見出し画像

「お断り」の経験値(後編)

前回までのあらすじ
断ることが苦手な私は、フィットネスクラブの無料体験を断ることができなかった。
アラサーにもかかわらず血管年齢は老婆並み。ヤバいと思いつつも金銭的なゆとりがないため、あまり入会するつもりはないのだけれど……。
はたしてきっぱり断れるかしら、ドキドキ。

↓前回はこちらから

いよいよ迎えた体験当日。
集合時間の5分前にお店の前に行くと、ずらりと年配の女性たちが列をなしておしゃべりに興じていた。
みな蛍光色のスポーツウェアに身を包み、軽やかなメッシュのナップサックを肩から下げている。普段からここに通っている人たちなのだろう。
元気よく弾ける彼女たちの中で、おむすびが描かれた深緑色のTシャツにダボっとした紺のズボンを履いた私は、己のくすんだ異物感に萎縮してすでに帰りたくなっていた。

ほどなく時間になりドアが開くと、前の回に来ていた人たちが一斉に出てくる。
途端に飛び交う、黄色い声。
きゃー! 〇〇さんじゃなーい!
元気だった? 最近時間被らないわね!
出てきた女性たちと並んでいた女性たちがブンブン手を振り合い、笑い合う。

おそるおそる彼女たちの後ろについて店内に入ると、「あっ! るるるさーん!(私の下の名前)お待ちしてましたぁ〜♪」と受付から数週間前に私の血管年齢を測定したお姉さんが走り出てきた。

ひいい!

下の名前で呼ぶタイプか、と身構える。

世の中には初対面から下の名前やあだ名で呼ばれがちな人と、かなり親しくなるまで苗字+さん付けで呼ばれる人がいる。
また、初対面の相手を下の名前やあだ名で呼べる人と、かなり親しくなるまで苗字+さん付けで呼ぶ人がいる。

必ずしも名前やあだ名で呼ばれやすい人が他の人を名前やあだ名で呼びがち、というわけではないのだけれど、呼び方、呼ばれ方にはそこはかとなく相関関係があるような気がしている。

そして私は、呼び方、呼ばれ方ともに苗字+さん付けの人間である。
あだ名も苗字ベースのものが多いので、ごくたまに名前で呼ばれる機会があると、ついどきりとしてしまう。

が、このフレンドリーさに心を許してはならないとすぐに気を引き締めた。
これは人の温もりに飢えた不健康なうすいさちよを嵌める罠だ。
親しみやすさにつけ込まれたら、高い月謝を払わされるに違いない。

私が勝手にドギマギしたり口をキュッと引きむすんだりしている間、お姉さんはハキハキと筋肉がいかに大切か、この施設のマシンがいかに素晴らしいか、このクラブがいかにお客さんたちから支持されているのかを熱弁していた。

直近ではどんな運動されました?」と水を向けられて、ぐっと言葉に詰まる。
二週間ほど前にゲーセンでワニワニくんをボコボコにしたことくらいしか思いつかない。
とはいえこの場でワニワニくんを運動と呼ぶのは、かなり気まずい。
仕方なく「思いつかないですねえ」とだけ答える。

その間、色とりどりの女性たちがせわしなくマシンを渡り歩いていた。
12台のマシンを30秒ずつ2周することで、適切に筋肉がつくうえ筋肉痛にもなりにくいという。

どっからどう見ても、一周でギブじゃん。

女性たちが腕を広げたり縮めたり、足を上げたり下げたりしている間、機械からシューシューと吐息のような音が漏れているのも、生きもののようで怖かった。
聞くところによると、この空気圧が使用者それぞれにとっての適切な負荷となるらしい。
早く動かせる人には重く、あまり動かせない人には軽く感じるそうだ。

こうした筋トレマシンをじっくり見るのは初めての機会だったから、私はすっかり圧倒されてしまった。
一心不乱に機械に向かっていく彼女たちの背中は鬼気迫るものがあった。
筋トレに没頭しているのは私よりも二回り、ひょっとしたら三回り年上の人たちばかりなのに、みんな私よりもはるかに健康そうだった。

そして悲しいことに、その不安は的中した。
体力測定として片足で椅子から立ち上がる「片足スクワット」や腹筋、長座体前屈などをしたところ、柔軟性を見る長座体前屈を除いたすべての項目が同年代はおろか、かなり上の年代の平均値よりも低かったのだ。

……血管年齢だけではなかった。
筋肉までもが、老婆並みだったのだ。

でも私、普段週に1、2回は30分から1時間くらいの長めの散歩をしてるんですけど……。
釈然としない思いで反論を試みると、「そうそう!そう言う方多いんですよ〜!大学教授の詳しい説明動画があるので、ぜひ見てください!」とヘッドホンとアイパッドを手渡された。
いかめしい顔つきをした教授は動画の中で、ウォーキングなどの有酸素運動と筋肉アップは関係ないと断言しやがった。
いくら歩いても、太ももの筋力アップには繋がらないらしい。
これまでの私の努力っていったい……。

一度心が折れればその後はもう、お姉さんの言うなりである。
彼女に勧められるままに腕と肩の筋トレマシンを試し(きつかった)、太ももの筋トレマシンを試し(しんどかった)、ストレッチをした。
体験後の身体はくたくただったけれど、その疲労は不思議な充足感に満ちていた。
あまり動かしたことのない筋肉が「ここもあんたの身体なんだよ!」とアピールしているかのようなジワリとした痛みに、自分では信じていなかった身体の可能性を目覚めさせられたような思いだった。

今すぐにでも眠れそうな身体の緩みを感じながら最初に説明を受けた小さな椅子に座ると、お姉さんがパンフレットを持ってきた。
今日、今この時間で申し込んでもらえると入会金がぐんと下がるんですよ〜」と弾んだ声で言う。

ついにきた、お金の話だ。 


実はこの時点で私は「金額によっては、入ってもいいかも」と思っていた。そのくらい、身体を動かすのは気持ちよかったのだ。
入会金が安くなるのは嬉しいけれど、肝心なのは月謝だ。
パンフレットの入会金部分を指していたお姉さんの指が、スッと月額料金の欄に下がった。


月々6000円ちょっと、ですって?

眠気に引きずられていた自分の頭が猛ダッシュで駆け戻ってきて、勢いよくそろばんを弾きはじめた。

毎日出社が日常になってきたうえ、通勤には一時間ほどかかるから、おそらく通えても週一だろう。
月に5回通うとして、一回30分制だから……30分あたり1200円
もちろん立派な機械やコーチの存在も大きいのだろうけど……これは痛い。

せめて週二で通って一回あたり600円にまで下がれば、まあ許せるかも。
いや、文庫本一冊と同じと考えるとちょっとなぁ。

じゃあ……週三?
400円なら値段的には許容範囲でも、今度はそんなに通えるかどうかが引っかかる。
ていうかもうすぐ緊急事態宣言が明けるじゃん。毎日出社の日常が戻ってきたら、週三で通うなんて不可能じゃないか。

……いかん、いったん冷静になろう。
①今の働き方のまま、週一で通う(30分1200円
②週に一度テレワークor定時上がりと定めて、週二で通う(30分600円
③週三で通うために、テレワークを自主的に延長するor転職する(30分400円

身体にも一回あたりの金額的にも、一番望ましいのは③である。
今すぐには決断できないけれど。いつか筋トレをちゃんとやろうと思ったら、ここに通いたい。

そう伝えたら、「実は私もそうだったんですよ。全然違う仕事に就いていた時はここの会員だったんですけど、あまり通えなくて。もっと身体のこと知りたい、鍛えたいと思って仕事辞めたんです」と笑ってくれた。笑顔が眩しい。
職を辞してコーチに転身。彼女にとって、筋トレは職種を変えるほど魅力的なものなのか。
激動の人生を聞いてしまった。

私もそうだったんですけど、るるるさんの年齢だとここの月謝はまだちょっと厳しいですよね〜
そう言ってお姉さんは、パンフレットを折りたたみ始めた。

いったい誰が予想しただろうか。
決然と「お断り宣言」をすることもなく、入会延期が完了してしまった。
……いい人すぎやしないか

この数日間練っては消し練っては消してきた「お断り宣言」が不要になったことに安堵しつつ、「またいつか!お待ちしてまーす!」と手を振ってくれるお姉さんに小さく手を振る。

前回あれだけうだうだと書いた「お断り」の経験値は、お姉さんの心遣いで1ポイントも上がらなかった。

けれどきっと、これでいいのだ。

この記事が参加している募集

最近の学び

休日のすごし方

お読みいただきありがとうございました😆