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『くもをさがす』で気づく、自分の身体を愛する自由は私のものだ

「なにが原因なん?」

メニエール病を打ち明ける度、必ず降りかかってくる問いは、静かに確かに私の中に積もっている。


入社1年目、初めての繁忙期が終わった9月のある朝、目覚めると耳の中に梵鐘を埋め込まれたような低い耳鳴りがした。起き上がってみると頭はずしりと重く、父の「おはよう」は二重に反響する。

明らかにおかしいと感じながらも、職場に向かった。自分の足音がぼうん、ぼうんと鈍く響く。「顔が青ざめているよ」と更衣室の受付の人に止められて、同じビルの耳鼻科で診察を受けた。会計を待つ間、「今すぐ飲んでください」と看護師さんに小さな紙コップと白い錠剤を渡された。



あの一粒のおかげか、8年経った今も音を聞くことはできているが、下り坂を転がるように、再発しながら症状はエスカレートしている。

シャーッと砂嵐が吹き荒れるように、キーンとハウリングするように、ゴーッと滝が激しく落ちるように、耳鳴りは音色を変えながら、電話やマスクごしの低音をかき消す。

立ち眩みはエレベーターを降りたり、方向転換したりするだけで起こるし、時には立っていられないほどぐるんぐるんと視界が回る。

処方されたシロップ状の薬は、子どもの頃によく出されたシロップの風邪薬を夜通し煮詰めたような苦さで、胃をズキズキと刺激する。



症状が出るのは体調次第で、1年のほとんどは何の支障もなく日常生活を送ることができる。それでも異動するたびに上司には病気について話すようにしていた。病院から渡された聞こえの具合を示すグラフと、わかりやすく説明した資料を持って。

面談の第一声は、いつも原因追及だった。ろくに資料に目を通しもせず、「ああ、またほらね」とでもいうように「ストレス」の文字だけを確認して、「なにがそんなにストレスやねん」と。

歩み寄るような口ぶりでありながら、問い詰める瞳は私を人間としてではなく、「病人」という別の生き物として見ていた。


彼らには耳鳴りもめまいも難聴も、見ることができない。目に見えないもので悩んでいる私のことがわからないから、根こそぎ取り上げていく。

何度も企画書を出して立ち上げたプロジェクトを降りることになった。新しいことを始めようとするたびに待ったが入った。食べるもの、寝る時間、遊びに行く場所、休みの日の服装……一挙手一投足に根拠のないアドバイスを浴びた。

「なにが原因か」なんて、私が聞きたい。慣れない仕事、寝られない夜、同僚に掛けられたひどい言葉、職場の騒音。思い当たる節はある。でも、みんな同じ条件で働いているし、苦しいことは誰にだってある。

じゃあ、私が特別に弱いから?
甘えているから?
まっとうじゃないから?
病気になったの?

身体が嫌いだ。実績も信用も尊厳も可能性も自由も奪っていった身体が、憎い。

憎まなければ、誰に合わせる顔もない。



『くもをさがす』(河出書房新社)には、作家・西加奈子さんが移住先のバンクーバーで乳がんを発症し、心身と向き合いながら治療する日々が綴られている。

突然当たり前が奪われることのショック、弱っていく身体を見つめ続けなければいけない恐怖、覆い被さるような闇の深さ、いつ悪化するかわからない不安……。違和感から宣告、治療、手術、その後まで、「つらい」「苦しい」「しんどい」に目を凝らして、存在とは、自由とは、生死とは、幸せとは、私とは何かをとらえなおしていく。

本文中には西さんの琴線に触れた物語の一文や歌詞の一節がふんだんに引用されている。私はがんのように生死に直接かかわる病気ではないけれども、読むことに救いを見出す西さんの姿勢と、異国の夏の日差しのようなからりとした文体が、自分と重ねながら読むことを許してくれた。


同時に、ありありと描き出されるバンクーバーの医療とその奥に宿る街や人の在り方に、凝り固まっていた価値観を揺るがされもする。

カナダでは、まずファミリードクターやウォークインクリニックという総合医の診察を受けてから、紹介状を書いてもらって専門医に診てもらう。それゆえ、緊急の場合は救急に駆け込むことになるのだが、そこでは8時間、9時間待ちは当たり前だという(p.9)。

伝達ミスはしょっちゅうで、約束していたのに電話は来ないし、処方されたはずの薬がもらえないし、読みながらやきもきするシーンの連続。ただでさえ病気のことで頭がいっぱいなのに、疑問は自分から投げかけ、要望はきっぱりと伝えなければならない。


そこに追い打ちのように重なるコロナ禍。顔の見えない電話ごしに、なじみのない医療用語が容赦なく出てくる英語のやりとりをするなんて、長年勉強したイングリッシュスピーカーでもハードルが高い。両乳房の切除手術が日帰りというのには、さすがに「無茶すぎやろ!」と突っ込みたくなってしまった。

お医者さんや看護師さんはさぞ切迫しているかと思いきや、西さんが出会うひとたちはみな結構ラフな感じ。鼻歌を歌っていたり、談笑していたり、私服だったり。彼らのセリフは関西弁で訳されていて、友達のようなあけすけさとフランクさで話しかけてくる。


病気についてわかりやすくまとめた資料をくれたり、年齢にかかわらず敬語で接する日本の医療に慣れた私にとっては時に過酷にも思えるけれど、一方でそれらはバンクーバーの”対等”の精神の表れでもある。

抗がん剤治療を始めてすぐ、効果の妨げになる可能性があるからと、西さんは漢方の服用を控えるよう勧められる。だが、友人の漢方医が処方してくれる薬が彼女の心の拠り所でもあった。止めたくないと伝えると、インターンの医師はあっさりと承諾する。

「あなたの体のボスは、あなたやねんから。」(p.98)


その言葉は、まるで私にも向けられているように感じた。

たとえ医師と患者であっても人と人。求められれば必要な治療を施すが、相手のバックグラウンドや意思を尊重し、最終決定は本人にゆだねる。他人の身体をコントロールする権利はない。ましてや上司や友だち、家族にも。

 がんに罹った人は、原因を考えてしまうそうだ。暴飲暴食が悪かったんだ、睡眠不足が悪かったんだ、仕事のストレスが悪かったんだ、果ては水子の供養をしていなかったからだ、墓参りをしていなかったからだ、まで、様々に。
 でも、それは誰にでも起こる。(p.56)

病気を抱えているからといって、健康な人から自由を奪われていいわけじゃない。たまたま自分の身に起こっただけで、相手との間に隔てているものはなにもない。

それなのに私は、抵抗することもなく必死で立ち上げたプロジェクトを手放してしまった。チャンスが巡ってこなくても、主張もせずに仕方がないと言い聞かせた。原因となりそうなものを言われるがまま、制限した。

もちろん、できなくなることや迷惑をかけてしまうこともある。あきらめなきゃいけない場面は必ず来る。だけど、自分の痛みや苦しみを味わうことができるのは自分だけ。この身体を生きていくのは私だけ。決められるのは、私だけだったのに。


「カナコ。がん患者やからって、喜びを奪われるべきやない。」(p.49)


習っていた柔術とキックボクシングから離れた西さんに、看護師のクリスティは言う。あきらめろと諭されたものでも、それが生きる糧ならば、心から愛しているものならば、手放したくないと声を上げてもいいはずだ。


その判断を当事者にゆだねる姿勢は、日本でよくいうところの”自己責任”とは少し違う。治療で苦しい時、西さんは家族や友人を頼る。自分の弱さを受け入れ、きちんとだれかのもとに手を伸ばす。料理を届けてもらったり、子どもや猫の面倒を見てもらったり、病院に付き添ってもらったり。「いったん壊れるまでやってみろ」「まだ頑張れる」なんてだれも他人の苦しみを試すようなことはしない。助け合うのは当たり前。”互いの意思を尊重する”ことと”ともに生きる”ことは両立するのだと、目を開かされる。


“対等”な視線は、街の在り方そのものにも徹底している。

街が静かなのだ。それは、音がない、ということだけではなく、脅しのような広告や、ポルノ紛いの絵や写真を見ないことに端を発する静けさだった。(p.51)

電車の中吊り、ビルに掲げられた看板、テレビや動画サイトのCMなど、日本では毎日目にするダイエット機器や脱毛サロン、アンチエイジングサプリなどの広告。必要なサービスのひとつではあるが、半ば強制的に視界に入るそれらに、”理想の身体”がどういうものであり、いかにみんなが目指しているかを刷り込まれている気分になる。

先日、店頭でスキンケア用品を見ていたら、「みなさん、もうマスクを外す準備をされていますよ」と毛穴ケア用のジェルを勧められた。そりゃあ、きれいなお肌でいたいし、メイクノリが良ければ一日ハッピーだけど。なんだか毛穴まで他人のために管理させられているような気分になって、少しへこんだ。

西さんの視線を通して見るバンクーバーの街には、他人の身体を変えようとする圧力がない。誰の声にとらわれることなく、自分の身体を受け入れて生きる彼らが、私にはいきいきと輝いて映った。

私は私だ。「見え」は関係がない。自分が、自分自身がどう思うかが大切なのだ。(p.192)

西さんは、両乳房を切除すること、再建しないことを決める。手術跡の残る胸を彼女は気に入っているそうだ。

私も、いくつかの音を取り逃しても、時々平衡感覚がバグっても、懸命に情報をキャッチしようとする私のこの耳を、身体を愛しいと思ったってよかったんだ。誰になんといわれたって、自分の身体を愛する自由は私のものだ。

最後に西さんは、

いつからか、これは「あなた」に向けて書いているのだと気づいた。どこにいるのか分からないあなた、何を喜び、何に一喜一憂し、何を悲しみ、何を恐れているのか分からない、会ったことのないあなたが、確かに私のそばにいた。(p.242-243)

と書く。

これまでnoteでメニエールについて触れたことはない。刻一刻と変わる体調の中で、心の整理がついていなかったし、読んだ人が「メニエールってこういう症状なんでしょ」と決めつけて、そばにいるだれかの生きがいや尊厳を奪ってしまうことが怖かった。

でも、西さんの言葉で生じた心の波紋を、私も届けてみたいと思う。これが今、私ができる精一杯のアンサーであり、次の「あなた」へのパスとなることを願って。

◉西加奈子『くもをさがす』(河出書房新社)


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