なぜ私はことばを書くの?

昨日ある方とオンライン飲み会をしていて、その時に「Twitterであんなに呟いているのはなぜ?」と聞かれて、その時は言葉でうまく説明できなかったのだけれど、寝て起きてふとゆったりした時間を過ごしていたら、きっとこうなんだろうなという答えが見つかったので書いてみようと思う。

私がTwitterでたくさん呟くという行動の理由は
、「自分の心が動いたことがあった時にそれを記録しておきたいから」、だ。
だれかに「素敵だね」とか「わかるよ」とか「すごいね」って言ってほしい願望はなくて、ただ自分のために文字にしている。
だからほかのひとからすると尋常じゃない量の文字を打ったりもする。

人付き合いを重んじる人で1日に何ツイート以上したらタイムラインを荒らしてしまうとか考える人もいると思うけど、私にとってそれはどうでもよくて、私はフォロワーが1人もいなくてもツイートし続けるし、Twitterで自分がツイートを見たい人だけをフォローしているし、私のツイートがうるさければフォローなんか外せばいいと思ってるし、ミュートとか変に気を遣ってもらわなくても大丈夫だと思っている。

ただ本当に自己表現をしているだけで、それを他人に強いたいとは微塵も思わないし、なんなら他人に与える影響とかも考えるのも面倒だ。
だってこころや頭で考えたことを記録したいがためのツイートだから。

だけれども、知らず知らずのうちにツイートを見てくれた人が私の何気ない言葉に刺激を受けたと言ってくれたり、気持ちを代弁してくれていると言ってくれたり、感性を大事にしようと思えたと言ってくれたり、自分も発信したくなったと言ってくれることが増えたから、それなら多少呟く内容に気を遣わなくちゃいけないなぁと思い、人に心配をかけてしまうようなことや、だれかを不快にしてしまうおそれがあることはTwitterに書かず、ここに書くようにしている。
ここでの私はTwitterの私よりもっと素で、もしかしたら激情的にうつるかもしれない。

話は変わるが、人はネガティブな感情を隠しすぎだと感じることがある。
皆苦しんで超えた壁があり、そのときは苦労したり辛くなったりしたのに、それを表にださない。
我慢が当たり前だ。
ネガティブな感情を表に出さないことが当たり前だ。
たしかにそれは見る人が不快にならないようにするという思いやりからの行動かもしれないが、同じように苦しい環境に置かれているひとや、人生どん底だと思っているひとからしたら、自分だけじゃないんだと思えるきっかけになりはしないか。
ならないか、、、知らない。

あるいは自分の失態を晒すことによって、失敗をしても人生を立て直すことができると思えるひとが出てきはしないか。
出てこないか、、、知らない。

私はよく小さい頃から、多才だね、と言われてきた。
ぜんぜん多才じゃないし、器用貧乏という方がしっくりくる。
それで大学を卒業してから発信活動をはじめて、それが軌道に乗ってくると今度は「ゆうちゃんに才能があったからできたんだよ」と言われるようになった。
「才能の人だね」「才能があって羨ましいなぁ」って。
でもそもそも才能と呼べるほど質の高い物を世に出せているかというとまだまだだし、それに才能というのは「自分に向いていること」をいうのだと思う。
自分のなかであれこれ考えるのが得意な人もいれば、ひとと話すことによって考えることができるひともいる。
自己主張するのが得意な人もいれば、他者の意見を引き出すのに長けている人もいる。
長けているところは人それぞれで、そしてそれが才能だと思う。
世間一般で才能と呼ばれているのが、例えば歌唱力、演技力などの表現力に限られてしまっているのがまずはおかしな話だ。
仕事を計画通りに実行できることや、目の前のものを注視し欠陥に気づくこと、システムの中により効率的にできる部分を見出し改善していくことができることも才能だ。

そもそも私は超普通の人間だし、たしかに感性
人より鋭いかもしれない。
しかし劣っているところの方が断然多い、超超社会不適合者だ。
お金の管理をするのがめちゃくちゃ苦手で、お金のことを考えているとイライラしてくる。
行動が遅くてどんくさい。
体型の管理も苦手だ。
人に自分の意見をいうことができたりできなかったりする(信頼関係が構築されていないと自己主張ができない)。
計画を立ててもなにかトラブルがあったときに精神的にダメージを受けて1日2日計画が遅れることもそりゃもうしょっちゅう。

で、これに小さいときからコンプレックスを抱えていて、直そうとはしてきた。
それで実際に矯正できたこともある。
でもやっぱりそれが得意にはなれない。
必要だからやるけれども必要以上はやりたくない、できるなら人に任せたい、と。

そういうものは才能ではない。
でもそれが得意なひともまたいる。
じゃあそれぞれが得意なことをやれば、もっと効率が良く成果が出るんだろうと思う。

結局なにが言いたいかというと、人は皆才能を持っていて、それを皆が生かせることが皆のメリットになるということ。
そして私はその才能を見つける過程(ネガティブな面も含めて)や見つけた後の成長を不特定多数の人に公開することによって、超普通のひとが面白い大人へと、才能を開花させたひとになる様子を見てもらい、前向きになってくれたらな、と思っている。
けどそれは人が自分の呟きを見てくれるようになったその後からついてきた二次的な感情であり、やっぱり自分の人生を記録したいという欲求に敵うものではないが。

だからかっこつけない、ダサい部分をたくさん出したい、ありのままの私はダサくて失敗だらけなんだから。
それでたまーに努力(というか過程と言った方が適切だ。自分のしていることを努力だとは思わない)が報われることがあるだけなんだから。
それで結果だけが取り沙汰されるんだから。
だからそうじゃないよと、過程をあけっぴろげにしていきたい。

ここまでが私のTwitterを呟く時の気持ち。

以下は私の行動について思うところを書いてみようと思う。

基本的に私の行動のモチベーションは、「気になる」だ。
道端の花に吸い寄せられるように近寄ってしまうのも、ウィンドウショッピングをしていて物を手に取るのも、人と仲良くなるのもすべて「気になる」から入る。
これはもしかしたらみんなそうなのかもしれないけれども、私の場合はその気になるという感情が自分の内面から発せられていることが大半だ。

例えば、どんなに素晴らしい営業トークを聞いても自分にとって要らないものを買う気になることはない。
潜在的な欲求というのは自分が一番わかっているから、そのとき欲しいもの以外の話を聞くのは結構苦痛だ。
自分が全く必要でないと思っているウォーターサーバーの話をどれだけ聞いても、それに維持費がかからないことを主張されても「だって要らないし」という結論に落ち着く。
それと反対に、潜在的なものも含めて自分が欲しがっているものに対してはとても鋭いアンテナが立っている、気がする。

自分が欲しいものに気づく鋭さがある。
街を歩くときはぼーっとしていて(というよりなにか考え事をしていて)、気がついたら目的地にいるということがとても多い。
電車の中なんかは記憶がないくらい、考え事の世界に行ってしまっていて、乗り換えすら記憶がないこともある。
こう聞くと結構やばい人だな。。

ナビを必要とするところなんかは、ぼーっとしながらナビだけ見ていれば目的地にたどり着いているから、道も当然覚えていない。
周りのことは雰囲気くらいでしか見ていない。
車には轢かれない、人にもぶつからない、電柱にもぶつからない、それは視界には入っているから。
けどそういった情報を、避けなければならないものは避けるけれども基本的に無視している、脳の中の情報から削除しているのだと思う。

しかし一応視界には入っているから、自分がピンとくるものには気づくことができる。
ピンとくるというのも言葉で説明するのは難しいけれども、だれかがそんなことを言っていたな、自分がこれについて調べていたな、と思うことが多いかもしれない。
こういう勘は、皆少しは持ち合わせているんじゃないだろうか。

そういう勘が、なにか情報を得るときにはよく働く。
自分の必要な情報が必要な時に必要な量だけ入ってくるようになっている。

そうしてその得た情報をもとになにか思考して、やりたいことが生まれて行動に移す時、これまたとても不思議なことなのだが、この段階に関しては私も予測することができない。
気がついたらやりたいことができてしまっている、そんな状態になっている。
うーん、これはどう説明しようか。

自分が明確な目的、思考に思考を重ねて答えを出したやりたいことというのは、大体の場合「なんだかうまくいく」気がしてくる。
で、なんだかうまくいく気がしているし、自分が考え抜いた結果のことだから人に話したくなる、そうして自分の夢を自信ありげにべらべらと人に喋りまくる。
そうするとそれを聞いた人は、幸いにも私のその考えたことが面白いと思ってくれて(周りのひとからあまり聞かないような内容ゆえ)、ほかの人に私の話をしたり、なにか私の夢についての情報を手に入れた時に連絡をくれたりする。
そうして私は新たな情報や、人とのつながりを得てまた思考する。
そして話す、そして聞く、話す、聞く、話す。
そうしているうちに今度は、私の夢や目標達成のために実行力をもって協力したいと言ってくれる人が現れる。

私は自分に実行力があるとは思っていない。
体力がないし、なにか実行するときは注意力が散漫だから効率が悪い。
何かを考えるということに長けている分、身体的な発展をしていないように思う。
脳ばかり成長した、そんな感じ。

実行力をもって私の夢を一緒に叶えてくれるという人が現れて初めて私の目標や夢は現実になる。

つまり私はこれまでの人生で、自分1人で何かをなしとげたことが何一つない。
周りの人が動いてくれたことばかりだ。
人に裏切られたことというのも本当に記憶にない。
めちゃくちゃひとに恵まれている、こころからそう思う。

それで私はきっとこれからの人生もそうやって生きていくんだろうなと思っている。
ひとに頼りながら生きていくんだろうな、って。
もうそこは強がっても仕方ない、だってできないもんはできないんだもん。

でもそれでいいじゃないかな、これくらい肩の力をぬいて生きられる人が増えればいいなと思う。
というより、かんがえすぎて、死ぬ人を減らしたい。
もうほんと、それだけ。
悩んで死ぬ人は誰かが助けてあげることができたら死ななかったでしょう、って思うの

まあこの話は長くなるからこのへんで。


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