人も結果を出して社長や会長に認めてもらおうと必死であった。

 しかし、なかなかパフォーマンスを上げられない方が多かった。まず経営や事業センスは皆無だ。それでは財務、会計、経理の専門分野はどうか。これも怪しい。筆者が80年代から2010年代の30年間で接した数人の天下りの銀行出身者で尊敬できるまともな方はほんの数人であった。ポンポコ製菓の経営陣もうすうすその辺の事情に気付き始めた。

 ある時筆者は不思議に思い、懇意にしているコンサルタントに質問した。「銀行の人でも財務や会計に明るくないんですね?」
 するとコンサルタントは教えてくれた。
 「そりゃあ、そうですよ。銀行出身者といっても、何をしてきたかが肝心です。支店長経験だけではだめです。業務は全て部下がやってくれるので彼らは財務や会計は解りません。まして経営なんて全く素人です。彼らの専門は部下の人事、労務管理。カネ関係はせいぜい資金繰りでしょう。
たとえニューヨーク支店長や九段支店長経験者でも同様です。融資審査などのエキスパートでないと本当のエリートではありません。」

 私は驚いたが、そう言われると「いなほ銀行」出身の常勤監査役は自ら事業運営を申し出たにも関わらず経営はからきしダメであった。
また、「四角銀行」出身の取締役経理部長に管理会計や資本政策について相談しても全く埒が明かなかった。その代わりゴルフは飛び切り上手かったので、当時営業イベントであった女子プロとのプロアマ試合の人選は頼みもしないのに良くアドバイスをもらった。おそらく接待手段としてゴルフテクを磨いたのであろう。TVでヒットした出世の社内政治に終始した『倍返しだ~!!』はあながちオーバーではないだろうと思うようになった。

 時代は変わり、金融関係企業も自身の資産・財務状況健全化のため企業との政策保有を見直さざる得なくなった。企業側も同様で、意味のない天下りの受け入れは解消しつつあるようだ。
 
 
 

銀行はどこからともなくカネを生み出す


 
 銀行そして投資会社、証券会社を含む金融機関全般は世間ではずっと花形業界であった。そこで働く社員はエリートで就職者のあこがれであった。ところが実態は経営も財務も解らない人々がほとんどかもしれない。

何故そのようなことになったのか?
 
 それは経済の発展、資本主義の隆盛までさかのぼる。
その複雑かつ巧妙なカラクリは筆者の稚拙な知識と少ない紙面ではとても説明しきれないが、ざっと紹介すると以下のようなものだ。
 
 3回前の#37で紹介した中世の封建時代までの「市場のある社会」ではもともと生産して分配し余剰が利益だった。それが近世には逆転して先に利益を決めて求めるようになった。目的となった利益を実現するために。借金が生産プロセスの潤滑油となり新たな役割となった。もともとキリスト教のカトリックは利子を禁じていたが、プロテスタントは借金に対して寛容だったので余計後押しした。産業革命を経て市場社会となった19世紀はそうして通念が変わっていった。資本主義経済の確立だ。
 
 それでも銀行は当初、預金者からおカネを預かり、借り手に貸しつけ、預金者の利子と借り手の利子の差額で事業をしていた。
 それが1920年代頃から金融業の歯車が狂った。市場社会の伸長が増大したことと事業が失敗しても銀行が被害を被らない(銀行は損をしない)方法が生まれた。
 それは債券を小口に分割して投資家に販売するようになったこと。預金よりも高い金利で、かつ、元の債権者より低い金利で投資家に販売すれば、銀行はすぐ債券を回収かつ利益を受け取れ、さらに債権者が破産しても損をするのは小口購入の投資家、即ち庶民という仕組みだ。銀行はリスクなしで儲かる。

 この仕組みに味を占めた銀行はさらに暴走し始めた。読者は銀行の貸付は預金者の預金を基に今もそうしているのではないかと思われていないだろうか?
 今は違う。信用創造といって銀行はどこからともなくカネを生み出し借り手に貸しつける。人々が信用している政府や中央銀行がどこからとなくカネを貸し付ける仕組みは古来から存在した。しかし支配者でもない民間の銀行が政府・中央銀行と同じようにカネを生み出すようになったのは、きわめて現代的で、市場社会特有の現象なのだ。
 現代は現金通貨の10倍近くの銀行預金が流通しているという。だから銀行預金者がいっせいに現金を引き出されたら困る。銀行はもともとすべてのキャッシュがないので返せない。金融危機となる。
 
 アメリカ・自動車王のヘンリー・フォードは言った。
「国民はおそらく銀行制度や貨幣制度について知らないか、あるいは理解していないだろう。もし理解していたら、明日の朝までに革命が起きるはずだ。!!」
 
 これに株の投資が加わるとさらにすごみが増す
 
 長くなるのでそれは明日お話ししよう。


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