海がきこえる
小説『海がきこえる』について記事を書こうと思った。仮タイトルは『海がきこえる』だった。文章を書き終えて、本タイトルをどうしようか考えた。しかし、『海がきこえる』以上にこの小説を表現できる言葉は見つからなかった。僕にとって、この小説はそんな存在である。
2022年7月8日、故・氷室冴子さんのデビュー45周年を記念して、小説『海がきこえる』の新装版が発売された。スタジオジブリでも長編アニメ化された90年代屈指の青春小説である。
『海がきこえる』に出会ったのは、数年前、当時大学生だったころだ。TSUTAYAのジブリコーナーをプラプラしていたとき、『となりのトトロ』や『耳をすませば』などに挟まれた見慣れないタイトルに目が引かれた。
『海がきこえる』
『海の音がきこえる』ではなく、『海がきこえる』。舞台は海にほど近い高知の高校であった。
物語は、地元・高知の高校を卒業し、東京の大学に進学した主人公・杜﨑拓が、家庭の事情で東京から転校してきた武藤里伽子との高校時代の出来事を回想しながら進んでいく。
拓と里伽子の性格は似ても似つかない。拓は海のようにあらゆるものを受け入れる大らかさや飄々さがありつつも、時に意地を張ったり無鉄砲な行動をしたりもする。成績は中学の頃からだだ下がりし、高校に入学する頃には学年下位に転げ落ちてしまっていた。
そんな拓の高校に転校してきた里伽子は、容姿端麗で成績もトップクラス。しかし、気が強く、他人に弱さを見せない性格も相まって、同学年の女子と折り合わないことも多かった。『標準語で話す里伽子』と『土佐弁で話すクラスメイト』という対比も、里伽子の疎外感を際立たせていた。
2人の高校時代の関係は、まさに付かず離れずという言葉がぴったりだった。友情や恋心、葛藤、プライドなどの狭間で揺れ動きながら、思いがけずお互いを傷つけ、傷つけられる様子が高校生らしい青々しさを演出していた。
やがて大学生になった2人は、思いがけず再会をとげる。高校時代とは違った関係性へと徐々に変化する過程は、まるで螺旋階段を昇るような、あるいは1段上って2段下がるようなものだった。中々すんなりといかない様子は妙にリアルで、それこそがこの小説の魅力でもある。
『海がきこえる』は全2巻で完結する。1巻は主に高校時代、2巻は大学時代を描くのだが、表紙になっている里伽子の表情は大きく異なっている。1巻目は、まるで戦場に向かう兵士のような厳しい目つきと吊り上がった眉が象徴的に描かれている。一方、2巻目は全体的に柔らかい印象がある。
どこか気持ちの折り合いがつかないまま、他人を敵と味方のどちらかだけに分類していた高校時代と、周囲の人たちとの関わりの中に自分を見出そうとする大学時代への移り変わりを、表紙だけで表現する上手さを感じた。
この本を読んで感じさせられたのは、人生、特に青春時代の出来事は心の機微が大きく影響しているということだ。すれ違いや勘違い、遠慮、思い込みなど他人に言葉で伝えられなかったり、理解できないものが表面に現れてきて、それに戸惑ったり、思い悩んだりする。なかなか抜けられない心の迷路の中でもがく日々のことを青春と呼ぶのだろうか、とふと感じさせられた。
先に書いた通り、この小説の大きな魅力はリアリティにあると思う。心の機微や人生のちょっとした出来事を解像度高く描いており、まるで自分の人生で起きた出来事かのような切実さや身に迫るものを感じさせるのだ。一言でいうなら、初めてなのに懐かしい。
家庭の事情で高知に引っ越してきた里伽子の心情は、特にそうだ。家庭の事情というのは、簡単に言えば、父親の不倫である。(『海がきこえるⅡ』ではこの辺りが生々しく語られ、やや重い雰囲気が漂う。)ただ、実を言うと、里伽子にとって父親の不倫自体はささいなことで、父親が好きな里伽子にとっては、東京住みの父親と生活することの方が重要だった。
強引に父親に会いに行く里伽子に思いがけずついていくことになった拓は、サンドバッグのように里伽子の本音をぶつけられることになる。
しかし、久しぶりに訪れた父親の家に、里伽子が住んでいた頃の面影はなかった。壁紙の色や調理器具もすっかり新調され、まさに不倫相手の色に染まっていたのだ。いつも強気な里伽子でもその光景にすっかり参ってしまい、拓もかける言葉が見つからなかった。
その翌日、ぽっかりと空いてしまった心の穴を埋めるかのように、里伽子は東京に住んでいた頃のボーイフレンド・岡田と会う約束を取りつけた。しかし、すでに岡田は里伽子の友人とデキてしまっていた。それを知り、里伽子はその場に拓を呼びつけた。まるで、自分も高知でうまくやってることを見せつけるようだった。それは里伽子なりの精一杯の見栄だったのだろうが、普段の強気な里伽子を知っている拓にとっては痛々しい光景だった。
このときの里伽子は、読者である僕にとっても痛々しく感じられた。ただ、もし僕が高校生の時、彼女と同じ境遇に陥ったら、同じように何かにすがりたくなる気持ちも痛いほどわかった。何かにすがろうとして、すがったものが次々とボロボロ崩れていくことの辛さも痛いほどわかった。一事が万事になりがちな高校生が、自分でもどうしていいか分からなくなってしまっている感じが切実に、そして身に迫るほど伝わってきた。
高校生というのは、たくさんの言葉を知っている。それなのに、言葉ではない部分で表現しようとすることも多い。僕の反抗期もそうだった。言葉でわかり合うことを半ば放棄し、行動や態度で相手を押し込めようとする。里伽子の行動もその延長線上にある気がしてならなかったから、読者である僕も切実さを感じたのだろう。言葉にできない辛さを知っているからこそ。
もう少しソフトなリアリティでいうと、大学進学を機に一人暮らしを始める拓の、どこか他人事な様子(一人暮らしを始める本人は案外のほほんとしているものだ)や引っ越しの際に母親が妙に張り切ったり、別れ際になぜか子どもを突き放したりする感じがとても懐かしく感じられた。母親とは、世の中どこでも同じなのだろうか。
また、ときおり登場する高知の街並みも、小説の中で大きな役割を果たしている。それは、拓と里伽子が大学入学した後、初めての夏休みのことだった。同窓会に参加すると、そこにはすっかり垢ぬけた同級生の姿があった。懐かしさに促されて、つい高校時代には言えなかったような本音が口をついたり、妙に素直になったりするもので、それは拓や里伽子含め、クラスメイトも同じだった。
高校時代、里伽子とそりが合わなかった清水明子は、拓に里伽子と不仲だった話を振られても、あっけらかんとした様子だった。
同窓会も2次会のカラオケに移り、徐々に部屋を抜け出していく同級生も増えていく。1曲歌い終えた里伽子は、のんきにチーズおかきをバリバリと食べていた拓に声を掛けた。
拓と里伽子の高校時代は、素直になれず、大人にもなれない日々を繰り返していた。お互いの心の機微の中で、相手を傷つけ、傷つけられる日々を繰り返していた。
しかし、それは必ずしも望ましいことではなかった。本当は、こうして2人で歩いているだけでよかった。ただこうして高知城を眺めているだけで良かったのだ。ライトアップされた高知城は、2人が取り戻そうとしている青春を象徴していて、2人が大人への歩みを進めている証に思えた。
先日、四国旅行で高知を訪れた。高知城を目の前にしたとき、神社にお参りするような背筋が伸びる思いがした。高知城は、僕の人生にとって何の思い入れもない場所のはずだった。ただ、拓と里伽子の関わりの中に、いつのまにか自分を重ねてしまっていた。素直になれず、大人にもなれない日々を繰り返していた頃の自分を。
電車でつり革をつかんでボーっとしているとき。ベッドの中で目をつむっているとき。そんな日常生活の隙間で、ふと高校時代のことがよみがえってくる。それは綺麗な思い出ではなく、言葉にできないものが多い。ザザと寄せては返す波のように、せわしなく揺れ動く感情。ボコボコと深海へ潜ってしまいたいほど、孤独になりたい瞬間。それらを振り切るように小さく咳ばらいをすると、この世界に戻ってくる。あの頃と比べれば、夜の海の穏やかな静寂に思えるこの世界に。
ふとした瞬間に、海がきこえる。
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