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さすがに私もう会社員無理。だとしたら——



 自分で言うのもなんだか、私は結構明るい人間である。

 職場ではあらゆる人に声かけできるし、上司とも後輩とも卒なく気分良くコミュニケーションを取れる自負がある。荷物を届けてくれた配達員さんと談笑できるし、キッチンカーのお兄さんと「今日も暑いですね」なんてにこやかに会話できる。

 だがどうしてだろう。私は青い空を見上げただけで涙が零れてしまう人間のようだ。


 ・・・


 私は現在、人生で二度目の休職をしている。

 初めての休職は、新卒で入社した会社だった。出勤途中、過呼吸と手足の痺れにより、道端でぶっ倒れてしまった。思えばあの頃も、うだるような暑さであった。「こんな時に熱中症になっちゃうなんて」と勘違いしていた私は、気づけば病院のベッドで横になっており、父が私の手を強く握り、目を滲ませていた。

「大丈夫。お前は大丈夫だ」

 そう父は言っていた。そりゃあそうだろう。熱中症なんて、いっときのものだ。確かに重度であった場合困るが、まあ、じきに治るでしょう。まったく、大袈裟だなあと。


 思っていたのに。

 思っていたのに、私の方が泣いていた。


 泣いて、いたのか?

 わからない。とにかく伝っている。水滴が。私はこんなにできない人間だったんだ。小学校のテストで百点をたくさん取れるような、いい子どもだったのになあ私は。学級委員なんかやっちゃってさ。真面目だねって言われてさ。困った時はみんな私を頼ってくれてさ。

 あれ。

 あの時私は本当に頼られていたのかなあ。もしかして、押し付けられていただけなのかも。優しいねと言ってくれたあの子にとって、私はただ都合がいいだけの人だったのかも。真面目だねとか言われて学級委員をしていたのも、本当はただ馬鹿にされていただけなのかもしれない。



 そんな私は大人になって、パニック障害になった。

 私は"不安"を強く感じやすい。仕事が不安だ。生活が不安だ。相手の気持ちが不安だ。責任が不安だ。自分の言葉が、相手の言葉が不安だ。

 するとどうだ。手足が震えてくるのだ。喉の奥が詰まっていき、息ができなくなっていく。呼吸が荒くなり、歩くこともままならない。


 不安が募り、私は会社に行けなくなった。道端で倒れ込んでしまった。アスファルトと一体化してしまうくらい心が溶けてしまった。

 あれから10年の間、私はずっと誤魔化してきた。何故なら、そうでもしないと生きていけないからだ。本当はいろんな制度を使っていけば最低限、生きていけたかもしれない。ただ私が思う「生きているライン」を下回りたくなかった。あなたと同じような人は、この世にたくさんいるよと、そう言われても私の救いにはならなかった。私の人生は、私が救ってやらねばならなかった。同じような人がいるというのは、微々たる、瞬間的な麻酔であった。

 休むことは無価値であり、止まっていることは衰退であった。どうしてあの人ができていることが、私にはできない。みんな笑っている。馬鹿にしているんだろう、内心。使えない人間なのに、のこのこ来ちゃって、ごめんなあ。私みたいなものはごはんを食べる資格もないし、笑顔でいる権利もない。だって無能だから。手足が震えて、過呼吸になってしまうような人間が、社会で役に立つわけないでしょう。涙が突然溢れてしまうような人間が、カネをいただきたいなんて、蛆蛆するな。




 思えば私を傷つけてきたのは、いつだって私だった。


 10年前のあの頃も、今も、皆やさしかった。誰かの都合でもない、本来のやさしさだった。言われていないのに、言われることを想像した。ある意味それは私が一番、誰かに対して攻撃的だったのかもしれない。驕っていたのかもしれない。腐敗したプライドがあったのかもしれない。

 たしかにつらいこともあった。悪のような人間もいた。だが自分が正義だったかと問われると胸を引っ込めてしまう。誰かを優先した気になって、自分は不幸なツラしてさ。不憫だよなあ、私。おいおいもう辞めてくれ。止めてくれ。私は私を救おうとしたのに、どうして上手にいつもできないのだろう。私は自分をやさしい人間だなんて思わない。でも皆、私のことを特にやさしいと言う。すごい、と言う。だからか私は、青い空を見上げただけで涙が零れてしまうのです。


 ・・・


 二週間ほど前、私は会社に行けなくなった。あの頃みたいに。

 周りは優しくて、あたたかかったのに。私は私を傷つけることを、10年経っても繰り返してしまった。

 出勤する途中、涙が溢れて止まらなくなってしまう。苦しくて、つらくて。ただその苦しさを言語化すると、また心が縛り付けられるような気持ちになる。

 それはなぜか。自分がちいさなハードルで躓いているからであった。小石にぶつかり、心が怪我を負った。情けない、恥ずかしい、悔しい、惨めだと感じた。"こんなこともできない自分"を嫌った。皆が当たり前にできている仕事をこなすことを望んだ。挑戦した。けれども身体が固まり、頭の中が真っ白になった。

 そうしていくと、人間の心の回路は少しずつ合わなくなっていく。合っていないことを無視し続け、それでもまあ適当に動いてしまうのが人間であった。

 しかし当然、結果はわかっていた。私は今回休職に至るずっと前から「またきっと駄目になるだろうな」と思いながら動き、働き続けていた。結局こうなった自分に安堵、疲弊、殴打を見た。

 馬鹿の一つ覚えみたいにさ、倒れちゃって——




 どうしたらいいのだろう。

 さすがに私もう会社員無理だ。何回も今まで退職した。転職した。アルバイトもいくつも経験した。今休職した会社も、なんとかアルバイトから始め、正社員までこぎつけていた。だが今どうだ——


 現在の私。

 今何をしているか。

 休職に至り、また家で塞ぎ込んでいる——


 だけではなかった。


 今回は"なぜか"違った。


 私は『毎日散歩、外で弁当食べおじさん』になっている。



「?」


 どういうことか、写真を見てもらったらわかりやすいかもしれない。



浜辺弁当
海弁当
公園弁当
池弁当
水路弁当
高台弁当
花弁当
遊具弁当



 私は"なぜだか"、最近、自分のために弁当を作っている。

 元々、今の会社に勤め始めた際、節約のために始めた弁当作りであった。

 30年と私は料理に無頓着であったが、それでもやってみた。ちなみに弁当作り初日の弁当がこれ↓である。今年の5月とかだったと思う。


初日弁当



 かなりの成長を感じる。(個人的には)

 同時に、初日の愛おしさや嬉しさも捨てがたい。

 私は想像していなかった。料理をするような人間になることを。

 ひとつの「達成」に日々感動した。このちいさな箱に、食べ物を入れていく幸福は凄まじいものであった。そして出来上がったものを、仕事の合間に食す。これが自分への適切な愛ではないとしたら、私は愛がわからなくなってしまう。

 パニック発作が起き、出勤途中の電車で降り、ホームでうずくまってしまったとき、私は自分の弁当を咄嗟に守った。これほど会社に「行けない」と思っても、私は毎日弁当を作っていた。今日もそれなりに働けることを願ってか、はたまた、体が勝手にいつものように作ってしまっただけか。

 どちらでもよかった。

 会社に行けなかった日、外でひとり食べた弁当は美味しかった。美味しいと感じる自分の緊張は少し緩んでくれた。そして、くだらない涙がまた一滴、一滴と溢れる。いや、くだらないなんて、言うものではないな。



 私は本当に頭が悪い。

 自分のことをいつだって後回しにする。自分が悪者になればいいと思っている。自分だけが傷つくことになればいいと思っている。自分は意見を言わない。誰かの傷は見たくない。誰かの涙も見たくない。苦しくて、つらいことは、私が変わってあげたい。私は、誰のことも傷つけたくない。傷つけたく、ない。

 誰かの「刃」が怖かった。

 些細な一言で傷ついた。自分を本当は一番優先したかった。だって弱いから。自分が悪者になることを酷く恐れた。誰かに嫌われるのが怖かった。真面目と言われて、本当は安心していた。無害と言われているみたいだったから。自分の意見はなかった。誰かの傷を見て安心した。みんなそうなるよねと理解したかった。誰かの涙を撫でた。大丈夫、大丈夫と言って相手の背中を温めた。出てくる言葉全て、私が私に言ってあげたい言葉だった。でも変わらず、誰のことも傷つけたくなかった。けれども、倒れてしまうことは、相手の安息を奪う行為であった。ああ。でも結局、倒れてしまったのです。


 ・・・


 本当の理由を実は知っている。

 これほど弁当を作っていられたのは"なぜ"か。

 私は今休職している会社で、のちに結婚に至る妻と出会った。天真爛漫で、どんなときでも輝き、私に光を与えてくれる人だった。

 初めてパニック障害になってから何年もの間、ずっと恋も愛も忘れていた。結局、生きなければいけないじゃないか。結局、誰も助けてくれないんじゃないか。結局、自分でどうにかしてやらねばならない。そうしてやっと辿り着いた職場が今であった。

 そこでずっと、私を待っていてくれたみたいに、妻は笑っていた。おいでと言ってくれた。抱きしめてくれた。だから、一緒に住み始めたとき、あなたのために弁当を作りたいと思った。自分のためにとか格好をつけたが、本当はあなたの喜ぶ顔が見たかっただけだった。あなたは私が一番喜ぶ選択をしてほしいとよく言うが、私は"あなたが"一番喜ぶ選択が幸福であった。それは自分の人生を生きていないように見えるかもしれないが、そう解釈されたっていい。

 妻は今、転職し、私とは別の職場で働いている。

 私は休職しているが、妻は変わらず働きに出ている。私は寝込んでいても良いのかもしれないが、毎朝妻とともに起床し、弁当をいつも通り作り続けた。

 "せめて"弁当くらい、作り続けたかった。

 会社に行っていなくて楽をしているのだから、時間があるのだから、弁当くらい作れて当たり前だ。それくらいしてもらわなければ困る。

 ただ別に、そう妻に言われたことなど一度もない。その類いの言葉すら、言われたことがない。誰かの言葉、気持ちがあれほど怖かったのに、妻のことだけは安心できた。だから結婚したのだけれど、それでも後ろめたさだけは巨大にあった。


 心の病気は、目では見えない。怠惰にも見えるだろう。元気でいることが罰にも思える。だったら働けばいいのだから。

 この手に、身体に力が入らない感覚は、誰かと共感できるものではないのかもしれない。だからこそ今の自分の心を伝えるのが怖かった。


 私は毎朝弁当を、妻の分と自分の分と今も作り続けている。妻は私の弁当を会社で食べ、私は外にとりあえず出かけ、弁当を食べる。

 朝、弁当の中身は妻に見せないようにしている。「今日もばっちり作ったからね」と伝えると「今日も楽しみ!」と快活に笑ってくれた。



 せめて作るよ。

 せめて掃除、洗濯、買い物するよ。

 だってこれは、誰だってできることだから。


 私はパニック障害で、愛する妻がいても、それは治らなかった。私はひとりではないのに、倒れてしまった。ひとりで闘っている人も世の中にはたくさんいるのに、私は、弱い。妻がいるのに倒れてしまった自分に、悔しさを覚えた。

 すぐ比べてしまう。私は比べるのと同時に、誰かを見下してしまっているのかもしれない。やさしいねなんてよく言われるが、それを信じられない自分はよく気づいているからだった。

 それでも私は相手にとっての"やさしい"をいつだって想像した。酷く泣いてきた分、私は誰かの涙にいち早く気づく。それが本望であり、生き甲斐でもあった。



 私は作るよ。愛する妻に向けて。

 妻は「今日もお弁当ありがとうね」と。とても笑顔で、元気よく。私は倒れてしまったのに、あなたは私のそばに変わらずいてくれた。

 ありがとうに、私は言葉を返した。



「"こんなん"でよければ、いつでも作るよ」と——



 窓の外から風の音が聞こえる。

 妻の動きがぴたりと止まった。どうしたの?と思った。

 にがい顔を妻がしていた。ちょっと!と言わんばかりの表情。妻は言った。


「"こんなん"とか、言わないで!すごいんだよ!美味しいんだよ!このお弁当があるから、私は仕事が頑張れるんだよ!!人生が頑張れるんだよ!!今日も頑張ってよかったって思うんだよ!!こんなん、じゃ、ないよ!!!」




 私はぎゅっと目をつむる。

 休職の後ろめたさと、妻の愛情が混ざり、私はおろおろと泣いてしまった。


 私は"不安"を強く感じやすい。仕事が不安だ。生活が不安だ。相手の気持ちが不安だ。責任が不安だ。自分の言葉が、相手の言葉が不安だ。

 するとどうだ。手足が震えてくるのだ。喉の奥が詰まっていき、息ができなくなっていく。呼吸が荒くなり、歩くこともままならない。私のそばから、妻が離れていってしまうかと不安だった。だから"せめて"と言った。"こんなん"と言った。言ってしまった。


 私は嬉しいだろう。

 私のために弁当を作ってくれる人がいたら。どんな相手であろうと嬉しいだろう。この弁当はすごい!って、美味しい!って、ありがとうって何度も伝えるだろう。簡単じゃない。当たり前じゃない。

 私は職場で、どんな相手にも思っている。やってくれてありがとう、私を助けてくれてありがとうって。その仕事は、私にできることであったり、私にはまだできないことであったりする。ただどれも私は深く感謝した。誰にでもできる仕事なんて、この世には存在しないといつだって想っている。一度できたことは、必ず二度目、できると信じたことなんてない。もう一度、できてくれて、やってくれてありがとうと思っている。メモを取ってくれてありがとう。忘れたら、また聞きに来てくれてありがとう。一緒に仕事をしてくれてありがとう。ひとつの案件を協力してこなせた、だから、ありがとう。ありがとう——



 私は誰にだって感謝、できたと思う。ひとりを除いて。それは自分だった。私は私に感謝できなかった。私は弱いから。何もできないから。頭のてっぺんから雑に体を押し込むようにして自分を下げた。出来損ないで、自信がなかった。そんなことを考えていると、またこうして文章を書きながら、涙が止まらなくなっていく。




 私は、すごい弁当を作っていた。


 美味しい弁当を作っていた。活力になる弁当を作っていた。幸せにする弁当を作っていた。妻が喜んでくれなかった日は、一日たりともなかった。私は今、そして今まで、できてきたことがたくさんあった。数えようと思えば、いくらでもあってしまった。何もできないと思っていたけれど、私はできていたから、ここまでやってこれたのだろう。

 倒れてしまったのは、いつだって最悪のゴールではなかった。些細な過程でしかなかった。ただもう何度も、足を、心を挫いてきた。さすがに私はもう会社員が無理だろうと思っている。だとしたらと思い、私は日々文章を書き、自分と向き合っている。


 文章だけは心の底から好きと言えた。

 自分で言うのもなんだか、私は自分の文章がとても好きだ。

 どれほど拙く苦かろうが幸福であった。同じつらいだったら、悦ばしいほうを選ぶべきだ。そして、好きなことを仕事にするべきだ。そうして選び続けていたら、その好きが砕けるときも必ずくるだろう。せめてなんて言わない、こんなんとも言わない。

 私が望む道、行動、選択をし続ければ、私は私を好きでいられるかもしれない。仮に好きな仕事ができなかったとしても、"好きな自分"でいられるかもしれない。私は人一倍泣いてきたから、誰かの涙にいち早く気づきたいなんて思っていたけれど、私はそもそも自分の生き様にまず感謝せねばならなかった。自分を幸福にできないのに、誰かを幸福になんかできっこない。


 無駄な仕事なんてない。無駄な生活なんてない。同時に、全員にとって有益なこともない。

 私が過ごしている日常全てが、尊いものであることを認めよう。自分の選択に自信を持とう。受け取る相手に、それこそ失礼ではないか。自分の仕事、行動、生活に胸を張れなければ、会社員うんぬん、何をやっても詰まり、動けなくなるだろう。

 こうして今、文章を書いているときがとても幸福だ。消去法で文章の世界は選ばない。働かずに、こんな文章書いててごめんとか、せめて文章書いていようなんて思わない。気づいたら書き上がっていたこの文章。尊く、まずは自分で抱きしめてやりたいと想う。弁当を作るのが愉しい。



 今日も青い空であった。

 見上げて涙は、零れなかった。


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