プリンセスな夫
私の夫は、プリンセスである。
新婚旅行先のハワイに向かう飛行機のなかで「ビジネスに移りたい方がいらっしゃいましたら、お手元の端末からお申し込みください」とアナウンスがあったとき、プリンセスはソワソワし始めた。
「ビジネスだったら、横になって眠れるんだよね」
「しかも出発したあとだから、正規の値段よりも安く移れるみたい」
「どうしよう、るるちゃん」
プリンセスの身体は環境の変化に非常に敏感なため、長旅でうまく眠ることができない。
以前ハワイに行ったときはエコノミー席で眠れず、長距離バスに乗ったときもやはり眠れず、日中はふらふらになっていた。
一方私は、どこでも眠ることができる臨機応変な身体の持ち主である。
24時間ほど飛行機に乗っていたときも、夜行バスで愛媛や広島、大船渡に行ったときも、謎の異臭に包まれた宿に泊まったときでも、中学生のころ友だちの家の庭で野宿をしたときも、「ここが寝床だ」と思えばスッと身体がスリープモードに切り替わった。
ひょっとしたら旅人とか山賊とか、そういう職業(?)が向いていたりするのかもしれない。
だから夫がビジネスに心を揺らしているとき、すでに私の首はうとうと揺れていた。
「行きたいなら行っておいでよ。健康がお金で買えるなら、その方がいいじゃん」
「るるちゃんは?一緒に行かない?」
興奮に目を輝かせて、夫が聞いてきた。
「私はいいや、もう眠い」
そんな言葉を幾分そっけなく夫に返して、次に目を開けたときには隣の席に彼はいなかった。
本当にビジネスに移ったらしい。
のっけから新婚旅行らしからぬ所業である。
まあ、初日からふらふらのへろへろになってしまうよりはよっぽどマシなんだけど。
空席になった隣にそっと身体をはみ出させてぐっすり眠り、ごとごとという着陸間際の揺れで再び目を覚ました。
飛行機から降りようとすると、ちょうど機内の通路でさっぱりした顔つきの夫に出くわした。
「俺はわがままボディだから熟睡はできなかったけど、でも思ったよりは眠れたわ」
それはわがままボディとは言わねーよと思ったが、なかなか快適ではあったらしい。
預けた荷物を受け取りタクシーでホテルに着くと、夫はいそいそと機内用のラフなサンダルから動きやすそうな靴に履き替えた。
彼はプリンセスなので、旅行の数日前の休日にわざわざインソールを特注しに都内に出かけたのだ。
ガラスの靴を履いているわけではないのに、彼はすぐに歩き疲れてしまう。
より身体が弱い方により身体が丈夫な方が合わせるのは旅行の基本だけれど、みみっちい私は夫がすぐにバスやタクシーに乗ろうとするのが少しだけ嫌だった。
飛行機に乗る前だって、家から東京駅までは夫の懇願によりタクシーだった。
出発前の荷物なんて大した重さではないし、最寄り駅から東京は地下鉄で一本なのに。
渋い顔をする私にプリンセスは「旅行前に受けるストレスを可能なかぎり減らしたいの」と目をうるませて訴えた。
インソールを特注した効果は期待以上に大きかったらしく、今回の旅行ではプリンセスは一度も「足が疲れちゃったんよ」という行動不能を示す魔の言葉を口にしなかった。
インソール一枚で足の疲れがそれほど変わるなら、未来永劫インソールを特注し続けてほしい。
身体や足へのストレスを最小限に抑えて愛するハワイに降り立った夫は、すこぶるご機嫌だった。
そう、夫はハワイを愛している。
ゲーム「あつまれどうぶつの森」で自分の島を「ハワイ島」と名づけてしまうほどに。
無意識にネットで「ハワイ」と検索し、波の音を部屋のBGMにしてしまうほどに。
しかもハワイを愛しているのは、夫だけではない。
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