【読書メモ】『日本国憲法はどう生まれたか? 原典から読み解く日米交渉の舞台裏』(著:青木高夫)
本日(令和6年5月3日)は憲法記念日、岸田政権下での憲法改正発議も現実味を帯びてきている昨今、もう一声、国民からのプッシュも必要だなぁ、なんて、江崎先生の論考も拝読しながら。
私自身、法(ルール)は時代時代にあわせて変えていくべきと思いますし、日本人として大事にしたい原理(プリンシプル)を維持できるのであれば、自然と解釈も含めて変わっていくものでもあろうと考えています。なお、ここでいうプリンシプルは「国体」や「国柄」との言葉でも表現できると、個人的には。
まぁ、今の自分の考え方が100年後にもそのまま通じるとは到底思えませんし、それは「今どきの若いものは」なんてフレーズが遥か古代ローマの頃から残されていることからも明らかだよな、なんて考えながら思い出したのが『日本国憲法はどう生まれたか? 原典から読み解く日米交渉の舞台裏』との一冊。
少しご縁をいただいたこともある青木高夫先生の著作で、他にも『白洲次郎に学ぶビジネスの教科書』や『なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか』、『株主指向か 公益指向か』など、海外も含めたビジネスの最前線で成果を積み重ねてこられた経験からくる、非常に説得力のある論考を丁寧にまとめられています。
さて本書で面白かったのは、一次史料を主体としつつ日米双方の視点から追いかけている点で、終戦直後からの日本国憲法の成り立ちの一つのアプローチとして非常に興味深く拝読させていただきました。
この言葉に代表される白州次郎さんの「ジープウェイレター」は有名ですが、松本国務相の「欧米のバラを日本に移植しても香気を失う」もなかなかに洒落た言い回しではないかと思います。
こんなやり取りが、原文も交えながらまとめられているのが非常に興味深かったです。惜しむらくは、自分の英語力のなさでこれらの文脈を十二分に楽しめなかったことでしょうか。
今の憲法は、GHQから押しつけられた憲法であるのは間違いありませんが、この憲法(ルール)にこめられた原理(プリンシプル)は立派なものとの見立て。でも、その強要性について明言されずに70年以上が経過しているのは「護憲」と言う名の思考停止状態に陥っているよなぁ、ともあらためて感じます。
であれば、きちんと向き合って考えていけばいいと思います。今の憲法をゼロから作りかえるのではなく、核となる原理(プリンシプル)を踏襲する形で、今の時代の情勢にあった憲法(ルール)に改正していくとの観点で。
同時に意識しておきたいのが、少し前から「ヴェノナ文書」やイギリス所蔵の「最高機密文書ULTRA(ウルトラ)」で、戦前の日米政権の中枢が「コミンテルン」による赤化運動に汚染されていたとの事実がつまびらかにされ始めている点。もちろん日米に限った話ではないのでしょうが、、先の大戦の終戦前後はこの赤化の脅威が今以上であったのも見てとれます。
ソ連だけではなく、当時の豪州がこういう流れであったのはなんとも興味深く、GHQの中でも赤化具合が酷かったとされる民政局の怪しい動きもあわせて見てみたいところ、、最新の研究成果も俯瞰しておきたいかな、少し調べてみよう。
個人的に「共産主義という価値観」が存在することを否定はしませんが、共産主義が人々の考え方や価値観の多様性を許容できない、またその不可逆性からも、一生涯に渡り私個人が受け入れることは無いと断言できます。
歴史的にも、ソ連と言う壮大な社会実験は大量の犠牲者を出しながら失敗と終わってますし、また共産主義の排他性が民族浄化(エスニッククレンジング)という最悪の形で噴出してしまっている共産中国(CCP)を見れば、現在進行中の実例も上げられましょう。
イギリスの歴史学者・トインビーの言を借りれば、「12~13歳までに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅びている」となります。そういった意味では今年、竹田恒泰先生が編んだ『国史教科書』が文部省の教科書検定を通ったのは中々に興味深い動きでもあります。一般販売されたら是非とも拝読したいところ、神田の三省堂なら普通に取り扱ってもくれそうですが、楽しみです。
なんとも欧米らしい割り切り様ですが、ルールとプリンシプルを混同しがちな日本人からみると、少々うらやましくも。マハンの言う「平和は、われわれの直面している状況を無視することによって達成されるものではない」との言も念頭におきながら、プリンシプルを見失わずにルール作りをしていきたいところです。
なお、アレなメディアがたまに誤導させようとしていますが、戦前の日本も憲法に基づく立憲体制でありました。その体制が、左右問わずの全体主義者とそれを扇動したオールドメディアらによって骨抜きにされていったとの歴史上の過ちもまた、忘れないようにしておきたい所です。
憲法(ルール)は盲目的に護るものではなく、原理(プリンシプル)をもって現実と向き合いながら使うものです。そのためにも時代の特性を踏まえて、要所要所で適合させていく必要もあるなぁ、なんて風にも。
まさしくこの今この瞬間、戦後が「歴史」へと転換しているのかも、とも感じながら、「改憲」に向けてもう一押ししていけるよう、丁寧に考えていきたいところです。
そして、間違っても「立憲共産党」として大同団結しつつある「左右の全体主義者(勢力)」に踊らされることの無いよう、同じ過ちを繰り返さないようにとの点にも細心の注意を払っておかないと、なんて考えさせてくれる一冊です。
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