新居の鍵を受け取った。等身大で生きていく
「私がいるから、絶対大丈夫よ」
葉桜が光と踊っていた。風に吹かれ、帽子が飛ばされそうになる。自分から探そうと思わずとも、春になると視界には花が差し込んでくれた。花壇に植えられたチューリップを見て、あなたは顔をほころばせながら笑っている。
私はふと見上げた。
空が青い理由をたしか昔勉強した気がするが、もう、忘れてしまった。あなたと出会うまで、私はそもそも空の色なんて確認していなかったように思う。空が綺麗だという感想すら、いまいちピンときていなかった。
ただ今なら思う。泳ぎたくなるような綺麗な「青」だ。
「これからずっと一緒にいられるね」
私が空のことをうやうやと考えている最中、恋人はいつものように笑っていた。本当によく笑う人だ。だけれどそのぶん、不安なときはわかりやすくしおれた表情を見せ、哀しいとき、たくさん涙を流してくれる。喜びにも段階があって、とびきりの日には、あたたかい水滴を瞳に滲ませてくれた。
恋人の背景に何が映ろうと、全てが似合った。街も花も緑も太陽も風も空も、なんだって着こなしていた。こんな人が白いドレスを着たら、いったいどうなってしまうのだろう。
・・・
「待ってましたよ」
にこやかに迎えてくれた管理人さん。
なんだかもう勝手に自分の"おじいちゃん"くらいの接し方をしてしまいそうだ。とはいえ礼を欠いてはいけない。渡される鍵を確かに受け取り、紙にサインをする。もう私は30を過ぎた歳だというのに、この湧き出る想いは新鮮そのものだった。新生活、春。どれも甘美で、透き通った硝子玉のよう。
受け取った鍵で自分たちの部屋を開ける。何度見ても良い部屋だ。高級物件でもないし、新築でもない。ものすごい設備があるわけでもない。ただ自分たちが納得のいくところに落ち着けた、それが"良い"と思う意味だ。
入居前に、管理人さんと傷のチェックなどをする。丁寧に、大事に使おう、過ごそうと改めて思う。窓を開け、扉を開け、なんだって愉しい。部屋中の窓を網戸にしたときの突き抜けるような開放感はきっと、今この瞬間しか味わえないと思い、私は胸の中に静かに吸い込んでいた。
「じゃあ、これからよろしくね」
管理人さんは部屋をあとにした。
私たちは部屋に残り、もう少し満喫しようと思った。「満喫」と言ってもまだ何も荷物も家具も家電も置いていない空間だが、なんだってできる。笑みが溢れ、絡み合う。
カーテンだけ先につけておこうと思っていたので取り付けてみたが、ご覧の有り様。
前の住居で使っていたものを持ってきたのだが、やはり、といった感じだ。私たちはお腹を抱えて笑った。なんだってよかった。なんだって面白かった。なんだって幸せだった。
こんな感情は皆、中学や高校くらいで卒業しているのかもしれない。私はやっと今年入学した、この気持ちに。
30年以上かかった。「現在の幸福」というのは、過去すべてを、川のせせらぎのような音とともに瑞々しく、穏やかにしてくれた。
・・・
新居の鍵を受け取り、私たちは恋人の家に帰った。引っ越し作業をしたり、ふたりで新居に住むのは、またお互いの休日を合わせた別日にする予定だ。
春もあっという間に終わる。
これから先のひとつひとつの幸福も、きっとあっという間だ。だから掴んで、噛み締めたいと想う。
流れるすべての風が、音色のよう。
私は会社に行ったり、街に繰り出せば相応の大人に見えるだろう。だが私は恋人の家に泊まり、胸の中で幼稚に眠った。恥ずかしいことだろうか。私にはよくわからない。多少愚かに見えるくらいでいい。誰とも比較しない、私たちだけの、私たちだけにわかる幸せがあればよいのだ。
・・・
私が鬱病になり、パニック障害になった過去。何もできなかった。何も目に映らなかった。何も輝かなかった。そんな中から抜け出すのに10年かかった。いや、もしかするとまだ抜け出せていないかもしれない。
やっと、ほんの少し「頑張れる」と思い、就職活動をし、今の職場に行き着いた。そこで出会ったのが今の恋人だ。
恋人は私の過去も現在も未来も、なんだって聴いてくれた。なんだって知ろうとしてくれた。私がずっと好意を伝え続けていただけだったのに、たくさん私の方を気付けば向いてくれた。
ずっとうまく働けなかった。ずっとうまく寝られなかった。ずっとうまく食べられなかった。今ほんの少しだけ、うまく生きられるようになった。
・・・
ふたりで眠り、ふたりで目覚める。
幸福な文章というのは至極つまらないだろう。人は幸福だけでは涙しない。そこに努力が詰まっている必要があるだろう。
私は愛するとともに、これからも血の滲むような日々を歩む。なんだって乗り越えられるように。けれど、乗り越えられないものがあってもいいと、私は恋人に伝えたい。
「隠さないでよね」
そう言って恋人は私にいつも涙を携え、少しおこってくれるのだ。私は愛するために無理をしてしまうから。この「無理」を、どうか墓場までと思うのだが、すぐに恋人にばれてしまう。私も相手の「無理」にすぐ気づいてしまう。
本当に好きだ。私がどれほど鬱々な過去を過ごしていたことを知ろうと、あなたは抱きしめてくれた。これ以上ない救いだった。
朝日を浴びた木々が揺れ、小鳥のさえずりが心地よい。寝起きのあなたが、純白を帯びた可愛さだった。
すべてが愛おしい。
今だけかもしれない。いつか何にも感動できなくなるのかもしれない。私の文章を読んで、「青い」なと思う方もたくさんいるかもしれない。
ただこの青さを忘れてしまえば、泳げなくなってしまうよ。ちいさな幸せを泡のように集め、私たちはどこまでも飛んで、泳いでいきたい。
晴天。「雨」が人生で長かったからこそ、こんなにも「青」が美しい。美しいと思える今に、額が地面につくほど、感謝したいと想う。
どんな最期になろうと、私は「今」に、後悔しないと誓った。
詩旅つむぎ
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