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そばぼうろの夫婦

新婚旅行への出発前日、私の部屋では熾烈なトーナメント戦が行われていた。
旅先に持っていく本」決定戦である。
私は旅行に行くとき、たいてい二冊本を持っていく。
日常に帰るための本と、一度は読んだはずなのにあまり内容を覚えていない本だ。

日常に帰るための本は、津村記久子著『ポトスライムの舟』に決まった。
2009年に芥川賞を受賞した小説である。29歳の主人公が年収と世界一周旅行の費用が同じ金額であると気づき、その費用を貯金することをモチベーションに奮闘する話。

読み終えると前向きでも後ろ向きでもなく、「よっこいしょ」と立ち上がるような気持ちになれる本だ。
本来は日曜日の夕方に読んで月曜に備えるのにふさわしい本なのだけれど、きっと旅行を楽しみ尽くした飛行機のなかで読めば、やる気はどうあれ出社する元気は出るだろう。

そういえば先日年下の友人から、私のエッセイ集『春夏秋冬、ビール日和』を卒業旅行に持っていったと聞いた。
帰りの飛行機のなかでこの本を読んだ彼女は、家への恋しさが爆発したらしい。
「旅行自体はとっっても楽しかったんだけど。早く一人暮らしのアパートに帰りたい〜、あのさえない日々が恋しい!って胸がキュっとなった」とお土産を持って会いに来てくれた。「さえない日々」って、と苦笑しつつもとてもありがたかった。

さて。『ポトスライムの舟』が早々にリュックに収められた一方で、あまり内容を覚えていない本の選抜は難航した。
せっかくだからできるだけ、トロピカルな本を持っていきたい。
普段私は、図書館や友だちから借りて、よっぽど好きだった本だけ買うようにしている。
何度も読み返したい本だけ手元に置いておきたい派なのだ。

そんなわけで私の部屋に置いてある本は全部もう一度読みたいお気に入りの一冊ではあるはず……なのだけれど、全然内容が思い出せない。

「これはたしか、内容よりも文章が特徴的な本」
「これは、外国でままならない本」
「これは、著者のおすすめ手土産を絡めたエッセイ」

そんなぼやっとした印象を挙げながら、もっとも内容を覚えていない本はどれかと吟味する。
そうして浮かび上がったのは、江國香織の『ウエハースの椅子』。

たしか、やどかりが出てくる話だった気がする。
やどかり……トロピカルだ。ハワイにふさわしい。
どんなに記憶をたぐってもそれ以上の記憶は出てこなかったので、この本を「あまり内容を覚えていない本」のチャンピオンとして、ハワイに連れていくことにした。

そんなわけで行きの飛行機で夫が一人でビジネスシートに消えてから(「プリンセスな夫」参照)『ウエハースの椅子』を読み始めたのだけれど…….。
どうしよう、不倫の話だった

どれだけ読み進めても、やどかりが出てくる気配はない。
いや、やどかりが出てくる本もわりと不穏な男女関係の本だった気はするけれど、こうもがっつり不倫されると絶賛新婚旅行開幕中の身としては、どうにも居心地が悪い。

登場人物はごくシンプル。
画家の主人公と、彼女の恋人(妻と息子と娘がいる)と、主人公の妹とその恋人。
それから主人公が過去を回想するときに出てくる、犬や両親、友だち。
窮屈な学校もない、仕事も安定している、素晴らしい恋人もいる。
そんな満ち足りているはずの暮らしのなかで、主人公はじわじわと真綿で首を締められていくような苦しさを覚え、壊れていく。

すごく好きな作品ではあった……けど、いまじゃない。
たしかに三分の一くらい読み進めるまでまったく内容は思い出せなかったけれど。
よりにもよって、新婚旅行で不倫小説って
「あまり内容を覚えていない本」チャンピオンの名に恥じないミスマッチである。

やどかりが出てくる小説のタイトルが気になったので「やどかり 恋愛小説」と検索したら、いくつかの候補の下に同じ著者の『なつのひかり』という見覚えのある表紙の本が見つかった。
これだ、これこれ。これも家にはあったのに。

とはいえ、さすがの江國ワールド。
ハワイに着いたとき私はすっかり江國さんの文章に酔っ払っていて、完全に薄幸な女モードだった。
私のアンニュイな気持ちとは対照的に、ホテルのロビーに着いた夫は日焼け止めを勢いよくブリュッと出し、屈強な腕にシュピシュピと塗りたくり始めた。
ほぼ無音なのに、なんていうかこう、見た目がうるさい。

素早く腕や首に日焼け止めをすり込み、ぐいぐいと腕を伸ばすストレッチをし、「念願のハワイよぉ、るるちゃん!」と日焼け止めの香りがする手で私の髪を撫で、白い歯を見せて笑う夫。

『ウエハースの椅子』の夢のように甘美な恋人とは、相当に隔たっていた。
江國さんの不健康で退廃的な空気感からは、あまりにも遠い世界だった。
彼らの関係が儚くて美しいウエハースだとしたら、私たちのそれはそばぼうろ並みに素朴で丈夫な感じがする

かくして私たちは、江國さんの小説のような繊細で、一見穏やかでその実張り詰めた愛とは真逆の旅行をスタートさせた。
はずだった。
テカテカと全身に日焼け止めを塗りたくった夫が『ウエハースの椅子』の空気を追い出したにもかかわらず、ウエハースの恋人たちは時折ふわりと私の周りを漂うようになった。

主人公は恋人との関係を、みちたりて、いきどまりで、閉じ込められてしまったと捉えて、物思いに沈む。
その感じはちょっとわかる、気がする。
同棲を始めてからというもの、ふとした瞬間にふたりぼっちだなぁと感じることがあるのだ。
それが嫌かといわれると、そうでもない。
けれどこの状況が好きかといわれると、そうとも言いきれない。
安心感と取るか閉塞感と取るかは、こちらの精神状態まかせ。

そもそも私は、彼との結婚に何を求めていたんだっけ。
独身でも十分幸せだったのに。
友だちでもよかったはずなのに。
子どもがいたら楽しいかもなぁと思う一方で、いなくてもそれはそれでかまわないし。

青々と輝く海が見える日当たりのいい部屋で、私までぐるぐると物思いに引っ張られてしまった。
彼を夫として私のもとに引き留めておきたい理由。
それが他ならぬ、彼でなくてはならない理由。

ここである程度答えが出せたら、今後なにかしらの危機を迎えてもきっとどうにかなる気がする。
新婚旅行の宿題として、いまきちんと向き合っておいた方がいい気がする。

そんな焦燥感をひっそりと秘めて、私のハワイ旅行は始まった。
旅の前半は、コンドミニアム泊だった。
大きなキッチンや洗濯機が備え付けられていたから、私たちはほぼ日本にいたときと同じような暮らしをすることにした。

私は何件かの食料店を闊歩し「卵が高い、牛肉は安い、ビールも安い、ヨーグルトはまとめ買いならアリだな……野菜は論外、許せねえ!!」と猛々しく比較検討、近隣最安値を記憶し、複数の店舗で数日分の食料を買い込んだ。日本の我が家の近くに激安店があるせいで、野菜の価格に対してはかなり厳しい目線を向けてしまった。

そうして買い物に勤しむ一方で、私は旅の様子を詳細に記録した。
その日に買ったものや食べたもの、やったことを細かく記し、割り勘やどちらかが立て替えた分の清算金額が一目でわかるように、レシートをこまめにExcelに打ち込んだ。

一方、綺麗好きな夫は「後半はリッチなホテルだから、洗濯機が使える今のうちにバンバン回そう!」とあらゆる布を洗濯機に押し込み、毎日回した。皿洗いやゴミまとめも嬉々としておこない、「ふぅ……綺麗な部屋だぜ」とピカピカのキッチンから部屋を見渡してひとりごちていた。
清潔担当であるだけでなく、計画担当としても彼は活躍した。
夫は修学旅行の班長のように、入念に事前準備をし、レストランや射撃、おしゃれなお土産店、素敵なパン屋などをピックアップし、旅程に落とし込んだExcelのスケジュール表を作り、それを事前に共有してくれていた。抜かりなさすぎる。

なんだろうこの、地に足のつきまくっている感じ。
バカンスって、もっと浮かれたものじゃなかったっけ?
……でも、すごく楽。めちゃくちゃ楽。

買い出し・炊事・記録担当の私と、洗濯・掃除・計画担当の彼。
やるべきこと、進むべき方向を素早く共有し、それぞれの得意分野に邁進する私たちは、日本にいたときとほとんど変わらぬ一糸乱れぬフォーメーションでハワイ生活を謳歌した。

プリンセスだろうがトロピカルだろうが、着実に日々の役割をこなしてくれる人。
この人といれば、大抵のことはなんとかなる。
そう信じられる堅実さ。
たとえ恋や愛が薄れようとも、信頼だけはどっしりと残る確信。

情緒があるとは言い難いし、華やかさにも欠けるけれど。
二人でいるときの頑丈さと、安定感。
これが私が彼といる、い続けたいと願う、一番の理由なんだろう。

大学生のころ、よく長期休暇明けに仲のよかった先生に呼び出され、お土産話をせがまれた。
社交的に見えて実は人見知りなその先生は旅先でいつも何かしらのトラブルに巻き込まれる私の話をあちこちでネタにしているらしく、「あなたが授業を受けていない先生でも、あなたのことを知っている先生は相当多いんじゃないかな」と笑っていた。

そのくらい、私が旅行に行けば必ず何かが起きていた。
でも夫といるようになってから、ほとんどトラブルに見舞われたことはない。
まれにトラブルがあっても、どちらかが処理できるものか、どうしようもできないものだ。

一人だったときよりも、私はある意味では窮屈になった。
その一方で、一人だったときよりも自由になった部分がある。
私だけだったら無計画ゆえに行けなかったはずの場所に行けたり、調べるのが億劫でやらなかったはずの体験ができたり。

のびのびした一人の時間は減ったけれど、豊かな二人の時間を手に入れて。
素朴に、揺るがず、堅実に。
江國さんの描く『ウエハースの椅子』の男女の繊細さを羨ましがりながらも、私たちはきっと、ずっと、そばぼうろの夫婦として生きていくのだろう。

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新婚旅行シリーズ 第一弾

新婚旅行シリーズ 第二弾


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