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時価総額1兆円バイオベンチャー「セラノス」の栄光と崩壊(山崎繭加)

山崎繭加の「華道家のアトリエから」第3回
Bad Blood: Secrets and Lies in a Silicon Valley Startup
(悪い血:シリコンバレーベンチャーの秘密)
by John Carreyrou (ジョン・キャリユー)   2018年5月出版  
*日本語版は集英社より刊行予定 

「そうなるまで、そうであるふりをせよ」

“Fake it, until you make it.”は、「そうなるまで、そうであるふりをせよ」という意味の言葉だ。できているふりをしているうちに本当にできるようになる、だからできるようになるまで待たずに今からやればよい、とポジティブな意味合いで使われることが多い。

中でもシリコンバレーにはFake-it-until-you-make-itの文化が根強くある。起業家が今の時点ではとても実現しそうにない、だが世界を変えうるというビジョンを提示すると、お金と人がちゃんと集まる。投資家も、起業家たちが大げさに話をするのにも慣れているし、働くためにやってくる人たちも世界を変えるかどうかは可能性でしかないことは十分に理解している。夢を共有し、夢の実現に向けてタッグを組む。うまくいかないケースの方が多いが、それらを吹っ飛ばすくらい大きな成功が時々生まれる。だからビジョンとそれを掲げる人のところにお金と人が集まり続けるし、起業家は“Fake it until you make it”を続ける。

いつかはmake it(実現する)できると投資家や一緒に働く人を説得し続け、時間を引き延ばすというfake it(ふりをする)は別に問題ない。関与している人も未来の可能性にかけており、愛想を尽かせたらそこで降りればいい話だからだ。一方、まだできていないのに「すでに今make itしている」と言うのは、完全な嘘であり、fake itの一線を越える。そうしたfake itを行っていたのが、アメリカのバイオベンチャーTheranos(セラノス)である。

セラノスは、スタンフォード大学を中退した19歳の女性エリザベス・ホームズが起業し、一時期は企業価値90億ドル(1兆円)と言われ、7億ドル(800億円)を調達していた。取締役会には、冷戦中にソ連や中国との関係改善に尽力したヘンリー・キッシンジャーや、冷戦を終わらせたと言われるジョージ・シュルツなどの元国務長官、米軍の海兵隊大将ジェームズ・マティスなど、アメリカで最も影響力の大きな人たちが名を連ねていた。エリザベスは、男性が優位のシリコンバレーで、初めて大きく成功した女性創業者として、その美貌も合わせて、時代の寵児となる。「次のスティーブ・ジョブスだ」とも言われていた。卵形の顔、青い目、深いバリトンボイスで語る彼女の姿をメディアで見かけたことがある人も多いだろう。

このセラノスの嘘を見破り世に発表したのが、“Bad Blood”の著者、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)紙の記者ジョン・キャリユー(John Carreyrou)だ。彼はWSJではinvestigative journalismの部門に所属している。investigative journalismは日本語では「調査報道」と訳されるが、主には企業や人の不正を対象とし、単なる調査を超えて踏み込み、かなりの時間をかけ真実を明らかにしていくタイプのジャーナリズムである。キャリユーが2015年10月に発表したWSJの記事がきっかけとなり、規制当局による検査と勧告、投資家や患者からの訴訟、さらには証券取引委員会からの告発と続き、セラノスは2018年9月に解散した。現在エリザベスと、彼女の当時のボーイフレンドでセラノスのCOOであったサニー・バルワニは、10を超える刑事訴訟の被告となっており、懲役20年の宣告を受ける可能性がある。

Bad Blood”はセラノスの元従業員、顧客、提携先との膨大なインタビューやメール等の情報をもとに、セラノスがどんな嘘をつきそれをどう隠してきたかを綴った本だ。

セラノスの嘘

セラノスは、指からの血で検査ができる小型の検査器を開発していた。そして、あらゆる家庭にこの検査器が置かれ、誰もがいつでも痛みなく検査して、病気を早期に発見できる、という未来を説いていた。エリザベスのマントラはこうだった。

a world in which no one would have to say goodbye to a loved one too soon.
誰も愛する人に早すぎる別れを言わなくてよい世界(p.184)

このビジョンの実現に向け、セラノスは2センチに満たないナノテイナーという血を採る器具と、その血を運ぶケース、そして分析器を開発していた。指を針で軽くつつき、その血をナノテイナーで採り、分析器にケースを入れれば、200以上の検査結果が一瞬のうちにして届く。2013年の時点で、この技術が開発できていると言って、全米最大のドラッグストアであるウォルグリーンから1.4億ドルの資金と引き換えに、カリフォルニアやアリゾナのウォルグリーン店舗で検査の展開を始めていた。

実際はどうだったのか。一番の技術的困難は血液量にあった。通常の血液検査でたくさんの血を採るのは、それぞれの測定要素によって異なる検査を行わなければいけないからだ。セラノスが採るほんの少量の血では、限られた検査しかできない。なおかつ指の血は余計なものが混じりやすく、検査には不向きである。ある科学者は後にこう語っている。

I’d be less surprised if they told us they were time travelers who came back from the twenty-seventh century than if they told us they cracked the nut.
セラノスがその点をクリアしたと聞いたら、27世紀から時間旅行でやって来た人がいると聞くより驚くよ。(p.230)

こうした困難を解決する技術をセラノスは持っているとエリザベスは語っていたが、そんな技術は実際には存在していなかった。かつ、その限られた検査すら、セラノスが独自で開発した分析器のエラー率は非常に高く、働いている人たちにとっては「試作品」レベルであったのである。期待に満ちて入社した人たちが、厳重なセキュリティの向こう側にあった自社の分析器を見て「中学生の自由研究レベル」と失望したシーンも描かれる。

無理矢理編み出したのが、採った血を希釈して量を増やし、セラノスの分析器で一部の値を測定し、大半はシーメンス等から購入した大型の分析器を使って値を出す、という方法だ。セラノスの分析器はもともとエラーだらけ。シーメンスの分析器自体は正確だが、血を規定以上に希釈しているため、ここでもエラーが出る。

エリザベスはこの状態で商用展開を始めた。当然検査の現場では混乱が出る。まずは、実際には正常なのに異常値がでるケースである。セラノスの検査であまりにも高い異常値が出たため、他の病院で検査をしたら正常値だったという人が出てきた。この場合は不必要な不安と検査費用がかかるが、もっと恐ろしいのが、異常なのに正常値がでる場合で、本来なら精査すべきところを安心してしまって、病状が悪化するリスクがある。また、薬の量を検査結果で調整する場合、検査結果が間違っていると、間違った量の処方となり、患者を危険にさらす。

これはエリザベスのマントラ「誰も愛する人に早すぎる別れを言わなくてよい世界」をまさに逆行する。セラノスはこの時期、ウォルグリーンでの展開を前面に出して、自分たちの技術は商用化レベルだと吹聴することで、大型の資金調達キャンペーンを行っていた。エラーばかりの検査器を実用化し、彼らの真の顧客であるはずの患者の命を危険にさらすことで、自分たちの会社の生存のためのお金を得ていた、ということだ。しかし、こうした会社の行動に疑念をもった人は自ら会社を辞めるか、異を唱えた人はその場で即クビとなり、会社は展開を続けた。

それ以外でも、セラノスのあらゆる場所に嘘があった。検査機関の水準を測定するテストでは、頻発するエラー値はすべて異常値として除いて正常な値が出たものだけで計算する。規制当局の調査官が来た時には、他の企業から購入した分析器がある部屋だけを見せ、自前の分析器がある部屋は隠す。当時の副大統領が来た時には、すべて自動で作業が行われているという嘘を見せるため、別途分析器だけを置いた部屋を用意し、作業員には自宅待機を命じる。「ジョンズホプキンス大学によって正確性が実証された」ということの根拠は、大学の研究者とのたった一度の打ち合わせであった。

アップルから転職し、その後会社の倫理観のなさに嫌気がさして辞めたある従業員は、辞める際に以下のようなメールをエリザベスとサニーに送っている。

Lying is a disgusting habit, and it flows through the conversations here like it’s our currency. The cultural disease here is what we should be curing before we try to tackle obesity.
嘘をつくことは最低の習慣で、でもここではまるでそれが自分たちの通貨のようにあらゆる会話の中に存在している。この会社の文化の病気は、他の人の肥満に取り組む前に、まず治すべきものだと思います。(p.52)

嘘が明らかになっていく

セラノスの創業期から組織には嘘が満ちていたが、嘘、そしてそれに気づいた人を「忠誠心がない」といって追い出す風潮は、エリザベスより20歳年上のボーイフレンドであるサニーがCOOとして2009年に入社し社内に恐怖政治を敷いて以来、一層強まっていた。また追い出された人が外で何も言わないように、セラノスでの事は一言も誰にも言わない、言ったらセラノスが訴訟する、という秘密保持契約にサインをさせた上、会社は名前を聞いただけで争う気持ちが萎えるよう、アメリカで最も容赦ないことで有名な弁護士を雇い、元従業員からの訴訟の抑止を行っていた。

その中で、少しずつ、立ち上がる人が出てくる。その一人が、セラノスの取締役を務めていたジョージ・シュルツ元米国務長官の孫、テイラー・シュルツである。スタンフォードを優秀な成績で卒業したテイラーはセラノスのビジョンに魅了されて会社に入社した。会社に入ってしばらくは、時折行われるエリザベスのパワフルなスピーチで気持ちが奮い立っていたが、すぐに嘘だらけの実態に気づく。そして、取締役である祖父に伝えた。その行動を支えたのは、このまま実態が放置され不祥事が世に明らかになったら、冷戦を終わらせた国の英雄である90歳を超えた祖父の名声に傷がついてしまう、という孫としての懸念であった。

しかし祖父は一切耳を貸さない。彼はエリザベスの30歳の誕生日パーティーを自宅で開いたぐらい、エリザベスを大切にしていた。ジョージ・シュルツだけでなく、すべての取締役、ウォルグリーンのCEOなど、大成功を収めてきたシニアな男性たち(そして全員白人)は、みなエリザベスに惚れ込んでおり、彼女の言うことを信じ切っていたのである。孫である自分よりもエリザベスを優先したことに失望したタイラーは会社を辞める。タイラーが辞めた後すぐに、タイラーとほぼ同時期に入社しタイラーと友達になったエリカ・チャンも、あまりにもエラーだらけの結果を患者へ送ることに倫理観が破綻し、辞めた。

ここに、“Bad Blood’’の著者、ジョン・キャリユーが登場する。彼は、セラノスの実績にピアレビューの科学的検証がないことを指摘していた病理学者のブロガーからコンタクトを受け、セラノスについての調査を始めていた。そして、タイラーやエリカ、ラボの責任者だった元従業員らと出会い、これは大きなスキャンダルになると確信を深め、さらに調べを進めていく。この過程で、セラノスの検査を実際に受けた人たちの声、その検査結果に不信を抱いていた医者などとつながる。

WSJの調査報道のスタンスは、必ず対象の会社に事前に連絡し、インタビューを依頼する、というものだ。ある程度ストーリーとそれを支えるエビデンスがそろった状態でキャリユーは会社に連絡する。ここから、まるで『ペリカン文書』のような凄まじいドラマが始まる。キャリユー自身、後にこう振り返っている。

That was underestimating whom I was up against.
自分が誰に歯向かっているか、全然わかっていなかった。(p.239)

会社はキャリユーの記事を阻止しようと、あらゆる手段を取った。情報源だと目を付けたタイラー、エリカなどを常時監視する人をつけ、会社の秘密保持契約を破ったので訴訟すると脅迫する。セラノスの検査に懸念を持っていた医者や患者に、時にはサニー自ら訪れ、これからは何も言わないという契約にサインするよう脅す。エリザベスは、特にタイラーに対して怒り心頭で、祖父であるジョージ・シュルツに「孫の行動を止めないなら訴える」と通達し、それに従った祖父が孫を会社の弁護士に引き渡してしまう。しかしタイラーは脅しに負けず、自分にも弁護士をつけて、沈黙を守り続ける。

WSJにもセラノスの強硬な弁護士軍団がたびたびやってきて、名誉棄損で訴えると脅すなど、様々な妨害行動をとった。しかし、WSJの編集者たちはキャリユーを信じ、彼を守り、ジャーナリズムの権利だと脅しに屈しなかった。タイラーががんばり続けていたおかげで、WSJは2015年10月に “Hot Startup Theranos Has Struggled With Its Blood-Test Technology”(ホットなベンチャーのセラノスはその血液検査技術に苦戦している)という記事を発行する。

この記事が出ても、会社は記事は捏造である、キャリユーの妄想であるというスタンスを、メディアでも社内でも崩さなかった。取締役たちは引き続きエリザベスの言うことを信じ続けた。

しかし、ここでエリカの勇気ある行動が、事態を加速させる。常に監視がつき怯えながらも、エリカは規制当局に告発したのである。すでに記事を読んで疑念が高まっていた規制当局は、徹底的な調査を敢行し、セラノスのラボの水準がひどすぎる状態であることを報告した。改善まで執行猶予期間を設けたが、その後もほぼ改善が見られなかったため、ラボの閉鎖を命じる。ここからは、堰を切ったように、投資家からの訴訟、患者からの訴訟、さらには証券取引委員会からの告発が続き、エリザベスとサニーは多数の訴訟の被告となり、会社は解散となった。

多くの人の勇気

会社が隠し続けた嘘が明らかになるには、多くの人の勇気が必要だった。まずは、タイラーやエリカなど、元従業員の勇気だ。サニーが常時従業員のメールを含めたすべての行動を監視し、辞める際にはセラノスのことは外で一言も話さないことを強制する秘密保持契約を結ばせ、元従業員の行動も常に追跡し、絶対に勝てないと思わせる強面の弁護士を雇う。そうした状況の中で、キャリユーに話をすること自体が勇気がいること。さらに会社がキャリユーの記事に気づいてからは、会社からの執拗な脅迫を受けながら、彼らは自身を保ち続けた。実に大きな勇気である。

そして、キャリユーの、WSJ編集部の勇気。ジャーナリズム精神ここにあり、という態度であった。また、WSJを含む多くのメディアを所有するルパート・マードックもその精神を体現した。WSJ記事の阻止の一環として、エリザベスはマードックに近づき、彼はセラノスの最大の投資家になった。エリザベスは、オーナーとしてWSJ記事を阻止してほしいと何度も頼んだが、マードックは「私は彼らのジャーナリズムを信頼している」といって、その依頼を受けなかった。WSJの記事が引き金となったセラノスの崩壊により、彼は1億ドル(110億円!)の損を被る。自分の利益よりジャーナリズム精神を優先したのは、称賛されるべき勇気である。

その後

あまりにも“Bad Blood’’が面白かったため、主要登場人物たちのその後も追ってみた。まず、訴訟真っ最中のエリザベスだが、スキャンダルが大ごとになったと同時に10年以上つきあっていたサニーを捨て、新しい年下の恋人と婚約し、なんと最近結婚した。新しい恋人は、大型ホテルチェーンの後継者で大金持ち。彼とエリザベスが仲良くデートをしている写真をSNSにアップした時は、「これだけの人の命をリスクにさらしたのに、こんなに楽しんでどうなの?」とちょっとした騒動になった。なお、このエリザベスにぞっこんの彼がエリザベスの巨額の訴訟費用を負担するらしい。エリザベスはさらにいずれまた起業したいということも言っているようだ。キャリユーは「その判断は心理学者に任せるが」と前置きした上で、エリザベスが良心をもたず他人の痛みが理解できないソシオパスである可能性を示唆している。

エリザベスのその後はなんだかもやもやする一方、うれしいその後もある。テイラーは、医療検査リサーチのスタートアップを立ち上げ、ヘルスケア業界の新たなリーダーとして頭角を現しつつある。そして、エリカと一緒に、Ethics in Entrepreneurship(起業における倫理)という団体を立ち上げ、起業家がセラノスのようにならないようにする活動を開始した。

セラノスのような大嵐に巻き込まれることはそうそうないかもしれない。でも小さな嵐ならどこにだって起こり得る。もしこれから嵐に巻き込まれることがあったら、テイラーやエリカのことを思い浮かべ、勇気を奮い立たせ、自分の心に正直に行動し、そして嵐からの学びを次につなげられたら、と心から思う。

ちなみに、事実は小説より奇なりのこの物語は、ジェニファー・ローレンスがエリザベス役で(確かに似ている)2020年に映画となるそうだ。今からとても楽しみである。

執筆者プロフィール:山崎繭加 Mayuka Yamazaki
マッキンゼー・アンド・カンパニー、東京大学助手を経て、2006年より2016年まで、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)日本リサーチセンター勤務。また2010年から2017年まで、東京大学医学部特任助教として、グローバル人材育成にも関与。著書に「ハーバードはなぜ日本の東北で学ぶのか」(ダイヤモンド社)。現在、華道家として活動を行いながら、ハーバード・ビジネス・レビュー特任編集委員、宮城県女川町研修アドバイザー、慶應義塾大学公衆衛生大学院非常勤講師なども務める。東京大学経済学部、ジョージタウン大学国際関係大学院卒業。


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こんにちは。「健康産業は大ブーム」というタイトルの私のnote記事の中で、こちらの記事へのリンクを貼らせていただきました。よろしくお願いします。
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