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1ミリ向こうの非日常(短編連作『今日も今日とて私を生きる』)


 来ない。

 スマホの液晶に人差し指を上から下へ何度も滑らせた。そのたびに受信ボックスはロードされるが、一向に新着メールは表示されない。

 苛立ちまじりの息をこぼし、顔を上げる。蜃気楼に歪む向かいの車線に特急電車が滑り込んでくる。スーツケース手に並ぶ人々を眺めていると、自分も階段を上がってホームを渡り、その洗練された白い車体に飛び乗りたい衝動に駆られる。2時間後に待ち構える面接、そのために休んだ講義、減っていく貯金、将来への不安、すべてを放り出して、あてもなく。

 だけど、栞はいつだってどこにも行かない。足は堅固な日常のループに絡めとられ、逸脱を許してはくれない。自己分析、企業研究、ES、SPI、GD、面接、お祈りメール、自己分析、企業研究……。

 頭上で電車の接近を告げるメロディーが鳴り、見慣れた野暮ったい車両が視界を塞ぐ。もう一度だけスマホに触れて、ジャケットのポケットに押し込む。



 初めて訪れた電子漫画の出版社のロビーは節電のため薄暗い。9月中旬を過ぎても衰えない暑さの中、スーツ姿の学生が少なくとも50人は集まっている。

 ざっと見渡して、栞はため息をついた。鬼門の筆記テストをクリアし、念願の内定も間近かと浮き足立っていたのが恥ずかしい。面接は数日に分けて行われるようだし、この様子だと筆記テストはほぼ全員通過しているようだ。ゴールが遠のくと途端にやる気がしぼんでいくのを感じる。


 出版は斜陽業界と言われて久しいが、学生からの人気は高い。数か月前には東京の中堅出版社が破産により内々定を取り下げた。ニュースでは大きく取り上げられたものの、少ない求人に応募者が殺到している状況は変わらない。

 ひとたび心が揺れると、目につくものひとつひとつにうんざりしてしまう。小規模とはいえ新しい企業なのだから明るく洗練されたオフィスにしたらどうか。「ここでバイトしてるんやけど、マジホワイト。みんないい人やし」と左隣にいる男子学生が余裕をかましているのも鬱陶しいし、バイトがこれほど語彙力に乏しくても成り立っているこの会社にも呆れる。そよそよと生ぬるい冷房の風すら気に障る。

 この会社に受かりたくて来ているはずなのに、刻一刻と幻滅していく。これではいかんと、しわを刻んだ眉間を親指で押す。


 刺激を遮断するようにスマホを取り出した。依然メールのアイコンに新着の表示はない。ネットを立ち上げ、検索窓に就活掲示板の名前を打ち込み、教材系出版社のスレッドに飛んだ。


>お祈り来た


 メールでESの結果が届くことになっていた。合否に関わらず送られてくるはずなのに、栞はまだ受け取っていない。最新の書き込みは2時間前。念のため再度確認したが、やはり届いていない。

 ESを郵送する際に宛先を書き間違えたのだろうか。とはいえ、30件近く受けてこんなことは一度もない。送付前に宛名は必ずチェックするし、万一間違えていたとして戻ってこないのはおかしい。不手際があるなら企業側に違いない。選考の段階で紛失されたか、通知を送り忘れているか。なんと粗雑で無責任な会社なんだろう。戸惑いに代わって憤りが込み上げてくる。こんな仕打ちをする会社なんですよと声高に叫びたくなって掲示板の入力スペースをタップした。


 企業ごとに就活生が情報共有できる掲示板サイトは、サークルの先輩に教えられるがまま登録した。その日のうちに片っ端から興味のある企業のページを検索したのを覚えている。「先輩から聞いたけど、サビ残やばい。休日数多いけど、持ち帰りで仕事してるだけ」とか「給与は同業他社より多少あるが、ボーナスは1倍以下。給料上がらん。有休取ったら出世なし」とか、求人票より数段生々しい口コミに不安を煽られもした。

 実際に選考が始まると就活生たちが赤裸々に結果を報告し合う場と化した。連絡は通過者のみという企業も多く、栞は発表が済んだかを確認するためだけに利用していた。1文字も発信したことはない。いざ入力しようとすると指先は細かく震えた。

 まともな言葉はひとつも打ち込めず、くすぶる気持ちを慰めるように更新マークを押す。先ほどはなかった書き込みがトップに表示される。


>エントリーシート送ったのに、連絡来ない。受かってんのか落ちてんのかわからんくて、生殺し状態


 どうやら栞と同じ状況の学生がいるらしい。味方を得たようでほっとした。と同時に、やっぱり企業側がおかしいのではないかと正義感に近い怒りも湧いた。


>ちゃんと郵送したの?企業に届いてないんじゃね?
>エントリーシートもまともに書けないの草
>こんなとこに書き込んでる暇があるなら、企業に問い合わせろ


 ボタンを押すたびに、名前も知らない誰かのむきだしの反応が更新される。栞に直接向けられた言葉ではないのに、毒気に当てられてくらくらする。

 同じ選別される立場なのに、なぜこんなに上から目線なんだろう。この人たちはみんな選考を通過したのだろうか。連絡が来ただけで“上”だと知り、勇気づけられた不合格者なのだろうか。顔が見えないのをいいことに優越感を振りかざし、日ごろの理不尽に対する鬱憤を吐き出しているのだろうか。

 こうして現実世界に集えば、誰もがぴんと背筋を伸ばし、愛想のよい微笑を湛え、誠実で熱意溢れるフェアな若者に映るのに。

 見るの、やめよう。

 頭の中では繰り返し呟いている。目下の面接のことを考えよう。志望動機と自己PRを確認して、深呼吸、それから笑顔体操。次、次、と思考を引っ張ろうとするが、視線は何故か吸いつくようにスマホから離れない。更新を連打していると、長いコメントが投稿された。


>先輩に聞いたが、この会社は毎年こういうことがあるらしい。明らかに見込みのないエントリーシートは扱いが雑。問い合わせてもいいが「不合格でした」と個別でお祈り突きつけられるのがオチ。合否が分からなくてドギマギしているようだが、期待するだけ無駄。たいがいの企業は辞退も見込んで、通過者に先に連絡する。今日まで連絡がない時点であきらめろ。そもそも君が人事だったとして、大切な人材のエントリーシートをなくすか?まあ、入社しても書類紛失、手続き遅延と同じようなことで苦労するだけ。君もこの程度の企業に一読してもらえない程度のエントリーシートだったってことだけどな。


 衝動でスマホの電源を根こそぎ切った。


 「お待たせしました。中へお入りください」


 採用担当の女性が案内する若い声が響く。面接前に見るんじゃなかった。スマホを乱雑にバッグに放り込む。ただ、歩いていただけなのに、横からめった刺しにされた気分。



自動ドアが開くと、激しい雨音と湿った空気が一緒になってなだれ込んできた。うわーと声を上げながらも、学生たちは折りたたみ傘を取り出す。中にはビニール傘を持っている人もいる。天気予報をちゃんと調べていたのだろう。灰色に煙る外の世界に消えていくいくつもの背中を見送りながら、こういうところもチェックされているのかもしれないと絶望的な気持ちになる。

 駅までは10分ほど歩いた。さすがに走ってどうにかなる距離ではないが、どこからか監視されているような息苦しさの中で雨宿りするのも気まずい。面接の出来は最低だった。どうせこの企業にかけた時間は無駄になるのだ。神様は信じていないが、栞のために感傷に浸るためのシチュエーションを整えてくれたような気もする。

 走るか。

 覚悟を決めてヒールの状態を確かめていると、背後で気配を感じた。


 「傘、入りますか」


 振り返ると、リクルートスーツの男と目が合った。初対面の他人に話しかけているとは思えぬほど愛想のない表情に、数十分前に抱いた苛立ちがそのままよみがえる。


 「結構です。走るんで」


 視界の端に入るビニール傘を振り切り、栞は窓の外に視線を定めた。



 集団面接で同じグループにいた男だ。名前はイガクラ。他の就活生が少しでも印象をよくしようとぎこちなく頬に力を込め、声を上ずらせる中、トップバッターで指名されたこの男は、全く表情筋を機能させず、ゆっくりと名前、出身大学、長所を述べた。緊張していても一生懸命さはアピールするものだが、この男からはそのような焦りは微塵も感じられない。

 こいつ絶対落ちるだろ、と一度は馬鹿にしたが、じっと聞いていると他の学生たちに比べ、話がすっと頭に入ってくる。どんなトラブルにも動揺せず、豪胆に、冷静に、処理していく就職後の姿がありありと想像できた。心なしかイガクラが話している時だけ面接官の相槌も大きい気がして、栞はすっかりペースを乱されてしまった。自分の番が来て返事をすると、用意していたはずの自己PR文が飛んだ。舌が覚えていた言葉をつないでなんとか乗り切ったが、ただ暗記した文章を読み上げた感は拭えない。もう駄目だと思うと、愛想を振りまくのがあほらしくなり、最後まで挽回した感触は味わえなかった。


 「走るって、こんなに降ってるのに」


 この男のせいで持ち駒を失ったのだ。世話になるわけにはいかない。


 「もう今日は帰るだけやから」
 「でも」


 渋るイガクラにイライラが募る。ちらりと窺うが、白磁を思わせる無味乾燥な表情は言葉の割りに少しも戸惑っていない。面接のときはやけに堂々と映ったが、改めて観察すると顔立ちは幼く、中学生がスーツを着せられているようだ。断ろうとすると、子どもを無下に扱っているような妙な罪悪感が湧いてくる。




 今にもビニールを突き破らんと打ち付ける雨の音が気まずい空気を掻き消していく。成人男性と並んで歩くにはさすがにコンビニの傘は小さい。栞の右肩は雨粒を受けているが、イガクラが傘をこちらに傾けてくれる素振りはない。


 「最寄りの駅から家まで歩くんですか」


 イガクラが前を見据えたまま聞く。


 「や、歩いて20分くらい。でも、ここから1時間くらいかかるし、駅に着く頃にはやんでるやろ。最悪、コンビニで買えばいいし」
 「へえ」


 自分から切り出しておいて、さほど興味もなさそうに相槌を打つ。が、顔を合わせるなり「内定いくつ?」とデリカシーのない質問をかましてくるタイプの就活生よりいくぶんか好感は持てた。


 「えっと、イガクラくんは?」


 名前を呼ぶべきかためらって、結局呼ぶことにする。


 「ホテルに泊まる。明日もこの近くで面接があるから」


 不快感を露わにすることもなく、イガクラは宿泊するホテルの名前を付け足した。栞の名前はたぶん覚えてないんだろう。


 「あ、私と逆方向。どっから来たん?」
 「東京」
 「ふうん。東京やったら出版社いっぱいあるやろ。大手は終わってるけど」
 「うん」


 面接での遺恨のせいで、ついトゲのある言い方になってしまう。この時期に地方へ飛んでまで就活を続けている理由は、この男も内定が取れていないのかもしれない。先ほどは余裕たっぷりに見えたが、冷静になってみとイガクラのように感情表現に乏しいタイプは面接には不利だろう。新人らしくフレッシュな人材が好まれそうなものである。


 「出版志望なん?」


 即席の仲間意識が芽生え、栞は踏み込んだ質問をしてみる。


 「うん。漫画がやりたくて」


 スピードを出したトラックが水たまりの上を通り過ぎて、車道側を歩いていたイガクラの脚を濡らした。イガクラは意に介さず歩を進める。この男に不快感や怒りはないのか、はたで見ていてさすがにたじろぐ。


 「へえ。私は、読書が好きなだけでなんとなく出版社受けてるから。やりたいこと決まってるんはいいな」
 「そうだね」
 「志望動機、めっちゃ困るねん」
 「俺も、困るよ。『希望の配属になるとは限らないけどいいですか』って、絶対聞かれるし」
 「やりたいことがはっきりしてる人がいいって言いながら、本当はなんでもやります!って都合よく動いてくれる人がほしいんやろ。社会に出ても未来が見えんわ」


 やからいまいち本気になりきれへんのかなーと愚痴を吐き出していると、左側から視線を感じる。振り向くと、イガクラのまなざしとぶつかった。歩行中だというのに、大きな瞳は震えもしない。

 「どうしたん」
 「いや、そこまで考えたことなかったから。企業って、そうなの?」


 呆れて思わず笑いがもれる。


 「知らんよ、企業がなに考えてるかなんて」イガクラという存在がどうにも掴み切れない。周りに流されず、愛嬌を振りまくことも、取り繕うこともない。それでいて企業の思惑を読んでやろうというわけでもない。「汲み取れてたら、今頃、バンバン内定もらってるって」


 黒光りするアスファルトを軽く蹴り上げる。パンプスの爪先から飛沫が散った。イガクラは、なにも言わない。


 「気づいたら、ゼミでもサークルでも、就職が決まってないのは私だけになってた。テニサー入って、OBOG訪問やって、講義も真面目に受けて、単位も落としてない。まっとうに大学生やってたと思うねんけど、なんの差なんやろな」


 憐れまれるくらいなら、自分からさらけ出した方がよっぽど傷は浅い。自分でも意識しないうちに言葉で沈黙を埋めている。


 「最近、ホームに立ってるとさ、逆方面の電車が輝いて見えるんよ。あてもなく飛び乗って、馴染みのない駅で降りて、目につくものすべてを網膜に焼きつけるのに夢中になってたら、自分が見られる側やってことをひととき忘れられるんちゃうかって。でも、いつも日常の引力に負けちゃう。勇気が出ないんじゃなくて、絡めとられてる感じ」


 一息に吐き出すと、鬱憤は半分ぐらい解消された。イガクラとはもう二度と会わないかもしれない。彼がどんな反応をしようと気に病む必要はないと思うと、心のストッパーが緩んだ。


 「さっき、走ろうとしてたじゃん。雨の中走ったら、それこそ注目の的だと思うけど」
 「あれは、あそこまで自分の世界に浸れたら、周りの目とかどうでもよくなって気持ちいいかなって」
 「逆に?」


 イガクラの足取りがわずかに遅くなる。1歩分待って見上げると、困ったように眉を寄せて、笑っていた。こいつも笑うのかと脱力すると同時に、唇の影に隠れていたほくろに目が留まる。すべてがつくりもみたいな彼の中で唯一、理由もなくそこにあるほくろが、彼が人間であることを保証しているように見えた。


 「変?」
 「変っていうか、いいね」
 「そう?テーマパークにコスプレしていきたくなるみたいな感じちゃう?」
 「公道をセルフでテーマパーク化するってことでしょ、いいじゃん」


 馬鹿にしているのかと訝ったが、イガクラは本当に“いい”と思っているようで、うんうんと頷いて傘を揺らした。


 「イガクラくんは、就活どんな感じなん?」


 散々聞かれてうんざりしたこの問いを、自分が口にしていることに驚く。本当にイガクラの現状が知りたいわけではない。栞だけが心の内を吐露して終わると、帰り道、何かに苛まれるような予感がしたからだ。


 「俺は、まあ、ぼちぼち」


 先ほどまで楽しそうに話していたのに、急に歯切れが悪い。


 「内定もらったん?」
 「今はないよ」
 「今ってなに、蹴ったん?」


 内定ゼロの同志なのでは、という淡い期待は瞬く間に砕け散る。聞かなきゃよかった。仲間意識はしゅるしゅると消え失せ、劣等感と嫉妬が胸の底を薄く浸し始める。

 前方から再び大きなトラックが迫ってきて、濁音まみれのオノマトペが返答を遮った。栞は歩道側へ寄ったが、イガクラとの距離が開いただけだった。飛沫はイガクラの腿から下をもろに直撃し、勢いの増した雨粒が栞の頭のてっぺんに落ちた。


 「蹴ったっていうか、蹴られた」

 トラックが遠のくのを待って、イガクラはゆっくりと言った。


 「蹴られた?」
 「うん」


 雨とタイヤが奏でるザーが思考を阻害する。イガクラの言葉が意味するものをすぐには掴めない。

 内定を蹴る、は辞退すること。では、蹴られるとは。そこまで巡らせて、中堅出版社が内々定を取り下げたニュースを思い出した。


 「もしかして、東京の」
 「うん」
 「まじか」


 いざ当事者を前にすると、子どもじみた反応しかできなかった。十数人とはいえ、残りの大学生活謳歌モードから一転、振り出しに戻された就活生は確かに存在した。「求人は残り少ない」「なぜ経営難で採用募集したのか」報道番組やネット記事を通して伝わる戸惑いの声を聞きながら、この落差を味わうくらいならずっと内定ゼロの方がましかもしれないと、這いつくばる自分を慰めていた。それでも彼らと鉢合わせる可能性を考慮していなかったのは、所詮、他人事としか思っていなかったのだろう。

 今さら「大変だったね、お互い頑張ろう」なんて上っ面な同情も白々しく、栞は口を結んだ。なにをどう取り繕っても傷つけてしまう気がして、というかもう傷つけてしまった気がして、内定の話なんてするもんじゃないと数分前の自分を恨む。だが、この期に及んで、一度は採用してもいいと認められただけ希望があるじゃないかと、あくどい羨望が10%ほど占めていることに気づいてほとほと嫌になった。


 「まあ、でも、別にその会社じゃなくてもやりたいことはできるから」


 あまりに不自然な間のあと、イガクラは慣れたように言った。声のトーンは相変わらず単調で、笑みこそ消えたが、落ち込んでいるふうではなく、むしろ清々しささえ感じた。


 「やりたいことって、漫画の編集?」
 「まだデビューしてないけど、担当したい漫画家がいる。そいつが元気に描き続けてくれたら、俺は別にどこの会社でもいいわけだし」


 ぶれることなく前を向いてイガクラは歩く。横から見上げる彼は、栞の感知できない異次元を見据えているようだった。


 「卒業までに1社受かればいい。受かんなかったら、バイト代で口説いて自費出版」


 まるで前々からそう考えていたとでもいうように、すっぱりと言い切った。それはそのまま栞に宛てられた言葉にも思えた。どれだけたくさん内定をもらったって、勤めるのは1社。副業するにしても2、3社だろう。まだ半年もあるし、早く決まったって、実際に肩書きが変わるのは4月。スタートはだいたいみんな一緒だ。自分はなにをそんなに焦っているのだろう。

 ほっとすると同時に、イガクラと自分の間に聳える巨大な壁にも気付かされる。栞はどれだけ自己分析をして、健全で前向きな志望動機をつくったって、心の底では働くことや社会に所属することのやりがいや希望を信じていなかった。苦しい就活を乗り越えたところで、先に待っているのは後輩たちに「サビ残ばっかり。給料上がらん。チャレンジしろは建前だけ」と愚痴る日々なのだと想像している。そのくせ足がへばりついて逆方面の電車に乗れないみたいに、そのルートから逸れることができない。

 だけど、イガクラは、違う。なぜデビュー前の漫画家に人生の主軸を決められるほど惹きつけられているのか、会ったばかりの栞にはわからない。だがその絶大なる夢の前においては就活も就職すらも手段でしかないのだと思う。たくさん内定をもらおうと、大企業に勤めようと、内々定先に振り回されようと、マウントを取られようと、憐憫の目を向けられようと、目指す場所は変わらない。だから印象を取り繕うこともせず、ありのままの自分で、無重力空間で宙返りするみたいに自由に道を歩いている。


 視界の先に、ようやく駅舎が現れる。

 自分も、イガクラような夢や目標があれば、もう少しゆとりを持って世界と接することができるのだろうか。顔も知らない掲示板の住人や、衰えた冷房や、劣等感を煽る学生にイライラせず、どっしりと構えていられるのだろうか。本当は内定より先に手に入れなきゃいけないものがあるのかもしれない。でも、そんなもの、頑張れば見つかるものなのか?イガクラのような人は幸運なだけじゃないのか。

 ぐるぐると考えを巡らしていると、ぽつんと冷たい雫が額を打った。振り向くと、イガクラの手からゆるやかにビニール傘が後ろに傾いていくところだった。やがて背後でばさりと落ちた。


 「なにやってんの」


 とっさに傘に手を伸ばす。

 
 「いや、ずっと考えてたんだけど」
 「は?」
 「道の真ん中でずぶ濡れになったことがある人生とない人生なら、ある人生の方がいいかなって」
 「は?」


 こんなことをしている間にもイガクラの前髪は湿り気を帯び、スーツの肩の部分がより黒々と変色していく。突拍子もなく傘を手放したとは到底思えぬ平静な顔で見つめてくるので、栞は意味も分からず拾い上げた柄をそのままイガクラに渡してしまった。イガクラは受け取って静かに傘を閉じた。

 はじめこそスーツが濡れることに背徳感を覚えたが、水分がカッターシャツに到達するともはやどうでもよくなった。朝じっくりと整えた前髪が額にはりつき、その先から生ぬるい雫が顔の凹凸を撫でて顎先から落ちていく。世界は静かにここではないどこかへと変容する。

 どちらからともなく走った。想像していた通り、周りの目線は気にならない。というか、そもそもでかい雨粒が次から次へと瞼付近を直撃し、視野に入らなかった。雨音の奥にイガクラの笑い声が聞こえる。



 改札内のコンビニでハンカチを買って、すっからかんの電車に乗り込んだ。人目は気にならないが、ずぶ濡れで公共交通機関を利用するのは気が引け、せめてジャケットを脱いで窓辺の席に腰を下ろした。タグがついたままのタオルハンカチで肩を拭い、窓の外を眺める。向かいのホーム、黄色い線の内側に、イガクラが立っている。ビニール傘を持っているくせに、濡れそぼっていて笑えた。小さく手を振ってみたけれど、向こうが気づく前にゆるやかに発進し、速度を上げていく。纏わりついていた引力から引きはがされていく感じがする。

 馴染みの駅でも、いつもとは違う方向へ進むだけでずいぶん景色は変わるものだ。派手なビルの看板や変わった形の民家が飛び込んでくる。久しぶりにわくわくしている。

 不思議な気持ちで手元の切符を確かめる。改札をくぐる直前、イガクラに交換してもらったのだ。ホテルより栞の家の方が遠いので金銭的に損はないだろうと理屈をこねた。イガクラは戻ってくるのにお金がいると正論をぼやきながらも、誘いを承諾してくれた。

 ほんの小さなこと。

 傘を持つ手を緩めたり、「交換しよう」と7音発したり。いつもと違う方へ、ほんの少し動いてみれば、ずっと願っていた世界に触れられる。


 もう一度窓外に目を向けると、雨は学校のプールのシャワーみたいな小粒になっていた。稜線の上にそこだけが異世界のように青空が広がっている。


 この切符に記された駅で降りて、なにをしよう。ふらりと気になるカフェに入ってもいい。イガクラが泊まるホテルを先にチェックしてもいい。そこから別の路線に乗り換えたっていい。

 問題は何も解決していない。けれど、栞にとっての夢とやらも、1ミリ向こうの非日常で見つかるのかもしれない。


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