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僕が先生になった日(短編連作『今日も今日とて私を生きる』)


 「ちょっと、間宮先生」


 職員用の下駄箱で革靴に履き替えていると、栗原先生に背中を叩かれた。


 「明日卒業式ですよ」
 「あ、そうですね」


 何気なく返してから目の前の顔がひどく歪んでいって、咎められていることをようやく悟った。


 「そうですね、じゃないですよ。体育館の設営とか大変なんです。せっかく来たんですから手伝ってくださいよ」
 「はあ」


 まだらに生えた眉が片方だけぐっと下がる。栗原先生は間宮とは同い年。3年3組の担任だったか。この人は怒鳴りたい気持ちを堪えて大人な対応をしている。本当は温度差を合わせて申し訳なく思ったり、もしくは苛立ったりした方がいいと分かってはいる。

 が、卒なく付き合ったところでどうせ消耗するのだ。だったら、誰からも理解されなくたっていい。自分で自分を満たせる時間を守りたい。


 「そうはいっても僕は非常勤ですし、作品づくりもありますから。今日はこれで」


 踵を強引に押し込んで、軽く頭を下げた。

 明日は式には参列せず、顧問として美術部に少し顔を出すだけのつもりだ。間宮は担任も持っていないし、部員以外の生徒の名前はまともに覚えていない。今さらいい先生ぶって寂しがるのも気持ちが悪い。

 ショルダーバッグの肩紐を掛け直し、下駄箱を後にする。


 「あなた、それでも社会人ですか?」


 栗原先生は背中に向かってまだわめいていたが、聞こえないふりだ。

 校庭に出ると校舎と旧体育館をつなぐ渡り廊下を教員たちがあわただしく往復しているのが見えた。

 卒業が誰にとっても感動的だと信じて重たい機材を運ぶ大人たちが一番“おめでたい”のではなかろうかと間宮は思う。

 公立大学の2次試験はまだだし、留年が決まっている生徒にとっては気が気じゃないだろう。友達のいないやつは希望に満ちた合唱曲の歌詞や式後の写真撮影ラッシュは苦痛でしかない。

 もしこの視点がもっともだとしても、口走ろうものなら大人の世界では一発でアウトだ。社会とやらからことごとく爪はじきにされ、自分の生活を追い込むことになる。

 こんな面倒な毎日が死ぬまで続くのか。

 果てしなさに時々途方に暮れる。

 社会人にも、卒業があればいいのに。



 教師になるつもりは毛頭なかった。「生徒」だった頃から「先生」に対しては、憎しみの感情しか持てなかった。

 「人にやさしく」と説くくせに、陰口を叩いたり、偏見で態度を変えたりするような愛嬌だけは一丁前の生徒ばかりを可愛がる。勉強を教えているくせに、テストの点数はいまいちでも授業を盛り上げるのが得意なやつをちやほやする。お気に入りからあぶれた間宮は教室の隅でちみちみと絵を描いてやり過ごすしかなかった。

 美大で教職を取ったのも、保険程度の気持ちにすぎない。本当にその資格を使うとは想像もしていなかった。

 卒業後、就職したのは洋菓子屋だ。

 パッケージやフライヤーのデザインができると思っていたが、最初に配属されたのは店舗だった。現場の経験も必要だろうと1年間慣れない接客業に耐え、希望のデザイン課に異動したが、待っていたのはプライスの作成やPOPの印刷など地味な事務作業だ。あとは来客へのお茶出しとゴミ出し。華やかなデザインの仕事は上層部の機嫌取りが上手な先輩にばかり回される。

 家に居場所がないベテランの付き合い残業やら女子中学生バリの連れ飯を断っていたのが悪かったのかもしれない。そこから4年我慢したが、業務内容が変わる気配はなく、5年の節目に辞めてしまった。


 辞めてやると意気込んでいたときは、他のどんな苦悩も乗り越えられる気がしていたが、2度目の就活は思いのほか腰が重い。渋っているうちにわずかな貯金は底をつき、手元に残ったのはかつて保険で取った美術の教員免許のみ。選んでいる余裕などなかった。


 他の教科と違い、美術の先生は高校に1人で十分だ。正規の雇用はほとんどなく、スポーツ活動の盛んな公立高校の非常勤講師を務めて丸3年が経とうとしている。




 米の研ぎ汁をシンクに流していると、インターフォンが鳴った。男の一人暮らしのワンルームに用がある人間などたかが知れている。応答するのもおっくうで、いきなりドアを押し開けた。

 「おう」

 間宮が声を掛けると、玄関先のか細い少年がぎこちなく頭を下げた。

 「明日卒業式だろ。なにしてんだよ」

 伊賀倉は顔を上げながらすっと目をそらす。片頬を少し膨らませると、いつもは唇の陰に隠れている顎のほくろが露わになる。


 「……先生こそ」
 「俺は出席しないからいいんだよ」


 伊賀倉は間宮が顧問をしている美術部の3年生だ。センター試験前から授業は休みに入っているので、わざわざ家から来たのだろう。

 同世代の男子と比べても肉付きが悪く、肩や胸が薄い。着ているオーバーサイズのグレーのパーカーに埋もれてしまいそうだ。


 「まあ、入れよ」


 ドアを全開にすると、とことこと慣れた感じで入ってきた。



 「マンガか」
 「うん」


 伊賀倉はわき目もふらず壁一面の本棚の前に立ち、吟味し始めた。この狭い部屋で唯一大金をはたいた本棚と生活費で唯一惜しまないと決めているマンガ。

 油彩科出身だが、自分でも絵を描いてみようと思うきっかけはマンガだった。

 理不尽に憎しみを募らせた学生時代、どんな逆境にも負けず、仲間とともに夢をつかもうとする主人公たちに間宮はなぐさめられた。ここではないどこかに脳のすべてを持っていかれる崇高な時間にどれほど救われたか。


 伊賀倉は少年漫画を3巻ほどまとめて引き抜くと、持ってきたトートバッグをローテーブルの脇に投げるように置いて間宮のベッドにどすんと腰掛ける。遠慮なくごろんとあお向けになり、まずは表紙をじっくりと眺めた。


 いつものことなので間宮も気にしない。教師が頻繁に生徒を私室に上げているなんてばれたら、まあクビだろうが。


 「春からは東京だったか」
 「うん」


 1ページ捲ってカバーを外しながら伊賀倉はうなずく。カバーの裏や下に別の絵が仕掛けられていることもあるので、チェックしているのだろう。


 「引っ越しの準備とか済んだの?」
 「まあ、だいたい」
 「あ、そう」


 先生と生徒というよりも兄弟みたいだなと思う。目上の人に対する敬意が全く感じられない。実際、目上の人が持ってしかるべき威厳や誇りが間宮にはないのだから仕方ないが。


 「本当に行かなくてよかったのか」
 「なにが」
 「芸大」


 んー、と唇を動かすことなく喉の奥だけを震わせて、伊賀倉は次のページへ進む。

 大きな瞳が1コマ目を捉える。その一瞬で彼の脳には写真のようにくっきりと焼きつけられているのだろう。彼は一度見た光景を記憶し、その手で自由に紙の上に再現できる。正確さだけでなく表現も豊かだ。特にデッサンはずば抜けていて、線の強弱と濃淡の幅が広い。


 それでいて食べ物ならその味が舌に蘇るような、生き物なら今にも動きだしそうな、テクニックだけではどうしようもない魅力を宿している。

 

 全国トップレベルの公立芸大を受験すると聞いたときには、自分でもよく考える前に「よかったな」という言葉がこぼれていた。すでに合格したと聞かされた気分になっていた。どの学科を志望しているのかすら聞かなかった。


 むしろもう一人の男子部員の綾瀬が同じ大学を受けたいと言い出した時の方が心配した。彼もよくものを見て描けるが正確さには甘いところがまだあって、何より筆が遅かった。決心したのが3年の春。画塾には通わないと言うし、あと1年で間に合うのかと思っていたが、蓋を開けてみればスベッたのは伊賀倉の方で、信じられずに何度も確認した。


 間宮が無神経に何度も結果を聞いても、目の前で綾瀬がガッツポーズして舞い上がっても、伊賀倉はほとんど表情を変えることなく、なんならけろっとして、すがすがしそうだった。

 滑り止めの私立はなぜか文学部を受験していて、美術の道はすぱっとあきらめた。

 決めた大学も浪人してでも通いたいやつがうじゃうじゃいるような難関私大だが、彼の人生を考えてというよりも、世界の文化的発展を考えて、この才能を手放すのはもったいないなと思ってしまう。


 「飯食ってくだろ」
 「うん」


 ただ彼自身はそれほど落ち込んでいないようで、すっかり物語の世界にトリップして返事も心ここにあらずという感じだ。

 腕を上げ続けるその姿勢はつらくないのだろうかと不思議に思うが、一通り読み終えると今度はうつ伏せになって、気に入ったページだけ穴が開くほどじっと見返す。


 この光景も今日が見納めか。


 間宮は不意に感傷的になったので、キッチンに戻る。米袋の口を大きく開け、マグカップにすくって洗いかけの米の中に落とした。




 きっかけは赴任してすぐの夏のことだ。

 5時間目に授業を終え、部活が始まるまでの時間を美術準備室でつぶしていた。非常勤の間宮にクーラーのきいた職員室のデスクなんて与えられるわけもない。

 本来なら授業の準備をしなければいけないのだが、美術なんて大半は描かせておけばいいし、手本も昔の生徒の作品が残っているのでそれを使えばいい。

 

 あまりの暑さは人間から能動的に仕事をしようという意欲を奪う。授業中だし誰も来やしないだろうという油断もあって、間宮は前日に買ったマンガをこっそりと読んでいた。


 勤務中に我慢ができなくなるほど面白いというわけでもないが、こうしてサボっていると自分を枠に押し込めようとする不可抗力からうまく抜け出せたようでちょっと気持ちがいい。

 そもそもなりたくてなった職業じゃない。ばれたって精神的な損失はそう大きくはない。他の先生だって本当は自分のことしか考えていないのだ。自分の思い通りに授業を進めさせてくれて、大人の自尊心をうまいぐあいにくすぐる生徒ばかりかわいがっているくせに、「生徒のため」という太刀打ちできない正義を振りかざす。誰だって自分の生活に何かしらの不満があるはずなのに、生徒たちには将来は明るいものだと植えつける。

 そんな先生になるくらいなら、クビになる方がマシだ。

 背徳感が気を大きくしていた。同時に五感を鈍らせていた。

 

 「それ、なに読んでるんですか」


 すぐそばに誰かが立っていることに気付かなかった。あれだけ余裕をかましていたのに、いざばれると飛び上がって持っていたものを背中に回して隠した。

 

 「なに読んでるんですか」


 声の主を確認して、そのあどけなさにほっとした。

 生徒だ。

 だが、油断は大敵。チクられてはたまらない。カッターシャツの白に目がくらむ。


 「次の授業の参考書だよ」


 自分でも聞いたことがないくらいやわらかい声音で鳥肌が立った。一回りも年下に媚びる日が来るとは。


 「マンガですよね」
 「そう。マンガも芸術だから」

 

 青色の名札で伊賀倉という名字と彼が1年生だという情報を手に入れる。授業では見たことない顔だから、おそらく書道か音楽を選択しているのだろう。


 「次の授業で使おうかと思って」
 「今は油絵を描いているって聞きましたけど」


 苦し紛れの言い訳を伊賀倉は涼しい顔で一刀両断する。口調は抑揚がなく表情も乏しいが、返答までの間が短い。頭の回転は早そうだ。

 また無職か、と貯金通帳の数字が小さくなっていく日々がよぎる。


 「ほら、やるよ」


 なにもかもどうでもよくなって、マンガを投げる。受け取るかと思ったが、伊賀倉の動きはとろく、本はふたりの間にばさりと落ちた。ワンテンポ遅れて拾い上げる頭頂部を見下ろした。


 「それ持って親に言うなり担任の先生に言うなり好きにしろ」


 伊賀倉は鼻に触れるんじゃないかというくらいに本を近づける。自分なりにかなり大胆なことを言ったつもりだが反応はなく、ひたすらコマを追っていた。

 10秒、20秒と無言の時間が過ぎて不安になる。


 「……おい、どうした」
 「先生?」


 マンガから目を上げることなく、とろけたような声で言う。


 「俺、なんでこんな時間にこんなとこにいると思います?」


 急に質問の矛先が向けられて戸惑った。冷静に考えればわかることなのに、間宮は言葉に詰まった。


 「サボってるんです、俺も」


 はらりとページをめくる。なぜサボるのに美術準備室なのか不思議に思うべきなのに、頭に浮かんだのは彼が読んでいるのは5巻なのに、なぜそんなに夢中になれるんだろうという場違いな疑問だった。


 「先生はマンガ、たくさん持ってるんですか?」
 「え、ああ。200冊はある」
 「貸してください」
 「え?」


 突拍子もないお願いに脳内が真っ白になる。


 「ばれたくないのは同じです。いや、俺は注意されるぐらいですけど、先生はそれじゃ済まないかもしれません」


 伊賀倉はもくもくと読んでいる。ちらりとも顔を上げず、昨日の晩御飯を報告するみたいに軽い調子で続けた。


 「1冊ずつ、古いのでいいから貸してください。このことは言わないんで」


 次の出勤日から、蔵書を少しずつ伊賀倉に渡していった。彼は何も言わずに返却するが、こちらが感想を求めると必ず間宮の琴線に触れたポイントに言及する。その上、どのシーンのどの絵の迫力があっていいとか、あのセリフの言い回しがキャラクターに似合っているとか、ただ純粋に物語世界に浸るだけでなく、美術作品として観察し、ビジネスとして分析してくる。

 授業に必要ないものを持ち込み、さらにそれを生徒に定期的に貸し出すなど、勤務時間にサボるよりたちは悪いが、今度はどんなところに目をつけるだろう、これはどう読むだろうと徐々に選ぶのが楽しくなってしまった。理解者ができた喜びは心の深いところのこわばりをほぐしていった。


 伊賀倉の読むスピードは速く、1回に持ってくる量も次第に増えた。

 「重いし面倒だから放課後家に寄ってけば」と冗談半分で誘ったら、週に2回ほど上がり込むようになった。

 

 突然入部届を持ってきたのは2学期も終わるという頃である。腕試しにワインボトルのデッサンを描かせ、その能力の高さに度肝を抜かれた。それまで自由帳に見よう見まねで描くことはあったが、帰宅部だったので作品として取り組んだのは小中学校の授業と写生会くらいだという。いくらかデフォルメを加えている個所があったので軽く指摘すると、すぐ要領をつかんだ。どうしてこれまで絵の道に進まなかったのか。感覚が優れている人ほど、自分が他人よりも能力が高いことに気づくはずなのに。



 「肉だ、卒業祝いだしな」


 テーブルに皿を置くと、伊賀倉は読んでいたマンガをさっと閉じて起き上がる。肉といっても豚しゃぶだ。まだ肌寒いが、茹でてごまだれをかけるだけでご飯も野菜も進むのでいい。

 伊賀倉は文句も言わず、ベッドの段差をするりと降りてそのまま席に着き手を合わせた。


 「家に連絡しなくていいのか。赤飯とか用意してたんじゃないのか」
 「出るときに行ってきたから大丈夫」
 「最初からご馳走してもらうつもりだったのかよ」


 大皿に箸を突っ込み持ち上げると、薄い豚肉がひだをふりふりと揺らす。湯気の立つ白飯の上に乗せる。クリーミーな黄金色のたれが粒の隙間にしみていった。


 なんとなく進路のことは切り出せずにいる。明日で先生と生徒の関係は終わり、伊賀倉は東京に行く。こうして家でじっくりと向かい合う機会も今日限りのことだろう。

 そう思うと、間宮が才能を認めていること、ひとつの大学に落ちたくらいでどうか自分に絶望しないでほしいこと、そういう夜中にじわりと浮かんでくるような、生半可に口にするには恥ずかしいことを、今、伝えたほうがいいような気がしている。


 「第2ボタンはゆるめておけよ」


 意志とは反対に的の端の方の2点くらいのことばかりを口にしている。

 からんと手からこぼれた箸が茶碗の上のふちを転がる。顔を赤らめて動揺する伊賀倉は思春期の男子として100点満点の反応だった。


 「告られるかもしれないだろ」
 「誰に」
 「部長の初田、絶対お前のこと好きだろう」


 名前を出した瞬間に耳まで赤く染めて、不自然なくらいご飯を頬に詰めた。

 答えがどうであっても、好意をこうやって素直に受け止めてくれるだけで相手は幸せなんじゃないかと思う。

 甘酸っぱい反応が懐かしく、しばらく箸を休め照れ隠しでもくもくと米を掻き込む伊賀倉を見ていると、不意に彼のそばのトートバッグに目がいった。

 麻の生地はべろりとめくれ、半分むき出しになったノートの裏表紙には前髪で片方の目が隠れた男の子のキャラクターがサインペンで描かれていた。デフォルメされすっきりとしているが、髪の流れや服のしわには動きがあり、眉毛や唇は線一本で済まさず立体感がある。リアルさのバランスが独特だが、肝心の瞳には光が宿りかわいげもある。来ている服は袴がベースだがフード付きのマントのようなものを羽織っている。


 「うまいな」


 漫画家が描いたかのような完成度の高さに会話の流れも忘れ呟いていた。伊賀倉は一瞬のなんのことかと首を傾げたあと、間宮の視線をたどり、そっとノートを取り出した。


 「マンガを描いてみたんです」


 急に改まって言うと、ためらいもなくノートを間宮に差し出した。ゆっくりと受け取り、後ろから開く。


 罫線の上にしっかりとコマ割りされ、水性ペンでセリフまで書き込まれている。描いてみた、という気軽な言葉とはかけ離れたクオリティーに、すぐにはストーリーが入ってこない。


 鉛筆の跡はところどころ見られるが、汚れてはいない。太さが一定で強弱をつけるのが難しい水性ペンだが、つけペンのような躍動感だ。ベタも細いペンで塗りつぶされている。ノートの真ん中あたりで終わっているが、これだけの量を描くのに何本消費したのだろう。


 「オリジナルか」
 「うん」
 「初めて?」
 「初めて。どうですか」


 顔を上げると、餌を待つ犬のように間宮を見ていた。口元にわずかに不安を浮かべ、それでも瞳にはトキメキが満ちていた。頭の中を覗き込まれる羞恥心はどこにもない。

 投げかけたものにリアクションをもらえることがどれだけ尊いか、彼はすでに気付いている。高校生にしてなかなかの神経だ。ただのノートではあるが、ペン入れした状態で他人に見せようという精神もいい。


 「それ、見てみろ」


 間宮がベッドの上を指さす。感想を待っていた伊賀倉は戸惑いながらも腰をひねる。先ほどまで読んでいた単行本が枕元にある。伊賀倉が腕を伸ばしている間に、間宮は立ち上がり、デスクの椅子を引く。

 奥から埃のかぶった衣装ケースを引っ張り出し、蓋を開けた。


 「まず、原稿用紙を買うこと」


 本を手にした伊賀倉が興味しんしんでケースを覗く。


 「ノートは安上がりだが、印刷するまでがマンガだ。メーカーによって質感が違うから好みに合うのを探せ。次に」


 ケースの中から洋菓子の進物箱を取り出し、食卓に置く。ゆっくりと開けると、中にペン軸が数本転がっている。

 「つけペンを覚えるといい」

 インクでくすんだ木の軸を1本、伊賀倉に渡してやった。小袋をぺりぺりとはがし、中のものを手のひらに出す。

 

 「軸の先に切り込みがあるだろう。そこにこの万年筆の先みたいなのを組み合わせる。インクボトルに直接先っぽをつけて描く。一発で線に強弱がついて立体感が出る。Gペンと丸ペンがあればお前なら十分だろう。そのマンガもそうやって描かれてる」


 伊賀倉の手元の単行本を指さす。ちょうど真ん中あたりを開いて、もう片方の手に握ったペン軸と交互に見比べていた。手のひらサイズのボトルも見せたが、開けてからだいぶ経つのでとうに使える代物ではないだろう。


 「トーンはあえて使わなかったのか?」
 「トーン?」


 たった三文字のイントネーションさえ危なげに、伊賀倉は首を傾げた。

 彼のマンガはすべてペン一本で描かれていた。線で影をつけ、濃淡はその線の密度によって表現されていた。手の込みようには圧倒されるものがあるが、まさかトーンを知らなかったとは。すべて直筆の線というのが彼の良さでもあるが、画材をひとつでも多く自分のものにして、表現の幅を広げるに越したことはないだろう。


 「そのマンガの灰色に見える部分、よく見ると点が集まっているだろう。マンガは黒しか使えない。だからお前が線でやろうとしたように、点の密度で灰色を表現している。でもそれは手描きじゃなく、トーンというシールのようなものを貼っているんだ」

クリアファイルに挟んでおいたA4サイズの薄い紙を床に広げる。


 「これを原稿に直接貼って、下書きの線に沿ってカットする。カッターで表面を擦ると模様が削れてグラデーションもつけられる。点以外にも効果線やキラキラ、チェック柄なんてのもある。まあ、最近はデジタルでやる人も多いが」

 「へえ」


 間宮の熱弁に対しあまりにそっけない返事だが、自分を囲む目新しい道具たちをかわるがわる観察する目はきらめき、頬は薄桃色に上気している。


 「好きなの持って帰れ」
 「え」


 伊賀倉がばっと顔を上げた。


 「古くて使えないものばっかだが、練習とか、買うときの参考くらいにはなるだろ」

 「でも」


 間宮を見つめる表情には嬉しさと遠慮が半分ずつ浮かんでいる。

 こういうときに無邪気にありがとうと言える人間より、将来ずっと苦労することになるだろう。が、それが彼の品の良さでありかわいげだと思う。


 「先生は使わないんですか」


 伊賀倉の視線を振り払うように、間宮は食卓に向かって座り直す。箸ですくい上げた米はすっかり冷え切り、ごまだれを吸って縁のあたりが透けていた。


 「昔遊びで集めたものだ。それに、なんか、持っててもらいたくなったんだよ」


 口内でふやけたごはんを頬の裏の熱が温めていく。



 「じゃ、また明日」

 手を上げると玄関扉の向こうで伊賀倉も軽く頭を下げた。ぱんぱんに膨れたトートバッグを肩に掛け直し、メタルの階段を下っていく。

 すでに外は暗い。消えていく背中を見送りながら、頭の中ではひとつの考えがぼやぼやと輪郭を帯びていった。


 伊賀倉が芸大に進学しなかったのは、マンガを描くためではないか。

 彼の実力なら滑り止めでも高いレベルの私立が狙えただろうし、国公立2次もチャンスはあった。

 ただ漫画家になるのに必ずしも学歴は必要ない。むしろ他に専門分野があることや多くの人と同じ経験をしていることが武器になるケースもある。

 伊賀倉はそれを計算して、あえて違う分野を学ぶことにしたのではないだろうか。


 だとしたら、間宮との出会いは彼の人生を大きく変えてしまったかもしれない。

 トーンの存在すら知らなかった彼に「マンガ」をもたらした自分はもしかしたらものすごく罪深い。無責任に誰かの心を動かし、導いて、正解のわからない未来へ送り出してしまった。


 まだかすかに冬のにおいをはらんだ風が下から吹き上げてきて、間宮の額を打つ。指先で触れると濡れている。暗闇に細かな雨粒が空を走っていた。

 取っ手にぶら下げた不愛想なビニール傘に目が留まり、思わず小さく苦笑をこぼした。


 「なんか、先生みたいだな」


 あてのないひとりごとはしばらく雨音の中にとどまって、藍色の空に溶けていった。


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