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引退前の退部届(短編連作『今日も今日とて私を生きる』)

 自分にとって都合の悪い話題になる、という予感は直前のコンマ1秒、閃光のように走る。

 「西木って居酒屋でバイトしてたよな」


 目黒がカレーをぐちゃぐちゃやりながら、こちらに目を向けた。食器がぶつかり合う音、椅子を引きずる音、学生たちの声の塊。薄暗い大学の食堂はとりどりの音をエネルギッシュに反響させながら、仲間の言葉だけはまっすぐに届けてくれる。

 「……まあ、そうだけど」


 西木はぼそぼそと答えて、うどんをすくい上げる。明らかに茹ですぎた白い麺はつかんだところからぷつんと千切れて落ちた。

 「バイト先で忘年会あんのよ。それで店、探しててさ。ちょっと出遅れたら、どこも埋まってんの。28日、8人で席取れね?」


 目黒は困るとすぐ他人に頼る。うまく返答したら話題を変えられるんじゃないか、と頭を巡らせるが生憎そんな高等話術は持ち合わせていない。

 「8はきついな。聞いてみるけど、あんま期待すんなよ」

 クリスマスから年明けにかけては、早ければ2、3か月前から予約が入る。甘く見すぎだ、と言ってやりたいのをこらえて、ぺらぺらの揚げを一気に口の中に詰めんだら、触感は紙みたいだし、あふれた出汁は駄菓子のようにべたべたと甘く、気持ちは一層萎えた。

 「目黒のバイトってデザイン会社だっけ?店選びとか任せてもらえるんだ」


 隣で綾瀬がたらこフランスパンをかじりながら聞く。


 「任せてもらえるっつうか、雑用係よ」


 言葉では自嘲しているが、目黒の声には確かに矜持がにじんでいた。

 デザイン会社。この言葉の甘美さを、西木はしばらく舌の上で味わった。いなりの甘みが一緒になってじわじわと頬の内側に染み込んでいく。はす向かいでみそ汁をすすっていた田仲が羨ましそうに目を細めた。


 アーティストとしての才能の不足に気付いた芸大生にとって、その能力を何かしらの仕事に活かすことは切実な、とても切実な、欲望だ。バイトだろうと雑用係だろうと、すぐそばで神聖なアートの香りを嗅いでいられるだけで羨ましい。こちとら、酔っぱらった客たちの腐った肝臓から吐き出されるアルコールと濃度の高い汗、喉を焦がすようなタバコの匂いの中に閉じ込められているのだ。目黒が「すげえな」という返事を待っていることを知りながら、素直に口にできる余裕もなく、「そうなんだ」と軽く流せるほど大人でもなく、西木はちょっとバカっぽく小刻みに頷いて、話題を振った張本人に目を向けた。綾瀬は胸元にこぼれたパンのカスを払っていて全然聞いていなかった。


 「でも一応、卒業したらウチに来いって言われてんの」

 その態度が気に障ったのか目黒は語気を強めた。一向に口に運ばれる気配のないスプーンが、皿の底に当たってかちゃんと音を立てる。胸のあたりがざわついている。


 「それってすでに就職決まってるってことじゃん」

 西木は一音ずつ声色が明るかったことを確かめてから、麺をすすった。目黒は「うん、まあ」だの「とは、いえ、まだ」だの濁らせてはいたが、どこか得意げに見えた。からあげ丼の米粒を掻き込んだ田仲が、げっぷ交じりに「すげえ」と放出する。

 「内定ひとつゲットってことだろ?就活しなくていいのか、いいな」
 「いや、形だけ面接は受けるよ」
 「形だけ、とか言ってみてえ」

 田仲は次々と目黒が求める賛辞を口にする。

 「そういや田仲はインターン、どうだったの」

 圧倒されていると、膝のあたりをパッパとやりながら綾瀬が話の矛先を変えた。


 「インターン?まだ2年じゃん」

 西木が聞くと、田仲はちっちっとわざとらしく舌を鳴らした。

 「せーので動いてちゃ遅いんだよ。企業側も2、3回の面接じゃ人柄なんかわかんないだろ?だからインターンに参加した学生を採用する。学生側も入社前に体験できるしな」
 「へえ、なるほど」

 西木の食いつきに満足した田仲は冷水を一気に飲み干した。友人を手放しで褒めそやせたのは、自分も一歩リードしている自覚があったからなのだな、と妙に納得した。


 きつねうどんとセットにしたいなりずしを頬張る。どちらも炭水化物と油揚げの組み合わせだ、と気付いて急激に自分だけがどんくさいような錯覚に陥った。

 「ふたりともすげえな。俺は将来のこととか全然考えてねえわ」

 隣で綾瀬がさわやかに笑って、牛乳のストローをくわえる。日焼けした腕に巻かれたミサンガのくすんだ緑が目につく。この男には必死さがない。焦りもない。それでいてのんびりしているわけでもない。どんな逆風も楽しむような、運さえも味方につけるような、絶対的な陽の空気をまとっている。そのくせ完全に心を溶け合わせることはなく、どれだけ同じ時を過ごしても、3段くらい上から見下ろされているような、劣等感すら芽生える。


 綾瀬には実績も実力もある。高校時代には、地元の高文祭で出展した油彩画が金賞を受賞している。大学入学後は目立った経歴こそないものの、同じクラスで教授が彼を褒めちぎるのを嫌というほど聞いた。

 
 専攻は油彩だが、光るのはデッサンだ。クラスの縦コンで一度、高校時代のスケッチブックを見せてもらった。たまたま隣の席に座っていたので、細部までしっかりと目に入ってきた。力強くしなやかな線一本一本が光と形を柔軟に捉えている。正確さには隙がなく、それでいてどことなくアートとしての気品も漂わせていた。綾瀬がページをめくるたびに取り囲んだ先輩たちが歓声を上げる。ただモチーフの周りをびっしりと埋め尽くす文字だけが異様な存在感を放っていた。

 「同じ美術部にめちゃくちゃうまいやつがいて、そいつに添削してもらってたから、画塾は行ってねえの」

 文字に吸い寄せられる西木の視線に気付いたのか綾瀬が説明した。言葉を交わしたのは初めてだったが、ずっと知り合いだったような気負いのない口調だった。その時もお通しのパスタ揚げをつまみながら、胸元に落ちた食べカスを払っていた。


 「これも、そいつからのアドバイス」


 綾瀬がお手本のように整った字に指を当て、なんてことないように言った。指に染み込んだパスタ揚げの脂で鉛筆の跡が滲んだ。信じられない光景だった。いくら練習とはいえ、作品は作品。そして余白もまた作品だ。アドバイスだろうと称賛だろうと他人の絵に文字を書き加えるなど描き手への冒涜だ。だが綾瀬本人はいたって平然としていて、むしろ自分で紙を汚している。普通は描きながら指導を受け軌道修正を繰り返して完成を目指していく。一方、彼のやり方は、他人が手を加えた時点で不完全な部分を残したまま強制終了する。彼にとっては未完成品など尊ぶに値しない。受験対策用のデッサンは作品ですらないということか。同じ居酒屋で同じ皿の飯を食っているのに、この男だけは違う場所を見ているような気がした。


 こんな型破りな方法で綾瀬を現役合格に導いた友人とはどんなやつなのだろう。隣でぱらぱらと紙をめくる音を聞きながら、西木は思いをはせた。画力はもちろん、ライバルに手の内を見せる余裕と、抽象的な感覚を言葉に変換できる言語能力。それだけの実力があればその友人も同じ大学に通っているのかもしれない。聞こうとしたところで、輪の中にいた先輩の一人が「気持ち悪い」とつぶやいてトイレに駆けだしていったので、話はそれきりになった。こうして昼飯をともにするほどの仲になっても、改まって確認する機会はなく、西木の記憶の片隅でそのままにされている。

 
 「ちょっと俺、トイレ行ってくるわ」

 空になった牛乳パックを手に綾瀬が席を立った。椅子の背に掛けたリュックに目をやるとチャックが全開だった。無防備にも財布が丸見えだ。バイト先では防犯対策に酔っぱらった客たちの鞄が開いていないかチェックをしているので、普段でもつい気になってしまう。代わりに閉めてやろうか迷っているうちに、無造作に詰め込まれた漫画雑誌に目が留まった。

 「今日『ライバー』の発売日だったな」
 「急にどうしたんだよ」
 「いや、綾瀬のカバンの中に入ってんの見て思い出してさ」
 「それなら俺も買ったぜ。読んでる連載でもあんの?」

 田仲が意気揚々と自分のリュックから分厚い冊子を取り出す。

 「いいよ。あとで買うから」
 「まあ、そう言うなよ。なに読んでんの?」

 田仲が3人の真ん中にどんと置いて開いた。

 「俺は単行本派なんだよ。ネタバレするから見せるな」

 視界から本を押しのけようとする目黒と押しつける田仲。じゃれ合うふたりを前にすっかりぬるくなった水を口に含んだ。

 「あ、え?」

 突然、田仲の動きが止まる。押しやっていた漫画をばっと自分のもとに引き寄せ、開かれたページを食い入るように見つめた。

 「どうした?」

 目黒がのぞき込む。気になって西木も身を乗り出した。

 「これ……」

 田仲の指先をたどる。新人賞の受賞者発表のコーナーだ。左のページの一番下。

 『綾瀬ソウ』


 見覚えのある名前にぽんっと心臓がひとつ跳ねた。『奨励賞』とあり、投稿原稿の抜粋が小さく印刷されている。横には審査員と編集部のコメントが紹介されていた。

 「綾瀬って、あの、綾瀬?」

 目黒が空いた席を指す。

 「こういうのってペンネーム?使うもんじゃないの?」

 上手く事態が呑み込めないまま、西木はなぜか自分が笑っていることに気付く。


 「本名の漫画家もいるだろ、そりゃ」
 「聡ってカタカナになってるし、ペンネームみたいなもんだろ」

 目黒も田仲も動転しているのか、もはや何を議論しているのかわからない。そこへふらっと綾瀬が戻ってくる。視線が一斉に集まる。

 「……何?」

 違和感に気付いたのか、不思議そうに首を傾げた。3人とも言い出せずに黙っていると、机に広げられたものにようやく目を留め、「ああ、それね」と軽やかに笑って椅子に腰かけた。「見た?」

 「ってことはやっぱお前なの?」

 田仲がぐっと前かがみになって問い詰める。

 「投稿は初めてだったから、まさか賞とれるとはなあ」

 綾瀬はポケットからスマホを取り出し、まるで他人のことを話しているかのようだ。

 「お前はなんでそんな悠長なんだよ。『ライバー』で入賞ってもっと喜ぶだろ」
 「奨励賞じゃデビューはできないしなあ」

 西木が話しかけても、画面に目を向けたままだ。

 「担当はつくんだろ?」

 興奮気味に田仲が聞く。目黒はバイトの話をしていたときの威勢をすっかりなくし、食べかけのカレーに手をつけた。

 「うん、電話があった」
 「じゃあもう立派な漫画家の卵じゃねえかよ」

 田仲お得意の絶賛に綾瀬はようやく顔を上げ、苦く笑った。


 「卵は立派じゃないよ」



 西日にあたためられた汗と埃が充満する野球部の部室。部員がひしめくむさくるしい空間に監督が言葉を放つその瞬間、あのよくない直感が西木の脳を駆け抜けていった。


 高校最後の夏、レギュラーから外れた。小中高と野球一筋で、2年のときには背番号をもらっていた。あの日あの一瞬まで、自分が歓声のグラウンドに立つことを信じて疑わなかったのに。


 帰り道、自転車を全力で漕ぎながら、それまで大切にしていた細い細い糸が千切れていくのを感じた。「西木の分まで頑張るから」という仲間たちの声がわんわんと耳の内側で反響して溶けていく。


 他人に頑張ってもらう人生なんかごめんだ。観客に成り下がるのはまだ早いだろ。


 思いをペダルに乗せて踏み込んだ。その日のうちに退部届を書いた。


 とにかくプレイヤーでありたくて、できることなら野球から遠いところへ行きたくて、ただそれだけの理由で芸大を目指すことにした。絵なんて美術の授業以外で描いたこともなかったけれど、その方がかっこいいと思った。


 結局3浪した。6浪7浪してあきらめる人だっている中で、ゼロからスタートした西木にとってはほとんど奇跡みたいな成果だ。

 

 見てみろ。自分にだって主人公としての才能と強運があるのだ。


 当時の監督もチームメイトも、もはや誰も見ていなかったけれど、満足だった。ようやく自分が何者であるかを証明できた気がした。

 だがこうしてせっせと次のステージへ準備を進める仲間を目の当たりにすると、いくつもあるルートのうちのひとつにコマを進めただけだったのだと思い知らされる。卒業後どんな肩書をつけ、どんな仕事や作品を残していくのか。西木はこれからまだまだ選択し、証明し続けなければならない。ただ茫洋たる果てしなさがある。具体的な構想は思い描けない。合格したあとも人生は続いていくなんて、そんな話聞いてないよと泣きたくなる。



 あ、また開いてる。


 小銭とレシートを渡しながら、テーブル席のビジネスバッグが開いているのを見つけた。よりによって通路側の椅子に置かれている。鞄の外に今朝のスポーツ新聞が飛び出している。声を掛けようとおもったが、ひとまず会計の終わった客をマニュアル通りに出口まで見送ることにした。持ち主のおっさんは真っ赤な顔で部下になにか熱弁していて気持ちよさそうだったし、注意して見ていればいいかと自動ドアをくぐると、おっさんは店員を怒鳴りつけていた。


 面倒なことになっている。社員を呼ぼうと店内を見回すが、あちこちで上がる注文に振り回され、誰も手が離せそうにない。厨房からもただならぬ殺気を感じる。


 「すみません!」


 西木は駆け足で怒鳴られている店員の隣に並び、頭を下げた。


 「すみませんじゃないよ、こいつが全然違う酒を持ってきたんだよ。こんな甘いの飲めるわけないだろ」
 「それは失礼いたしました」

 間違えることくらい誰にでもあるだろ。つうか、お前の味覚の嗜好なんて知らねえよ。


 反論と悪態はとめどなくあふれてくるが、誠実な感じで謝って早々に切り上げるのが一番だ。叱られた店員は隣でおどおどしている。こっそりひじをつつくと、戸惑いながらも西木にならって頭を下げた。


 まあまあ、たのしく飲みましょうよ。同席していた部下ふたりがおっさんをなだめる。異様な緊張感が束の間やわらぐ。


 今だとばかりに顔を上げ、メロンソーダ色の液体でいっぱいのジョッキに手を伸ばす。


 「すぐに取り替えさせていただきますね」
 「おもしろいことしてみろよ」

 心臓が縮み上がった。


 「せっかくの楽しい席がお前のせいで台なしだよ。おもしろいことでもして埋め合わせてくれよ」

 がんっとおっさんがテーブルに手をつく。ドキドキしていたが、難癖をつけられているのは隣の店員だった。目を見開いたまま、見るからに頭が真っ白という顔で硬直していた。この状況で笑いが取れるやつがいたら西木だって見てみたい。ぎりっと奥歯をこすり合わせたそのとき、鞄からはみ出たスポーツ新聞が目に留まった。


 「いやあ、そう言われましても昨日の三者連続ホームランより爽快なことはないですよ」

 決死で空気の読めないやつを装った。急な話題転換にサラリーマンたちは動きを止める。隣のテーブルの女性がちらりとこちらを見た。


 「僕もファンなんです、フェニックスの」
 「どうして」

 戸惑うおっさんに情報のありかを視線で教える。折り曲げられた新聞は一面でプロ野球チームフェニックスの勝利と快挙を伝えていた。敵チームや他のスポーツを応援している可能性もあったが、その新聞のひいきの球団だから賭けに出たのだ。

 「佐藤・立花・秦以来7年ぶりですよね。今年はドラフトでも希望選手を獲得できたし、投手陣も仕上がってる。優勝、期待しますよ。僕も甲子園目指してた頃があって、やっぱ野球って熱いなって思いましたね。まあ、ベンチにも入れなかったんですけど、ははは」

 割り込まれないよう一息でしゃべった。特別フェニックスが好きなわけではなかったが、今朝の情報番組で流れたハイライトと解説がそのまま言葉になって出てきた。アルコールで赤黒く染まったおっさんの顔から表情が抜けていく。だらしなく開いた目の下の毛穴がやけに目ついた。居たたまれなくなって、再びジョッキに手を掛ける。


 「記念なんで多めに入れて持ってきますね」

 他の客に聞こえないよう声をひそめ、背を向ける。

 「ちょっと、きみ」



 ほとんど声に近いため息をつきながら崩れ落ちるようにパイプ椅子に腰かけた。貴重品用のロッカーと長机にパイプ椅子が2脚だけの狭い休憩室兼更衣室は戦場における唯一のオアシスである。立ちっぱなしで張った脚を投げ出し背もたれに体を預ける。腰の右あたりでぽきっと鳴る。左腿も動かしてみたが一向に音が鳴りそうな感覚がない。しばらく白い天井を見つめていると青や緑のちかちかが侵食し始めたので目を閉じた。グラスや皿が当たる音と客たちの話し声は塊となってこの平屋全体を震わせている。


 腰に縛りつけたエプロンのポケットに手を差し込む。指先に硬い紙の感触。ゆっくりと引き出し、照明に透かして見た。名刺の表には聞いたことのない会社名と『松下昌幸』という名前が記されている。裏には携帯電話の番号がボールペンで手書きされていた。


 「おっさんの電話番号なんて少しも嬉しくねえよ」

 おっさんに呼び止められたあと、出身高校や守備位置などを聞かれ、この名刺を差し出された。このおっさんは大企業の社長で、卒業したらうちにこないかとスカウトされるのではないか。甘い期待はみるみる膨れ上がった。


 が、誘われたのはおっさんが趣味でやっている草野球だった。チームの一人が転勤になり、メンバーが足りず困っているという。「まあ、おっさんばっかだけどたのしいぞ」と来週末の試合の場所と時間を半ば強引に告げ、飲み会を仕切り直した。


 肩書には『係長』とある。部下相手に偉そうに講釈垂れていたからもっと上の立場だと思った。それも経理部じゃ人事権限など持っていないだろう。落胆がどっしりと肩にのしかかる。なんの会社か調べる気も失せた。草野球のスカウトじゃ目黒や田仲の優越感をへし折ることはできそうにない。


 名刺をポケットに戻し、体を起こす。長机に積まれた紙コップをひとつ取り、2リットルペットボトルの水をそそぐ。ぐっと飲み干して、隣のパイプ椅子に黒いリュックが置いてあることに気づいた。先ほど怒鳴られていた店員、伊賀倉が背負っているのを見たことがある。チャックが開いていて、中から『ライバー』の表紙が覗いている。昼間とまったく同じ光景。その後ろにクリアファイルに挟まれた漫画の原稿用紙が見える。誰が書いたのかはたまたコピーなのか。綾瀬が漫画家を目指していることを思い出し、興味がわいた。


 休憩室の入口を確認し、リュックからそっと引き抜く。念のため指を作務衣の袖で拭い、ファイルを外す。1枚目は表紙。フード付きのマントを被った男がスマホが組み込まれた銃のような武器をこちらに向けている。軽く傾けると、ホワイトやトーンが少し凹凸を作っている。初めて見る生原稿に西木の息が震えた。


 2枚目以降はしっかりとコマ割りされている。気持ちの良い強弱がついた線画は今にも動き出しそうな躍動感があり、背景はそのままポストカードにできそうなほどしっかりと描き込まれている。一度『ライバー』の原画展でショーケース越しにプロの原稿を見たが、こうして眺める限り全く引けを取らない。


 これは伊賀倉が書いたのだろうか。松下に怒号を浴びせられ、ぺこぺこと頭を下げる冴えない店員の姿を思い浮かべる。たしか全国でも名の知れた難関私大の2年生で、西木が入ったときにはこの居酒屋で働いていた。華奢な身体に透けるように白い肌。初めて挨拶をしたとき、中学生かと思った。バイト歴でいえば先輩なのだが、マイペースというかあまり機転が利くタイプではなく、よく酔っ払った客に目をつけられている。動きに覇気がないし、ほとんど表情も変わらない。声が小さく、騒がしい居酒屋では通りにくい。彼なりに一生懸命なのは伝わるので、時々フォローに回るのだが、こんな才能を隠し持っていたとは。大切にしてきたはずの芸大生の肩書がくすんで見える。


 羨望とほのかな嫉妬心が原稿を次へ次へとめくらせた。新人賞に応募するために作られたのだろうか。ストーリーもよく練られている。舞台は近未来の日本。人の心が読めるアプリが急速に広まり、その使用が倫理的問題となっているが、裏ではアプリを利用しお金を巻き上げようとする組織がすでに動き始めている。そこに表紙のマントの男が自作の発明品を駆使して立ち向かう。心理戦、頭脳戦が中心ではあるが、少年漫画らしいバトルを主軸にしつつ、舞台を近未来に設定したことで街並みや服装のデザインにオリジナリティーがある。ただ肝心の「人の心が読めるアプリ」というアイディアだけが凡庸に思える。最近、似たような設定のものを読んだからかもしれない。リュックから覗く『ライバー』を一瞥する。


 「おつかれ」

 背後から声を掛けられ、小さく飛び上がった。とっさに原稿を裏返し立ち上がる。振り返ると伊賀倉が立っていた。


 「おつかれ。今から、休憩?」
 「そう」

 伊賀倉はふうと一息つくと貴重品ロッカーを開けた。動揺を悟られないよう後ろ手で紙を束ねた。勝手に鞄から抜き取ったのだからきまりが悪い。


 「さっきはありがとう」
 「さっき?」

 ロッカーの中でスマホをいじっているのか、うつむいた伊賀倉の顔が煌々と照らされている。

 「さっき、注文間違えちゃったとき」
 「ああ、そんなのよくあることだから、気にすんなよ」

 どうやって原稿をリュックに戻すかばかり考えていたら、やけに白々しくなってしまった。「俺もミスることだってあるし、お互いさまだろ?」

 ふいに伊賀倉が顔を上げ、西木の方を振り向いた。丸く澄んだ瞳がじっと見つめてくる。2、3秒奇跡的に静寂が落ち、その均衡を崩すように伊賀倉がにっと笑う。唇の影に隠れていたほくろがあらわになる。笑わないやつだと思っていただけに、たじろいだ。


 「そうだね。お互いさまってことにしておこう」

 相変わらず抑揚のない淡々とした調子で言うと、ずんずん近づいてきて隣のパイプ椅子を引いた。リュックを机の下に押し込みすとんと腰を下ろす。


 「どうせ捨てようと思ってたから」

 西木の手の下の原稿をちらりと見て、さして興味もなさそうに机の端の紙コップに手を伸ばした。

 「お前がチャック開けっ放しにしてたんだからな」

 ペットボトルからどぽどぽと水を注ぐ伊賀倉はまた無表情に戻っている。

 「これ、本当に伊賀倉が描いたのか」
 「うん」

 勝手に創作物を見られたことに怒っているわけでも恥じらいでいるわけでもない。ただ淡々と透明な液体を口に含んだ。

 「投稿するのか」
 「だから、さっき捨てるつもりだって言った」
 「なんで」

 原稿をめくり、改めてそこに描き出された白と黒の物語を見下ろした。誰にも読まれないのに、何の見返りもなくこれだけの完成度で仕上げられるだろうか。純粋なる創作意欲のみで。

 どすんと視界が突然揺れた。伊賀倉がリュックをテーブルに置いた衝撃だった。週刊『ライバー』の分厚い断面が見える。

 「あ」

 思わず声を漏らした西木に伊賀倉が不審そうに片眉を吊り上げる。

 「もしかして、今月の奨励賞とダブってたからあきらめるとか」

 伊賀倉はゆるやかに目を伏せた。返事はない。シンクでぶつかり合う食器の音が遠く鳴る。

 昼間食堂で目を通した綾瀬ソウの投稿作の設定と少し、というかかなり似ていた。後者に関しては講評のあらすじしか読んでいないが、同じように心を読む能力を持つ主人公が出てきた。ただ「恋人の心だけ読めない」という設定がプラスされていて、その制限が効いていると評価されていた。

 「だからってなにも捨てることないだろう」

 西木は原稿をかき集めた。雑誌には表紙を含め2ページほど掲載されていたが、生で見た感動を差し引いても絵は伊賀倉の方が魅力的だ。


 「時代設定やアイテムもこっちの方が練られていると思う」

 ばらばらの紙の端を整え、伊賀倉の腕に突き出す。

 「別に綾瀬とかいうやつのデビューが決まったわけじゃないんだ。他誌の新人賞でも、持ち込みでも、トライしてみればいいじゃないか」
 「俺が」
 「え」

 俯いたままの伊賀倉がなにかを言ったが、雑音に紛れてうまく聞き取れない。

 「俺がアドバイスしたんだよ」
 「え」

 今度はちゃんと耳まで届いたのに、想定外の告白に理解が追いつかない。返事に窮していると、伊賀倉がすっと目を上げた。大きな瞳に見据えられ、西木の片頬が痙攣した。

 「アドバイスって、そいつと知り合いなのか」
 「うん」

 微動だにせず声だけを発する伊賀倉に、埋もれていた記憶がひらく。


 スケッチブック。びっしりと埋め尽くされた文字。


 高校時代、綾瀬を指導していた友人というのは伊賀倉のことではないのか。才能そのものみたいな綾瀬を育てた裏の立役者。偶然のめぐりあわせに驚きとも感動ともつかない鳥肌が体を走る。


 「投稿するからネームを見てくれって。似たような設定だったからびっくりした。だけど、俺のより恋愛要素がある分ストーリーが重層的で読みごたえがあった。そこに恋人の心だけは分からないっていう制限がついたら、もっと深みが出るだろうなと思って、そう伝えた」
 「自分の漫画にその設定を足せばよかったのに」
 「アプリの制限にしては不自然だ」
 「綾瀬は、そのことを知っているのか」
 「そのこと?」
 「伊賀倉が似たような設定の漫画を描いていたことだよ」
 「知らない」


 
 原稿を掴んだ指に力が入る。


 「どんなお人よしだよ」


 呆れると同時に、昼間見せた綾瀬ののうのうとした態度が癇に障った。奨励賞なんて役不足と言わんばかりに余裕ぶって、結局伊賀倉の親切に甘えてるだけじゃないか。陰に握りつぶされた物語の存在を知りもしないで。



 「俺はただ、おもしろいものをつくりだしたいだけだよ」

 苛立つ西木の目を不思議そうに見つめたまま伊賀倉は言った。

 「俺のより綾瀬の方がおもしろくなる可能性があったから。もうこれは」

 いらない、と原稿を西木の方へ押し返す。


 たまらなくなって西木はがしがしと頭を掻いた。

 「お前は漫画家になりたいんじゃないのかよ。物語を与えられるだけじゃなくて、つくる側に行きたいから、ちゃんと原稿仕上げたんだろ。なのに、自分から降りるのかよ。譲るのかよ。才能があるとかないとか、おもしろいとかおもしろくないとか、判断するのはお前じゃないだろ」


 言葉を吐けば吐くほど胸のあたりが熱くなっていく。


 「なりふり構わず挑戦すりゃいいじゃないか。この世に似た作品なんてごまんとあるんだから、堂々と出せばいいだろ。お前に光るものがあれば、担当がつくかもしれない。少なくとも注目してくれるかもしれない。次につながるだろ。自分から降りて大人びたふりしてんじゃねえよ」


 自分でも何を言っているのかわからないまま一息にぶつけるといくぶん満足した。肝心の伊賀倉は表情ひとつ変えない。


 「俺は別に漫画家になりたいわけじゃないんだよ。おもしろい漫画が好きなだけ」

 負け惜しみでもなさそうにこぼすと、ようやく視線を外し、ふっと息を漏らした。何ごとかと思えば肩が震えている。泣いているにしてはあまりに脈絡がないし、気が狂ったのかと心配になる。


 「なんだよ」
 「や」


 こぼれた否定の声は思いのほか明るく、泣いていたのでも狂ったのでもなく笑っていたことを知る。ちらりと前髪の隙間から西木を見上げて、情けなく笑った。

 「どうしてそんなに俺にこだわってるの」

 伊賀倉の言葉が突然冷たい剣となって西木の心臓を貫いた。息が止まりそうになって、先ほど発した声が反響する。


 なんで自分から降りるんだよ。譲るんだよ。
 なりふり構わず挑戦すりゃいいじゃないか。
 才能があるとかないとか、判断するのはお前じゃないだろう。


 全部、全部、最後の大会でベンチ入りできないことが分かって退部届を出したあの時の西木自身に向けられていた。


 なぜこだわっているのか。それは西木がまだあの選択にこだわっているからだ。もしあれから必死で練習していたら、監督の気は変わったかもしれないし、レギュラー陣が一斉に体調を崩し、チャンスが巡ってきたかもしれない。それなのに西木は、早々に可能性をつぶした。プレイヤーを諦めたのは、他の誰でもなく自分だ。


 「そういえばさー」

 無意識に呼吸が荒くなっていた。背中にじっとりと汗がにじみ、作務衣が貼りついている。


 「さっきの野球、行くの?」

 伊賀倉はだらんと机に上半身を伏せた。あてのなくなった原稿をぎゅっと握る。紙片が1枚入っているだけのエプロンのポケットが、やたらと重く感じる。


 「好きなんでしょ。今でもちゃんと情報仕入れてるんだから」
 「別にそんなんじゃ」
 「なりふり構わず挑戦してみればいいじゃん」

 伊賀倉の頭頂部のつむじを見下ろし、唾を飲み込んだ。乾いてひっついた喉に染みた。


 「どっかのすっげー会社の偉いさんとかチームにいて、就職決まっちゃうかもしれないよ」


 西木はがっと原稿を胸に抱いた。しわが寄ったのが音でわかる。


 「本当に、これ、いらないんだよな」
 「お好きにどうぞ」

 確認するや、西木はロッカーをこじ開けスマホをひっつかむ。はやる気持ちで手つきが荒くなる。バンッと扉の閉まる大きな音に、伊賀倉は不審そうに顔を上げた。


 「忘れ物思い出したから、一瞬家に帰ってるって言っといて」


 休憩時間の残っている伊賀倉に言い置いて、西木は店の裏口から外へ出た。ほの紫の深夜の空を割くようにずんずんと歩く。左手でスマホを耳に押し当てる。

 コール音。

 綾瀬に、この原稿を見せてやるつもりだった。知らしめてやりたかった。神に愛されたつもりかもしれないが、お前のその才能はお前一人のもんじゃないと。


 そんなことしたってあの綾瀬に響くのかわからない。今さら奨励賞が取り下げられるわけもない。なにより西木の人生は変わらない。


 コール音、コール音、コール音、コール音……。



 だけど、伊賀倉の漫画をなかったことにはしたくなかった。伊賀倉の漫画をなかったことしなければ。


 ……もしもし?

 負けきれなかった西木の人生も、いつかどこかで報われるかもしれない。


←第3話「僕が先生になった日」 第5話「1ミリ向こうの非日常」→




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