見出し画像

【読書メモ】『COURRIER JAPON(2013/6/6 vol.103)』

教養というのは、そのような意見を一致できないものについてしっかり議論したり、そのためにまず考えたりすることができるようになるための土台になるものです。そのようなことは古典を通じてわかるように、われわれの先人たちが繰り返し議論し考えてきたことでもあります。だからこそ古典を読むべきなのです。

暗記や知っていることを増やすことで、現在の場に安住し、権力性を強固にすることは教養ではありません。そうではなく、古典に代表される教養や知に触れることで、それまでの常識が揺さぶられ、崩れるような経験をすることこそが教養なのです。

出典「大学の教養教育を「資本の論理」からどう守るか
加速する資本主義社会における「知識人の使命」」
(「100年企業戦略研究所」2024年7月17日)

少し前に「役に立たない(金にならない?)研究なんて」とか放言されていたコメンテイターさんがおられたようですが、それでふと思い出しのが『COURRIER JAPON(2013/6/6 vol.103)』、もう10年以上前の雑誌です。

確か「教養」とのフレーズに惹かれて購入した覚えが、まだ比較的まともだった頃の佐藤優さんが講師的な立ち位置だったかな。

教養とは「学術的な『知』を生活と結びつけて活用する能力」

出典:『COURRIER JAPON(2013/6/6 vol.103)』

教養とは教えられるものではなく、自らで育てていくもなんだなぁ、、とあらためて実感したのを覚えています。そして、育てるには基礎知識が必要だなぁ、、とも、常に知識をリライトして価値観の再構築をしていかないとですね。

「自国の歴史」を語れなければグローバルな教養人とはいえない

出典:『COURRIER JAPON(2013/6/6 vol.103)』

なお、教養のレッスン素材として「宗教」や「ワイン」、「文化的素養」などを挙げられていますが、個人的には「"自国の歴史"を語れなければグローバルな教養人ではない」との点に強く共感した覚えがあります。そしてその題材として『逝きし世の面影』や『ハーバード白熱日本史教室』などもあげられていて、やはりこの頃は真っ当だったなぁ、なんてあらためて。

そして、イギリスはさすが教養を前提としたエリート教育がしっかりしていて「イートン」の在り様は凄いなぁと。戦前の日本でも同様のエリート教育を行っていたとのことですが、、欧米、特にイギリスのエリートと渡り合うためには「文化的素養」が必要で、それには戦前の教養の高さを再び取り戻していかないと、なのでしょうか。

なんて、『「武士道」解題-ノーブレス・オブリージュとは』をアウトプット前提で久々に読み返してみようかなぁ、とか考えながら、パラパラと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?