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往復書簡#2『きょうのできごと』|女ふたり、読んでいます。


芥川賞候補作のすべての著者が女性という見出しと、作品の内容よりも大きく取り上げられた作家の顔写真をみて、今朝の私は静かに怒っていたのだった。N/Aの年森さんは性別を明かしていない状態だったわけだけれど、こんなふうにカテゴライズされることによって、結果、性別を世に公表することとなり、さて、今、何を思うのか。そもそも彼ら彼女らが生み出す物語を、紡ぐ言葉を、待ち望んでいる私には、性別や姿などの情報は全く必要のないものであって、話題作りのためだけにそうしているのならば安易すぎて、ちょっといただけないです、という具合。りなさんはどう思いますか。



と、突拍子もなく話しはじめてしまいましたが、私のきょうのできごとを語るとするならば、これらの静かな怒りを見過ごすわけにはいかなかったので、というのは大義名分でありまして、本を愛する人に聞いてもらいたかったというところが本音でしょう。さて、私の本音なんてものはおいておき、もうひとつの本題『きょうのできごと』についてのことを少しばかり話させていただくとします。


まずはお返事を。きょうとあしたの境目を強く意識したのはいつだったのか、りなさんと同じく、はじめて夜更かしした夜は大晦日で、だけど、なんとなく明日になったという感覚は薄く、とするならば、いつ、と考えると、クリスマスの夜。0時を過ぎるとサンタさんがやってくる、明日がくる前に眠らなければプレゼントがもらえない、そんなふうにして、唯一、一年に一度だけ今日と明日の境目を強く意識していたようにおもいます。うん、たぶん。


そして近頃の生活では、きょうとあしたの境目にはいつもあしたのお弁当のおかずを拵えておりまして、といっても、やはり境目であって、作り終わるころにはきょうのお弁当のおかずになっているわけですが、その曖昧さはまだ私を明日へは連れていってくれないものであることは確かなようにも思え、それでもそれがきょうといわれれば、きょうなのかもしれないし、とはいっても、なんともいえないこの往生際の悪さだけが目立ってしまって格好悪い。詰まるところ、私も、りなさんと同じく、眠って、起きた朝がきょう、という認識なのでした。




それにしても、遠い昔の記憶をたぐりよせずとも、自然に思い出すことのできる、そして思い出しては少し恥ずかしくなったり、後悔したり、過去と現在をそうして行き来することのできる小説ほど、良いものはないなあと。柴崎友香とはそういった作家なのでしょうか。これからりなさんと彼女の作品をぐんぐんと読みすすめていけること、今からとても楽しみにしています。



さて、最後に。


どこかへいきたい、と願った場所にたどり着いたとしても、それはもうここでしかなく、あしたになれば、と願った明日は、やはりきょうであって、そうしていつの間にか昨日となり、記憶にもとどまることのない過去へと流れつき、私はまたなにかを忘れ、きょうを生きていくのでしょう。いつかはこの書簡も随分と遠い昔の話になり、その頃の私たちはまだ本を読んでいるのでしょうか。そのときに、こうして顔も知らない、ただ本が好きだというふたりが、同じ本を読んだこと、このたのしい読書の記憶が僅かでも頭の片隅に残っていたならばと、きょうの私は思うのでした。


それでは、また。



2022年6月17日金曜日21:40
網戸から入る風がまだすこし冷たいです。



よろこびます。