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20220727|ことばの途上


晴れ

朝、酵素ドリンクをのみながら『ことばの途上』を読みおえる。おにぎりを拵え、仕事へと向かう。とても慌ただしく、一向にやらなければいけない仕事が終わらないという状況が退勤時間ギリギリまで続き、解せぬ、という具合。がしかし、そういう日もあるわけで、そういう日があるからこそ、誰かのやさしさに触れることができるのであって、一人では生きていけないなんて、わかっているはずなのにね、と帰りの車内で思ったりした。



さて、
岩瀬崇著『ことばの途上』について少しばかり。


岐阜県郡上市最奥の集落、標高700メートルほどの場所に位置する石徹白(いとしろ)という場所にて、古民家をみずから改修し、家族と居を移すまでの約五年間におよぶ記録。形式としては、散文、あるいは詩、ときには書物からの引用など様々なものが存在し、移ろいゆく季節とともにあらたな生活を積み重ねながら「ことば」と真摯に向き合う様が記されていく。


自らの精神の栄養となるものを求めていない今の私の生活態度というのは、裏返せば、安息な日々に浸りきっていることを意味しているのであろう。張り合いのない、弛んだ生活を繰り返すだけなのであれば、あえて裂け目を入れられることや、また裂けてしまった所をどうにかして縫い合わせようなどという気など起きるはずもない。
『ことばの途上』岩瀬崇 p.18



物事ひとつずつの捉え方、そしてそれらを自らの「ことば」として生み出す姿勢に、何度も心が震える。しかしこんなにも揺らされる心とは裏腹に、はじまりからおわりまで、ずっと静寂に包まれていた。もうすでにこの本自体、纏う空気が特殊であり、それを手にしてしまったが最後、私はこの世に一人で息をしているのではないかと思うくらいの静けさとともに読書に没頭することとなる。「ことば」と向き合うというのはそういうことなのだろうか。


誰かとの関わりのなかで、あるいは何かを見て、触れることによって得られる感情と、それを言葉として生み出す孤独というのは、おそらく隣接しているだけであり、うん、ほんとうに、もうすこし「ことば」にすることへ真摯に向きあいたいと心底思った。


一見すれば同様に羅列された文字群の中に、人は、その人独自の、その人固有の解釈をすることが出来る。自分の内部に流れる「ことば」を、「他者」を、そして「現実」を浮上させることが出来る。誰かの「ことば」において発せられた文章は、誰かに「ことば」を想起させ、誰かの「ことば」を押し進めることができる。
同上 p.203


時には思考が追いつかず繰り返し読む頁も存在し、それでも繰り返し読んでいると、いつしか腑に落ちる瞬間がきて、そうして時間をたっぷりとかけながら読みすすめられたこの書物は、これからも幾度も読むことになる一冊であると、確かにそう思わせる素晴らしいものでした。


なにもかもが、美しい本。
余白もいい。



お風呂にはいって、寝ます。
それでは、また。


よろこびます。